コンピュータと私的言語(1)




言語を後天的に獲得する"可能性"そのものは人間に刻まれていると言って良いだろう。この言語は人間に閉じており、人間との会話の中では閉じていない。すなわち、ある言語の意味は外界の展示会のようなもので、その無限にある特徴量を極限まで減らし、認識すなわち(1,0)まで落とし込む為に必要なラベリングであると言える。社会的なラベリングの交換のために言語は存在しているのだろうか。そうなると一つの疑問が生まれる。ラベリングそのものは自己と他者で完全に一致させることはできないはずだ。しかしながらあたかも一致しているように感じる。例えば数学的言語はその様相を呈す。私たちは、数学の基礎を構成しうる"計算"において、1+1は当然2であると教えられる。事実、1+1が2であることは直観的には確かであり、それらは後天的に数えることを教えられることによって獲得される。しかしながら一方で、コンピュータは計算を行う。コンピュータは計算に用いる記述言語を自然科学、すなわち外界の自然現象によって処理することでその計算を実現している。果たしてコンピュータは私的言語(*1)を用いていると言えるだろうか。人間は他者からそのラベリングを教えられることによって言語によるコミュニケーションを可能としている。一方でコンピュータにおいても、同様の現象が起きていると言えるだろうか。自然言語はまさに人間とコンピュータ、その「自然」の中にある世界で閉じていると考えると、コンピュータが用いる言語と人間が用いる言語にはっきりとした差異(*2)があるだろうか。(続)



*1 個人的な体験を記録する際に用いる、自分には理解できるが他人には通じない言語。

*2 コンピュータに記述される言語は、人間がいわば人工的に与えていると言って良いだろう。しかしながらその仕組みにおいて人工的に与えられた後にコンピュータが独立でそれら"プログラム"を処理している事実は、人間のコミュニケーションによって用いられる言語の使用と本質的な差異を提示するだろうか。





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