くだらない日常の中にあるもの
2011年当時、「愛してる」という言葉の表現に違和感を覚えていた星野源さんが意図的にその言葉を排して作成した楽曲である。
「愛してる」と相手に伝えることは、募金する時に「募金してる」と言うような感覚で、行為としてそこにあるものが何よりの証明であり、態々言葉として発することに違和感を覚え、人に対して使わないようにと徹底していたという。奇しくも同様の考えを持った時期があったことから、彼の表現はあまりにも自然に私の琴線に触れた。
「くだらないの中に」では日常の何気ないシーンを切り取った場面がサビで表現されており、変に着飾った言葉や歯が浮くようなセリフが登場しない。誰にでもあり得る何気ない日常を、そこに在る「愛」と表現することで「愛してる」という動詞を使わずにラブソングを成立させている。彼はこの楽曲制作において、自身の経験を投影させたわけではないと語っているが、彼の中で表現された二人は、我々と同じように苦しみを抱えながらそれでも笑顔で、確実に日常を生きている。
また、本投稿では勝手にこの楽曲をラブソングとカテゴライズしているが、当初この楽曲はラブソングであると意図せずに制作され、周囲からの反応を得てこれがラブソングであることを自覚したという。(余談ではあるが、メロディは入浴中に降りてきたため、彼曰く全裸楽曲制作であった。とてもロマンチックなラブソングが生まれそうにないシチュエーションである。)
確かに歌詞を見返してみると二人の関係性は恋人、夫婦のほか親子や友人であっても成立はする。対象を特定の関係とせず、くだらない日常の中にある「愛」を表現した結果、恋人だけではなくすべての人との間にあるものを包括して、より深みのある楽曲になったのではないかと推察する。
数多ある音楽の中でこの曲が私の心に寄り添い、リリースから12年経った現在でもふとした折に聴きたくなるのは、ただのラブソングに留まらず、平坦ではないが平凡な日常とそれを営む人間に、ささやかな希望を添えてくれるからであろう。
最後に、彼が自身のエッセイで「くだらないの中に」を語った場面がある。その末尾にこんなメッセージを残している。
小難しいことは苦手だが、私もくだらない冗談やエロいことはもちろん、音楽や映画、バラエティ、少しばかりの読書が大好きである。
星野源さんの楽曲やエッセイを日常を生きる糧の一部としていたのと同じように、自身の好きなものを表現することで、廻りまわって誰かの糧となればとても素敵なことであり、自身を見つめ直す良い機会でもある。ちょっとしたきっかけではあるが、くだらない日常の中に在る素敵で愛おしいものをこれから少しずつ紡いでいこうと思う。
高校時代の友人からnoteを書いてみたらと誘いがあり、気が向いたので本日試しに重いPCを開いてみた次第である。書いてみたらとても楽しかった。ありがとう。
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