「哲学の使い方」をさらに考えてみた。
先日noteに書いた「哲学の使い方」について、もう少し考えてみたい。
今、「専門家」と呼ばれる方々の学問は、その専門家度合いが行き着くところまで行っちゃってるようで、これは例えですが、「胃がんのとこは分かるけど、肺がんについてはあの人に聞いてね!僕は専門外だから」というレベルらしい。
自分の限りなく狭い専門分野にはとことん詳しいが、少しでもそこから外れた分野には知識も関心すらないと聞く。
僕は学者じゃないので、間違っていたらごめんなさい。
でも、当たらずも遠からずってところじゃないかなと思う。
哲学的な問いというのは、もっと全体的なもので、「生きるとは何か」「幸福とは何か」というような問題は、物事をもっと全体的にみる視点を持たないと議論できないんだろうと思う。
そういう全体をみる人がいないと、「木ばかりみて、森をみない」ってことで、重要な問題が誰にも気づかれずに、スルーされたり、間違った手法をやり続けるというリスクがあるんじゃないでしょうか。
例えば、癌だって、突き詰めて考えれば、「死とは何か」「生きるとは何か」という問いに行き着くんだろう。
いろんな分野でリーダーになる方々には、全体を俯瞰的にみることができる能力を持っていてもらいたいものです。
もう1つは、みんな、深く考えることをやめすぎていないかと思う。
社会全体の流れが速すぎて、みんな「Why」を考える暇もなく、「How To」ばっかりになっていないか。
そんな問題意識を僕は持っている。
「哲学の使い方」では、「知っていることは知らないように、知らないことは知っているように議論する」というフレーズが出てくるが、当たり前だと思っていたことを、一度立ち止まって、もう一度、深く考える、あるいは、よくわからないけど、大事なんじゃないかなぁって思うことを、じっくりと深く考える、そんなことが必要なんじゃないだろうか。
テンポ良く、分かった気になることは、気持ちいいし、周りからも「切れ者」と見られるかもしれない。組織で仕事をするには、そういうやり方が必要なことも分かる。いつまでもダラダラ考えていたら、仕事にならないし。
でも、全体を見て、分かっていると思っていることを疑う気持ちを持っているのと、いないのとでは、組織で同じ決定をするにしても大きな違いが出てくると思う。
だから、仕事とは違うフィールドで、自由な立場で物事を深く考え続けることができる場所を持つことが大事になってくるんだろう。
その1つとして、哲学者の鷲田さんは、「哲学カフェ」を紹介されたんだと思う。
僕の近くで「哲学カフェ」やってないかなってググッたら、ありました!
月末に開催されているようなので、今度参加してみたいなと思います。
もし、参加したら、また感想をnoteに書きますね!
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