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美術家のエッセイ『なめらかな人』~7月の読書記録

日経新聞夕刊に掲載されているエッセイ欄「プロムナード」は、本当にエッセイの宝箱のような存在だと私は思っていて、日替わりでいろんな人が半年間エッセイの連載をされている。

作家や歌人といった言葉を生業にしている人だけではなく、棋士、お笑い芸人、音楽家、美術家、女優など多種多様な肩書を持っている方が連載しているのがすごく興味深い。そういった「自分では到底なれない」ひとの話を聞くのって、とっても面白い。だからエッセイは読むのも書くのもやめられない。プロムナードが毎日読みたくて、日経の夕刊だけ購読したいなと思っていたけれど、どうやら夕刊だけの購読は出来ないらしい。残念。
仕方がないので、たまに図書館に行った際にまとめて読んだりしていたのだけれど、その中でも異彩を放っていたのが美術家・百瀬文さんの文章だった。肩書は(美術家)と記されていた。
百瀬さんのことはあまりよく知らなかったが、調べてみるとかなり実績があって、お若いのに、なんだか思っていた以上にすごい人だった。

そんな百瀬さんは、雑誌・群像でもエッセイの連載をしていたようで、そのエッセイ集が単行本となって発売されていた。浮足立つ気持ちを抑えて書店のレジへ向かう。久しぶりにわくわくして本を買う感覚。手に入れたのは百瀬文・著『なめらかな人』だ。

エッセイの内容は、日常のことよりも、美術家としての創作に対する思い、作品論にも近いことがちりばめられており、普段、私が好んで読んでいる生活にまつわるエッセイとは違う歯ごたえが確かにあった。芸術には造詣が深くないので、少し読むのが難しい部分もあったけれど(なんとなく高校の教科書に載っていた美学の評論文を読んだような気持ちになった)、百瀬さんの言語化能力の高さには、他の人にはない独特の湿りと奥行きを感じたので、いろんな人にこの本を読んでほしい。

百瀬さんの文章は、身体に関する表現が特に素晴らしいと思った。これはご自身がインスタレーションを手掛けていることと関係があるのかもしれないけれど、印象に残ったところを紹介しようと思う。

不思議なことに、死ぬこと自体にはあまり興味がないが、自分の体がなくなるというということには寂しさを覚えるというか、未練が残る。
(中略)
どちらかというと、体を持っているという感覚より、空き地や広場みたいに、はじめから明け渡された場所がそこにあるような感覚なのだ。乱暴しない限りは、好きに遊んでいってくれたらいいと思っていた。
そこにはいろんな人たちがやってきては、各々の時間を過ごして去っていった。ある人は慈しむように肌を優しく撫で、ある人は誰にも言えなかった秘密をぽつりと静かに置いていき、ある人は朝までお酒を片手に隣で笑い続け、ある人は頼んでもないのに、長ったらしいスピーチを無遠慮に始めてみせた。

「砂のプール」より

全てを引用することはできないのだけれど、もし自分が亡くなったら、自らの骨を友人に砕いてもらって、それを白い砂に混ぜてインスタレーション作品にしたい、という方向にエッセイがすすんでいく。

百瀬さんの過去のインスタレーションに、うす暗いバーのようなところで、白湯を鑑賞者に飲んでもらう、というものがあるらしい。しかし、この白湯は、遠く離れた百瀬さんに付けられた体温計と同じ温度になるようにリアルタイムで調整されていて(!)、温度を通じて身体の輪郭をうしなっていく、というのがこのインスタレーションの目的のようである。エッセイの中に少しこのことが書かれていただけなので、詳しいことはわからないけれど、これは鑑賞者に「製作者の体温と同じ温度である」という種明かしはされていたのだろうか。いや、さすがにされていただろうな。
その白湯を飲んでいる自分を想像すると、見知らぬ誰かと融合することに恍惚を覚えるのだろうか。それとも嫌悪感を持つのだろうか。なんだかどっちにも転びそうで、それは体験してみないとわからない気がするし、このインスタレーションには行ってみたかった(遠方だったけど)。

この「なめらかな人」は不思議な本だ。
作品論や芸術に対する指南書ではなく、ひとりの女性が誰かと、何か(身体だったり心だったり仕事だったり)を分かち合おうとする、どこまでも誠実で、清潔なエッセイ集だったと私は思う。

個人的なお知らせ
最近、noteの予約投稿をオフにしたので、書いたらすぐに投稿するようにします。書けるときと書けないときがあるので、更新頻度がばらばらになりますが読んでもらえたら嬉しいです。

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