自殺はしたくないけど、安楽死はしたい。

 生きることはどんなに美しく脚色しても、「苦役」に他ならないと思う。どんなに頑張っても、褒められはしない。結果において、他者と変わらないか、ややもすれば劣っているからだ。主観的に努力したとて、客観的な結果が伴わないといけない。客観的というのは、論理的という意味ではない。他者を満足させるか、否かなのだ。だから、卓越した能力を持たない(どころか、普通水準にすら達しえない)私は期待もされず、見向きもされず、頼られもせず、よしんば頼られたとしても相手の満足には至ることができない。
 もし、私にとって他者が何ら意味を持たず、褒められたいという欲求が無ければ、私にとって人生は「賜物」だったろう。しかし、他者は私を脅かす脅威である。褒められるうちは、まだ良い。しかし、それが消えた瞬間、私は丸裸で牙の前に晒される。悪口が、蔑みが、罵倒が、嘲笑が、襲ってくる。私の心をズタズタに犯す。褒められている間は安全なのだ。だから、それを求めてしまう。
 私はもう、脅威と隣合わせの苦役に疲れてしまった。希望に溢れる人はきっと、自らの手で、意思で、喜びを勝ち取るのだろう。絶望に溺れる人は、自らの手で、意思で、最初で最後で完全な自由である「生」の保持権を放棄することで、全くの解放を得る。後ろに行くには意志薄弱で、前へ進むには力不足を自覚してしまった私は、安楽死を望む。自殺するほどの覚悟や行動力があるならば、私の誇りは保たれたであろう。今の私には、僅かな誇りを保つためのエネルギーすら、持ち合わせてはいないのだ。


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