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働く「目的」を追い求めて

今日は友人の結婚式への参列。
彼女にふさわしい暖かな秋の快晴の中、無事に執り行われた。
この結婚式で、実に卒業ぶりに大学の友人とテーブルを囲んだのだが、積もる話をひたすら発散していた会話の中で、思わず「ハッ」となったことがあった。それは「大学時代は本当無敵だったよね〜」という言葉。そう、確かにあの頃は何も怖くなかったように思う。

それは「学生」という立場故ということもあるけれど、今帰宅し、湯船にうわぁーっと浸かり、改めてゆっくり今日の会話を噛み締めると、「学生だから」というわけではないような気がしてきた。そこには「会社に属して働く」という働き方の中で失われた何かがあるような感触が、ふわっとお腹のあたりに浮かんできたのだ。

今日の式の主役である友人を含む私たちは、都内の服飾大学で出会った。服飾大学とはいわゆる「ファッション」を学ぶ大学で、日夜課題に追われていた記憶しかない。一般的に想像する大学生活とは程遠い、かなり過酷な(そして愉快な)4年間を過ごした場所である。

課題は服の作り方の基礎から始まり、デザイン画を描いたり…帽子を作ったり…とにかく作りまくる。テーマなどは特にないので、各々設定し、自分の表現したい世界観でモノづくりをする。つまり自分の中にあるものを、ファッションを通して「表現する」ということをずっとやっていくのだ。

では社会に出て、「会社に属して働く」ということとは?
私は「何かのために」働いているのだと思う。目的というのか。例えば「目の前のお客様を喜ばせたい」「社会に役立つものを生み出したい」など。会社がそれを公に提示していることももはや常識と言えるだろう。もちろんこのような素晴らしい目的を持って働いている人が恐らく大半なのだろうし、そして実際にその人たちの気持ちには嘘偽りはないのだと思う。

自分に置き換えるとどうだろう?と考えてみると、本当に正直に、誤解を恐れずに書くと、私は「何かのために」と思って働いたことがないことに気が付いた。これは湯船の中でびっくりした。でも本当なのだ。

お客様に喜んでもらったり、自分が作ったもので誰かがハッピーになったらそれはそれは嬉しいことだし、「ありがとう」と言われたらもちろん嬉しい。でも、それはその言葉が欲しいから、その笑顔が欲しいから働いたのではないなぁ…という結論に至った。ここで、ちょうど昨日聞いていたPodcast番組「Over the sun」のエピソードNo.108の中でのスーさんの「本当にやりたいことは自分の中にしかない」という言葉を思い出した。なるほどそうか、だから会社で働いているときにも、転職活動で自己分析してやりたいことを無理矢理絞り出すときにもしっくりこなかったのか。

私はただ「表現」したいだけなのだ。自分が日がな浴びているたくさんの情報や言葉たちから受け取った何か、考えた何か、もはや何かわからない何か。それを自分のそのときにフィットする方法で「表現」すること。それが私が本当にやりたいことなのだ。だから、学生時代は「無敵」だと思っていた。なぜなら対峙する相手は自分だけだからだ。

もし頼まれごとではなく、自発的にモノづくりをしている人で「なぜ自分はこれを作っているのだろう」と疑問を持っている人がいたら、多分そこには答えはなく、ただ「作りたいから」なのだと思う。かなり語弊があるかもしれないが、「喜ぶ顔が見たいから」「世の中に役に立ちたいから」という理由で絵を描いている人を、私は知らない。でも、それで良いのだ。

結局のところ頼まれていなくてもやってしまうことはやってしまうし、そこに何かしら喜びがあるから仕方がない。そうなる理由をさらに深く考えてみると、本能的に「自分が生まれ持った才能を無駄にしないように」魂の奥底が脳味噌をやれやれ〜と突いているのではなかろうか?

だから、右脳の赴くままに、自分の本能に従って、やりたいことをやるのが1番自分を喜ばせる方法なのだろう。
(ここで、人を傷つけたり法を犯したりすることに喜びを感じてしまう人のことを思ったが、それはクリエイティブに還元するしか方法はないと思うので悪しからず。)

ずっと長い間疑問だった問題「私は何をしたいのか?」の答えが、スーッと解決した気がした今日。誰かが作った目的のために自分の心が削られるなんて、そんな不遇があるのはやっぱり悲しい。もっともっと自分に矢印を向けて生活したっていいじゃない!と、叫びたい、そんな夜。

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