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新しい個人主義: 中央省庁における集団主義に関する私見

こんな記事を読んだ。

記事の要旨は以下である。

  • ホワイトカラーの報酬は、専門的なノウハウやスキルを持った優秀な層と、それ以外の「中途半端なホワイトカラー」の層に分かれる形で二極化が進みつつある。

  • 前者の報酬は以前よりも上昇している。グローバル企業との人材確保競争に直面した日本企業が、社外の労働市場の基準に合わせて、以前より高い報酬を設定するようになってきたためである。

  • 後者の報酬は停滞している。彼らの業務内容は「ジョブ」として規定できないようなものが多く、労働市場で値段が付きにくいためである。こうした「中途半端なホワイトカラー」とは言わば、「複数の会議や社内調整で1日を終えるホワイトカラーの会社員」である。

氏はこうした状況をポジティブに捉えている。前者の報酬が上がっていることは、報酬体系に市場原理が働き、高度なスキルを持った人材が正しく評価された結果なのだという。

さて、記事の中では中央省庁の人材に関しては触れられていないのだが、少なくとも、氏が指摘するような、市場原理の作用による報酬体系の変動が生じていないことは明らかである。そもそも、報酬がほとんど上がっていないという状況なのであるが、なぜこうした状況になるのかを考えてみると、以下の3点が考えられる。

  1. 給与でもって労働市場にアピールすることの必要性が比較的小さい
    中央省庁は総合職(いわゆるキャリア官僚と呼ばれる職員で、将来的に管理職以上の職位になることが期待される採用区分)だけで毎年500人ほどを採用する。近年、中途採用や外部人材の活用が進んでいるものの、中途採用については全体に占める割合は非常に少なく、組織の人事戦略において主要な位置付けを与えられていない。
    外部人材についてはかなり増えてきているものの、ほとんどが1〜2年で出向元の企業や元いた業界に戻っていく。彼らが求めているのは多くの場合、報酬ではなく中央省庁における勤務の経験である他、そもそも出向元の企業における人事異動の一環として派遣されてきているような場合も多く、給与の多寡はあまり問題にならない。
    したがって、中央省庁と労働市場の関わりは、いわゆる新卒一括採用を行う局面に集中している。就職活動を行う大学生は給与よりも仕事の内容ややり甲斐、社風や職員の気質を重視する傾向があるため、労働市場において競合となる企業と比べたときに給与でもって訴求することが難しくても、それ以外の点でもって訴求することができる。そのため、新卒一括採用の労働市場においては、市場原理に基づく報酬体系の調整は生じづらいのである。

  2. 職員の能力を維持することが組織にとって死活的な問題とならない
    中央省庁には競合他社が存在しないため、組織としてのパフォーマンスがいかに低下しても、組織そのものが無くなることはない。民間企業が他社よりも能力の高い人材を採用しようとするのは、他社との競争に勝つための経営戦略として当たり前の話であり、人材を獲得するための重要な要素として報酬でもってその能力に報いるという選択が論理的に導かれるが、中央省庁においては高い能力を持った人材の獲得が組織そのものの存続に関わる問題とならないため、高い能力を持った人材を獲得することが組織としての戦略上の優先事項となりづらい。

  3. 報酬体系が法定されていて柔軟性が乏しい
    国家公務員の給与は、国会で議決される予算を前提として、国家公務員法を始めとする関係法令の内枠で決定されるため、機動的、柔軟に報酬体系を変更することが難しい。

2.は行政機関という組織の性質上不可避な事象なので措くとして、問題は1.と3.である。3.は組織としての意思決定のあり方に関わる問題として別途議論するとして、本稿では1.に注目したい。

