科学と哲学の差異



科学と哲学は、ともに世界に対する現象を取り扱う。科学は一般に、人間の客観性に担保される数学的な体系、いわば、人間の普遍的道具の1つである、「可算的対象を認識かつ構築できること」を用いて世界の現象を理解する。一方で哲学は一般に、言語的な体系を用いて世界の現象に対して解釈を行う。言語的な体系は、その意味がその言語の用途に依存する。誰もが使い得ない言語的用途は私的言語ならぬ私的使用によって、世界を解釈する手段が世界から孤立しているかのように見える。しかし、それそのものも世界に内包されているため、たまたま同じ言語的用途によって解釈可能な人々がいる可能性がある。そういった人々のアイデンティティを養うクラスタの保存にとって哲学は必要であろう。結局、世界が私自身を内包すると仮定すると、科学と哲学、どちらにおいても世界に対して探究しているに過ぎない。そこに包含関係は存在しない。哲学と科学はどちらか一方がどちらかに内包されるものではない。もちろん、対峙するものでもない。ものの見方、視点が異なる、いわば命題に対する言語の使用方法がどのような規約に基づいているか、が異なるに過ぎない。

哲学はその言語体系の自由度の高さから時たまに、「私は存在するのだろうか」などの根本的な命題を問うことがある。それらの多くは論理的に矛盾している。「私は存在するのだろうか」と問うことができていることそのものが存在を仮定している。その懐疑はもはや原子命題であり、そういった視点は構築的ではなく、ただ懐疑のまま矛盾という名の無限ループを繰り返して外界から切り離される。数学的言語を扱う科学では、そういったいわば言語の使用に関する私的用途化を免れることができる。そのような点においては、世界の現象を紐解く上で用いる言語体系に無限ループにつながるバグが生じうるものが哲学でおり、極力そのバグを取り除いてしまったものが科学であると言える。




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