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國體の終焉のはじまり

まずは眞子殿下、そして小室さんの結婚を祝いたい。これは二人の幸せと言う観点だけで見れば実に喜ばしい話だ。本心からそう思う。

しかし、失うものも実に多い。

それを整理したい。予め断っておくが、眞子殿下や小室圭さんにその責任は殆どないと考えている。殆ど、なのは結局引き金的な役割を担うことになったからであり、構造的、本質的な問題ではないからだ。

國體とは右翼の専売特許ではない

まず、ノンポリな方々からしたら、國體(しかも旧字体だから尚の事)なんて言葉は、前近代的で、非科学的で、封建主義的で、自由と真逆の迷信だと思うかも知れないが、それこそ不勉強が齎す迷信だと断言したい。

國體とは、唯一無二の皇室が存在し、それを国民が支え、相互の価値を認め合い、尊重し合うことにより、国家国民の強固な連帯を生み出し、国を豊かにしようと言う極めて健全な愛国心の思想であり、また実践のことだ。

そもそも、所謂リベラリズムが大切にする、自由や多様性と言う思想は、国家と言う個人を一方では超越し、一方では作り上げた概念が確固として存在しなければ成り立ち得ないものだ。

国家が軍事力、貨幣発行権、徴税権、立法権、行政権、司法権、警察権、その他諸々を掌握することによって初めて、自由を享受することができるのだ。そしてその国家には正統性がなければならない。この国を統治するに相応しい根拠を。

それが無いと、例えばアジアの国々のように、「我こそは正統な統治者だ」と名乗る者が軍事力を行使して軍事政権を敷くことは珍しいことではない。

そんなことになれば外国勢力も介入し、自由どころではなくなるのだ。

最近のアフガニスタンやシリア、ミャンマーにスリランカのようにとてもじゃないが自由だの権利だのと言ってられないような戦乱が日常となるだろう。

だが日本は奇跡的に皇室があるから、政治的対立を超越した国民及び国家の統合の象徴があるから、国民同士の争いが頻発しないで済んでいるのだ。

また、そもそも皇室自身が右翼的思想とは一線を画している。何ならリベラリズムを尊重していると言っても過言ではない。

これには2つの面から捉えることができる。一つは、皇室がそもそも生き残り方を模索する上で、国民との距離をあまり離さないよう、歩み寄って頂いていると言う側面(これにはそもそもそれが妥当であるとの前提が不可欠)と、

そもそも日本の伝統的な考え方がリベラリズムと親和的であること、最も踏み込んで言えば、伝統的な考え方の中にこそリベラリズムの精神が宿っていると言う側面だ。

詳述はしないが、このようなリベラリズムと皇室の親和性が、歴史と伝統の内に包摂されているからこそ、今まで続いてきたのだと言えよう。

國體とは天皇絶対主義に陥れば崩壊する

また國體は右翼があらゆる個々人の力を天皇の為に捧げんとするカルトのように勘違いされるかも知れないが、そんな考えは偏見による誤解でしかない。

そもそも、天皇は初期と近代の僅かな例外を除いて、まともに権力を持っていなかった。それこそ権力の支えがあるから、奇跡的に、経済的にやってこれたし、国民の信頼がなければ権力も皇室を尊重することはなかっただろう。

そして皇室は国民のことを大切にすると言う確信があるから、国民は信頼したのだ。

このそれぞれの信頼関係があって初めて國體は成立し得るのだ。このどれかが崩れてしまえば簡単に、実に簡単に崩れ落ちてしまう。そしてここで結論を言ってしまえば、国民の無知で不遜な態度が、このバランスを崩している主原因なのだ。

国民の責任

国民は右も左もバランス失調による暴走が止まらない。彼等はどちらも現実世界の為に理念を活用するのではなく、理念を現実より大切にするあまり、理念の価値を、そして皇室と国民の価値をそれぞれの立場から貶めている。

