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〈教員から支援級を勧められたら〉迷う保護者と、通った生徒の感想

ある日、保護者は教員から、次のように伝えられたとする。

「お子さんに検査を受けさせて特別支援学級を検討したほうがいいかもしれません」

(以下は特別支援学級を「支援級」と書く)

教員の言葉を聞いた保護者のほとんどは、すぐに受け入れることができず、胸中に疑問や葛藤を抱くのではないだろうか。



もしかすると保護者によっては「本当にその必要があるのか?(教員に我が子の何がわかるのか?)」と感じるかもしれない。

たしかに教員は家族ではないので、生徒自身のことを誰よりも知っている保護者には到底かなわないし、また、医師ではないので、検査をしたり診断を下したりすることはできない。

しかし、学校生活のなかで客観的な視点で生徒の様子を観察することに関しては、誰よりも長けていて専門性を持っている。

そのため学校生活のなかで生徒の様子を観察し、学年主任や、時には管理職とも共有しながら、本人に困難が生じていることが明らかであると判断する。

その判断に余程の確信を持った場合のみ、保護者に対して、生徒の検査を促したり支援級を提案したりするのである。

保護者が支援級に対して拒否感を示しそうな人柄であれば、教員はどのように伝えるべきか慎重に考え、緊張感を持って臨むことになる。

したがって「教員から見てなんとなくそう感じるから」という程度のあやふやな動機で伝えることはまずないだろう。

わたしの知る限りだと、教員の間違いであり本当は支援の必要がなかったというケースは、今までに一度もない。



では、次に「我が子には支援の必要がありそうだ」と認識した保護者であればどうだろうか。

もし、検査結果で迷う余地もないほど明らかな数値が出ていたり、もしくはこれから小学校や中学校へ入学するタイミングだったりすれば、比較的、支援級へ通うことを受け入れやすいかもしれない。

しかし、検査結果がいわゆるグレーゾーンの範囲であったり、もしくは今まで通常級(普通級)へ通っていたのに途中で支援級へ転級しなければならなかったりすると、決断は難しくなる。

我が子は通常級の子たちと仲良くし、楽しそうに過ごしている。
授業につまずいているとしても、特に不満を訴えたことはないし、改善も求めていない。
支援級へ通い始めたら劣等感を覚えて、自信を失くしてしまうのではないか。

などなど……
保護者は考えれば考えるほど頭を抱え、なかなか結論を導き出せなくなってしまうかもしれない。



しかし未来は誰にもわからない。
あらゆる可能性を想像したところで、はっきりとした正解が浮上するわけではない。

要は何を優先するか。
何のために決断するか。


そのことに尽きるのではないだろうか。



わたしは高校の教員であり、特に、学校生活に困難を抱えがちな生徒と多く接してきた。

小中学生のころに支援級へ通っていたことのある生徒もたくさんいるし、通常級から支援級へ転級した生徒もいれば、支援級から通常級へ転級した生徒もいる。

生徒たちは当時を振り返りながら、たくさんの話をしてくれる。

そのためそういった生徒たちとの関わりを通して、わたし自身が知ったことについて書いてみたい。



まず、通常級から支援級へ転級し、両方の学級を体験した生徒がよく口にする言葉はこれである。

「通常級は勉強がわからなくてつらかったけど、支援級になったらわかるようになって嬉しかった」

「通常級の授業はいつも黙っていて、ただ黒板の文字をうつすだけだったけど、支援級になったら積極的に発言できるようになった」

状況や表現はそれぞれ違えど、わたしはこういった言葉を、何度も何度も聞いたのである。



そのたびにわたしは再確認する。

授業は基本的に勉強をする時間だ。
勉強がさっぱりわからなければつらい。
勉強がわかるようになれば嬉しい。

誰にでもすぐに共感できる単純なことであり、尚且つ、最も大切なことである。



たとえ通常級へ通う子ども自身がつらいと訴えていなくても、どうにかしたいと求めていなくても、それはいまの授業が当たり前になっていて、他の授業を知らないからだ。

支援級へ通うことで、わからなかった授業のつらさに初めて気づき、そしてわかる授業の喜びを初めて感じる。

支援級へ通うことは、自信を失うことではなく、むしろ、自信をつけることに繋がっているといえるだろう。

「支援級へ通うことになって自信を失った」というケースは、実際、保護者が懸念するほど見受けられないはずである。



そもそも発達障害や知的障害という枠組みに対しても、保護者より当事者のほうがすんなりと受け入れる傾向があるのではないか。

発達障害や知的障害の当事者は、事実を知ったとき、落ち込むよりも、むしろ困難の原因がわかってスッキリするケースのほうが多いようにわたしは思う。

これは以下の記事の内容もすこし関連している。

発達障害や知的障害と聞いても、本人はあまり悲観的になっていなかったり、現代はさまざまな情報があふれているため実は本人もなんとなく気づいていたり、原因がわかれば対処法を見出せるはずだと前向きに捉えたりする。

それは支援級に対しても、おなじことが言えるのかもしれない。



最後に当たり前のことを書く。

何を優先するか。
何のために決断するか。

答えはすべて生徒自身なのである。

両親でも兄弟姉妹でも祖父母でも親戚でもなく、生徒自身を優先し、生徒自身のために、支援級へ通わせるかどうか考えるべきだ。



支援級を経て高校生になったころ、もし、当時の学校生活に充実感を覚えているとしたら、まさにそれこそが求めるものであり、それにまさるものはないはずだ。



ただ、例外についても書いておきたい。

支援級へ通っていた生徒たち全員が充実感を覚えているかというと、そうではない。

かなり少数ではあるが「支援級へ通いたくなかった」「嫌だった」という感想も聞いたことがある。

では、支援級に対してマイナスの感想を持つ生徒に共通することはあるのだろうか。

次の記事では、その共通することについて、わたしの経験をもとに書いていきたい。

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