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ラダックでのヒッチハイク

あの日、僕は、ラダックの大地を小さな原付バイクに跨がって進んでいました。

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ラダックとは、インド北部に位置する地域のことです。

そこは、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた高山地帯で、この地に暮らす多くの人はチベット仏教徒です。

チベット文化が息づき、チベット増院や仏像が古いまま残っています。



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僕は「レー(Leh)」という街に数日間滞在しました。

その日は、ラダックの環境に慣れてきたこともあり、小さな原付バイクを借りて、1人でチベット僧院巡りをすることにしたのです。

目指すは20kmほど離れた「ティクセ・ゴンパ(Tikse Gompa)」です。

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ちなみに、滞在中、おもしろかったのは「ラダック語」です。

「ジュレー」という言葉あるのですが、意味は「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」などの全部なんです。

つまり、ラダックでは、「こんにちは」も「ジュレー」、「さようなら」も「ジュレー」、「ありがとう」も「ジュレー」、「こんばんは」だって「ジュレー」なんです。

だから、ラダック語の挨拶を覚えるのは簡単です。でも、それで本当に通じ合えるのか、少し疑問でもありました。



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レーの街を出発してしばらく進むと、もう、何にもありません。

視界に広がるのは、青い空と白い雲、荘厳な山々です。

道に並行するのは、インダス川。水の流れと美しく輝く高山植物。

見渡す限りに続く大地。

誰もいない道をひたすら真っ直ぐ進みます。


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すると、行く手の彼方に、歩いている人の姿が見えました。

「どうしてこんなところに人が歩いている? しかも1人で?」と思いました。

どこから来て、どこへいくのでしょうか。何もないこの場所に、人が歩いていること自体が信じられないのです。

静かな空間に、僕の原付バイクのエンジン音が響いていたのでしょう。

彼は振り返って僕の存在に気づきました。

そして、手を挙げました。

“ヒッチハイク”です。

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バイクに乗りながら「あの~、僕、外国人なんですけど・・・」と、心の中で思いました。

ただ、この状況で無視して通り過ぎることなど到底できず、僕は彼の近くに停まりました。

「ジュレー」と僕。
「ジュレー」と彼。

彼は、背が高くてスラッとしていました。色黒で口ひげを生やしていました。そして、多くのラダック人がそうであったように、穏やかでやさしいまなざしをしていました。

どうやら、彼は家に帰る途中だったようです。しかも、彼の家は、僕が目指すティクセ・ゴンパと同じ方面にあることがわかりました。

ただ、僕には不安がありました。原付バイクの2人乗りに自信がないのです。

結局、彼が、僕が借りてきた原付バイクを運転し、僕が、彼に後ろから抱きついて乗ることになりました。



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2人を乗せた小さな原付バイクは風を切って走りました。

ラダックの大地を駆け抜けました。

なぜだか1人のときと違って、とてつもない安心感がありました。

相変わらず視界には、大地と空が広がっています。

そして、僕は、大事なことを忘れていることに気がつきました。

ここには、何もないわけではありませんでした。

すべてのものは、ここにありました。

大地、水、火、風、空・・・。

世界を形作るもののすべてが、ここにありました。



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無事に彼の家に着きました。

「家に上がって少し休んでいかないか」とのお招きを受けたので、お言葉に甘えて、家に上がらせていただきました。

8畳ほどの部屋でした。昼間でしたが、電気がないので薄暗く感じました。

ベッドの横に木の椅子があって、そこに腰掛けて待つように言われました。

彼は奥の部屋にいくと、チャイとクッキーを運んできました。

温かいチャイをいただくと、お茶の香りとミルクの甘さが身体に染みわたりました。

「ジュレー」と僕は言いました。

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外にいた子どもたちが部屋の中に入ってきました。みんな恥ずかしがり屋で愛らしいのです。

僕は、インスタントカメラを持っていたので、家族の集合写真を撮って、その場で差し上げることにしました。

別れ際、家の前に並んで、みんなの写真を撮りました。

できあがりは小さな写真でしたが、彼に渡すと、とても喜んでもらえました。

「ジュレー」と彼は言いました。

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彼は家の外まで見送りに来てくれました。

そして、「ティクセ・ゴンパ」までの道を教えてくれました。

僕が小さな原付バイクに跨がると、

「ジュレー」と彼。
「ジュレー」と僕。

僕は、アクセルをひねって走り出した後も、何度も後ろを振り返って手を振りました。



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もしかしたら気持ちを伝える挨拶に、言葉は本質ではないのかもしれません。

このとき、初めて、僕はいろいろな意味の「ジュレー」が使い分けられたような気がしたのです。

言葉の発音にとらわれることなく、言葉の文字面にとらわれることなく、「ジュレー」というただそれだけの響きで、通じ合えることを知りました。

言葉というものは、ただ発するだけじゃない。
言葉というものは、ただ意味を伝えるだけじゃない。

言葉と同じくらい大切なものがある。

そのことを教えてもらいました。



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彼と別れてからすぐに「ティクセ・ゴンパ」が姿を現しました。

道に迷いようがありませんでした。

壮大なチベット僧院は、もうそこにあったのです。






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