まず右から見てみよう。彼等は口先では皇統を守ると威勢のいいことを言うが、現実として守れていない、どころか更なる状況悪化を作り出している。男女を問わず、あらゆる皇族において民間人との結婚は非常に人生の中でも、そして皇室の中でも大きなイベントであり、また唯一、個人の裁量を認めてもらえる大きなイベントだ。その他は基本的には内閣の助言等を介すことが多い。そうであれば尚の事、いや、右翼なら本来は言われずとも自然に皇室の意志を無条件的に尊重するものだ。

そして今回のこの"騒動"において、眞子殿下は、議論の続いている女性宮家問題も認識しながら、一時金を拒否して、国外に逃げることになっても、「今よりそれが幸せであるとの確信のもと」御決断されたのだ。これは、皇統に属する女性皇族、即ち、幼い頃より公的な存在として人生を歩んでこられた方の、齢30にしての本気の決断だ。こんな決断をさせたと言うことは、悠仁殿下のお后となられる生まれてずっと民間人だった方の精神的負担は一体どれほどだろうか。ただでさえ過去をほじくり返して必ずバッシングされ、更には男児を産まなければその時点で皇統を滅ぼした張本人として歴史に名を残すのだ。右翼のこの手の歪んだ正義感は、即皇統断絶に結びつくカルトであり、全く尊皇でも愛国でも、そして道徳ですらない。不敬で壊国で不徳でしかないのだ。

一方の左翼はどうかと言うと、

皇室が無くなればそれでいい層が少なからずいるのか、殆どがダンマリを決め込んでいる。

若き女性が人生における、一大決断のタイミングで不当な言いがかりを受けていると言うのに、そんな人権保護なんかより、皇室が無くなって、見せかけの、幻の平等主義に溺れている。

ここでしっかりと女性の、いや、人間としての権利を守れと言えて初めてまともなリベラルを名乗れるのだが、結局はルサンチマン、体制への反動でしかないから無視してしまう。

こう見ると、この問題で眞子殿下のご決断を阻害しようとする輩共は結局己の思想すら欺いていることにしかならない。

そしてこの欺瞞が国中に充満しているからこそ、國體は危ういのだ。

右翼も左翼も理念を追究すれば國體護持で落ち着く


結局、人々が自由で豊かに暮らす為に必要なのは、道義的で、誠実な国家が存在することが大前提となる。そしてそれは所謂専制国家、独裁国家であってはならず、より権力への信頼と懐疑を両立させ得る近代的国家である必要があり、それを維持する為に皇室が、君臨すれども統治しない王室が、それも歴史的、宗教的、世俗的正統性を持った皇室が極めて有効な力を発揮するのだ。

憲法にせよ、国会や内閣、司法にせよ、長や重要ポストの任命において、天皇が果たす役割は形式以上に重いのだ。

歴史的、宗教的、世俗的な正統性を持った者に任命されると言うのは、今たまたま生きている生物的本能を好きなだけ貪ろうとする卑しい国民の為と言うフィクションにしても安っぽいフィクションの為に宣誓をするのとは全く違う重みを持つのだ。

勿論、このフィクションもフィクションとしての価値に気づかぬ者には理解できないだろう。馬の耳に念仏、豚に真珠、猫に小判だから。

そしてそんな奴をリーダーにしようものなら、国民の生活なんて全く顧みられなくなるだろう。

歴史的、宗教的、世俗的正統性はだから必要なのだ。

これがあるから初めて自由や人権が守れるのだ。これを撤廃し、浅ましい人民による統治が果たしてどれ程実用的なものになるだろうか。

護憲主義と称する奴等は憲法なんて知らないし、守ろうとも思わない。自由主義だって今極めて安い過去のムーブメント程度に成り下がっただろう。

人民による支配とはそのようなものだ。

それを、その頽廃を防ぐ為のフィクションとして我々は皇室を守らねばならない。

そしてそのフィクションを守る上で、今回の国民の暴走は致命的なリスクとなった。

国民の無責任な我儘が齎すのは混沌しかない。

それをどこまで自覚できるか、理解できるか、それによりこの国の運命は変わる。

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