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宿題を毎日出すことに対する正直な意見

宿題を毎日出す教員がいる。

高校ではあまり多くないと思うが、中学校ではやや多くなり、小学校ではむしろそれがありふれた光景だといえるだろう。

生徒たちは毎日朝から学校へ行き、授業を受けたあと、帰宅し、また机に向かって宿題をこなす。

学校のルールとして宿題を毎日出している教員や、当たり前のように宿題に毎日取り組む我が子を見ている保護者も、たくさんいるはずである。



さて、宿題を毎日出すことに、なにか意味はあるのだろうか?



まず、宿題の内容を考えたい。

毎日出すとなると、手の込んだ内容は避け、書き取りや計算や音読など、単純な反復練習がメインになりやすい。

個々の学力にかかわらず、誰でも時間を費やせば難なく取り組めるため、学習の姿勢を定着させることが目的だといえるだろう。



次に、宿題の形式を考えたい。

生徒自身で完結する場合もあるが、特に小学校では、保護者が採点をしたり音読を聞いたりして、子どもと保護者の連携によって宿題が完結する場合も珍しくない。

保護者参加型にすることで、保護者に進捗状況を把握させたり当事者意識を持たせたりすることが目的だといえるだろう。



以上により、宿題を毎日出すことの意味は次の2点にまとめられる。

1.学習の姿勢を定着させること
2.保護者参加型であれば保護者に進捗状況を把握させて当事者意識を持たせること


どちらもすばらしいことだ。
立派な意味があるじゃないか。

と、思うひともいるかもしれない。
でも果たして本当にそうなのだろうか。



まず、1点目(学習の姿勢を定着させること)の先には、学力を向上させるという大きな目的があるはずだ。

しかし「めんどくさいけどやらないと怒られるからやるしかないよなあ」と思いながらしかたなく宿題に取り組んでいる生徒たちは、いずれ、本当に学力が向上するのだろうか。
きっとあまり変わらないとわたしは思う。

もし「うちの子は毎日の宿題を楽しそうに取り組んでいるから学力も向上した」と思う保護者がいるとしたら、それはきっと、もともと学力が高く、尚且つ宿題が好きだから楽しんでいるというだけのことであり、因果関係が逆なのだ。

つまり、学力の高い生徒は宿題を毎日出されなくても勉強ができるし、その反対に、学力の高くない生徒は宿題を毎日出されても勉強ができるようにはならないのである。

勉強は量よりも質が大切だ。

よく耳にするエピソードとして、「1時間机に向かって漢字の書き取りをしなさい」などと指示する保護者は、自分自身が勉強に苦手意識を持っていてどうすれば学力が向上するのかわからないためとりあえず量を求めてしまう、というものがある。

いくら量(反復練習のような宿題)を蓄積しても、そこに質が伴わなければ意味はない。

したがってわたしは宿題を毎日出すことが学力の向上に結びつくとは思えない。



それならどうすれば学力は向上するのか。

答えは簡単である。

学力を向上させるためには勉強を楽しむ気持ちが絶対に必要であり、その楽しむ気持ちを教えるものは教員による毎日の授業にほかならない。

したがって、学習の姿勢を定着させて学力を向上させたいのであれば、宿題を毎日出して量を蓄積するのではなく、質の高い授業を毎日楽しみながら受けさせて良い意味で調子に乗らせるほうがはるかに効果的だろう。



なお、こんな意見もあるかもしれない。

1点目(学習の姿勢を定着させること)の先には、学力の向上ではなく、将来社会人になってからめんどうなことでも毎日きちんと取り組む姿勢を身につけさせるという大きな目的があるのではないか、というものである。

しかし、めんどうなことでも毎日きちんと取り組む姿勢は、毎日学校へ通うことですでに達成できている。

毎朝早起きをして、苦手な科目の授業も受け、友人や教員と関わり合いを持つという経験から学ぶことはとても多く、すべて将来のためになるといえるだろう。



次に、2点目(保護者に進捗状況を把握させたり当事者意識を持たせたりすること)だが、それを叶えるのであれば、毎日である必要性をわたしは感じない。

保護者参加型の宿題を出すなら、せいぜい週1回(金曜日)だけでよいのではないか。

保護者も暇ではない。
朝から晩まで働いていたり、幼い子を育てていたり、介護をしていたりと、それぞれにさまざまな生活環境があるだろう。

採点をしたり音読を聞いたり、そこまでいかなくともやる気のない子どもに「早く宿題しなさい」と促したりすることが日課になると、負担に感じる保護者も少なくはないだろう。

それに、毎日の進捗状況を確認したいと思う保護者は、わざわざ宿題など出されなくても、ノートやプリントをこまめに確認しているはずである。



最後に、教員のことを考えたい。

毎日宿題を出すと、教員は毎日それを見て、返却しなければならない。

高校や中学の教員であれば、授業のない空き時間に職員室へ戻って見ることもできる。

しかし小学校の教員は空き時間がろくにないため、休み時間などのわずかな隙間を利用し、教室で見るしかないだろう。

あまりにも負担が大きい。
とはいえ負担に見合うだけの効果があればまだしも、先述のとおり効果はさほどないとわたしは思うため、それではあまりにも時間がもったいない。

休み時間のあいだ、教員は焦った雰囲気を醸し出しながら大急ぎで宿題を見るのではなく、顔を上げ、生徒たちの様子を観察したり生徒たちと会話を交わしたりしてほしい。

これは担任に我が子のことをよく見てほしいと願う保護者もおなじ意見を持つはずである。

教員にとってなにが大切なのかと考えてみれば、ただ量を蓄積する宿題よりも、生徒との交流や生徒の状況把握のほうが、比にならないほど大切だ。

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余裕を持ってボーッとする時間こそ、生徒から話しかけられる絶好の機会なのである。



もちろんわたしも宿題を出す。

それは必要なタイミングで必要な宿題を出しているのであり、回収した宿題はしっかり確認し、場合によってはコメントを添えて返却している。

だからすべての宿題を否定するつもりはもちろんない。

わたしは毎日出すという、いわば儀式化された宿題に、以前から疑問を抱いている。

本当に意味があるのか。
意味があるとしてもそれはほかのことを失ってでも求めるほどの意味だといえるのか。

いまいちどよく考えてみたい。

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