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竹内宇瑠栖
2021年2月21日 23:27
〈井戸の傍〉 正徳元年、四十五年ぶりに彦根に戻った。この間にたくさん将軍様は変わり、世の中は様変わりした。戻った理由はたくさんあるが、お役御免となった夫の甚右衛門が、近江の地で余生を送りたいと希望したのが大きな理由だ。孫にも恵まれ、江戸は故郷以上に長く住んだ土地ではあったが、生まれ故郷江州の琵琶湖の水が恋しくなったのかもしれない。 父が一人で住まう平田町の実家に夫と三人で住むことになった。下
2021年2月14日 22:44
〈寄進帖〉 菩提寺の養春院での葬儀は、孕石家からの助力もあり盛大なものだった。いち家人のためにこれほどまでの式をするのかと噂をされたが、政之進様と菊の仲は近所に知れ渡っていたため、表立って口にする人はいなかった。家族のだれもが周りにいっていないと思うが、それでも、菊がお手討ちにされたことは広まり、口さがない町雀によりあることないことが流布していた。後ろ指をさされたことも一度や二度ではなかっ
2021年2月7日 22:23
押し入れの中 母代わりだった姉は、いろいろなことを教えてくれた。例えばゆったりと舞う黒く大きな蝶を指して、「あれは麝香揚羽といって、雄の蝶はお腹から麝香のような匂いがするのよ」あるいは「幼虫はお歯黒草を食べるの」といったことだ。お使いなどの帰り道、姉と善利(せり)川の傍をこうしてゆっくり歩いたのは、今も胸に残る思い出だ。 だからお城に黒い揚羽蝶が舞う頃になると、あの初夏を思い出す。 寛文四年