職務ではなく人間関係で仕事をする組織

中央省庁は新卒一括で職員を採用し、長期的なキャリア形成を前提として、省内の様々なポストに職員を配置していく(ジョブローテーション)。職員は組織の枠の中でキャリアを積んでいく。すると、自分が配置されたことの無い部署であっても、どこかで一緒に仕事をした人が在籍していたり、次の人事異動でその部署に異動になる可能性があったりするので、組織内の人間に対して、例え異なる部署同士であっても、何となく仲間意識のようなものが成立してくる。同じ組織に採用された人間同士は、そうした長期的な人間関係の中で、ある種の「阿吽の呼吸」で仕事を進めていくことになり、結果として、省庁という枠の中において、ある種の「共同体」が成立していくのである。
異なる部署やライン同士において、こうした仲間意識が強固に存在する状況においては、自分が担当する職務の範囲を明確にし、その所掌の範囲内については明確な責任を負い、その外側には関知しないという仕事の仕方は馴染まない。そのため、職員は往々にして、制度運用に関する関係部署との調整から、政策立案、個別企業案件への対応、議員への説明、業界調整、陳情対応、無数に存在する政府文書の作成やこれに関係する情報提供、情報公開請求への対応、果てには庶務手続に属するような事務処理など、数多の業務に奔走することになる。
そして、省庁として処理しなければならない無数の業務がある中で、どこからどこまでが誰の担務ということが明確に定められていない以上、自分の領域を明確に線引きせずに、周囲の動きを見ながら臨機応変かつ積極的に案件に対応することが望ましい職員の在り方であるとされるようになる。

これは言い換えれば、個々の職員の能動性や職場内の人間関係に、個々人の仕事の範囲が左右されるということである。こうした状況では、職務の結果を定量的に測ることは非常に難しい。結果として、多くの人が、程度の差こそあれ、「何をやっているのかよくわからない人」になる。これはまさに、冒頭で紹介した記事の筆者が言う「会議や社内調整で一日を終えるホワイトカラー」である。
こうした職員は、特定の専門分野を持っているわけでもないので、事務処理能力だけが高まっても、何か人にできないことができるというわけではない。自身の突出したスキルが無いので、自覚的に自身のキャリアを作り上げることもできないし、専門性が求められる業務にあたることはできない。こうした人間は残念ながら、行政の内部に溢れかえっている。
誤解してはいけないのだが、あらゆる組織において、その組織の運営を熟知し、その組織に関わる人間関係(人脈)と経験を通じて、組織全体としての意思決定を担う人間は必要である。企業の経営者層や中央省庁の幹部、政治家など、社会の指導層にはそうした能力が不可欠であろう。そうした人材が、「自分の所掌はここまで」と言って、組織(会社、省庁、国)全体のことを考えなくなれば、組織としての一体的な意思決定ができなくなるからである。そして、そうした人間の職務を言語化して明確にすることは不可能だろう。
だが、こうした人間はごく少数でよいのである。組織で個別分野における専門的な実務にあたる人間が、同時にその組織の意思決定を担う人間に求められる広い視座と知見を持っている必要はないし、そんなことは非現実的である。なぜなら、人間の認知能力には限界があるからである。
だが、専門的な能力を持つことを期待されずにジョブローテーションを繰り返し、人間関係の機微を読み解いて組織の意思決定に貢献する能力や意思を持たない、「何をやっているのかよくわからない人」が、年功序列の人事体系の中で、いつの間にかマネージャー(役所では班長とか課長補佐と呼ばれる、3人〜7人ほどのチームをまとめる職位)や管理職(課とか室と呼ばれる、10人〜40人ほどの単位をまとめる職位)になっていってしまうのが、日本の中央省庁である。そうした人間は、組織の外に出ていくなどということは思いも寄らないので、自ずと、組織環境に自分を最適化していくことに意識が向き、組織内の人間関係に特化し、更に「何をやっているのかわからない人」になっていく。
こうした状況に自覚的であるうちはまだ良い。更に悪いことは、職務の範囲が曖昧な中で、新社会人として中央省庁に就職して、先輩や上司から求められるがままに、半ば自発的に先述のような無数の業務をこなし続けている間に、いつの間にか、「自分でも何をやっているのかよくわからない人」になってしまう可能性があるということである。
中央省庁に採用された職員は、ジョブローテーションで何の脈絡も見出しづらい部署異動を繰り返すために専門性が身につきづらい以上、人脈を広げ、組織の幹部として意思決定を担う層を目指すことしか論理的には選択肢が無いのだが、中央省庁で組織や国の意思決定に主体的に関与できる人間がどれだけの数いるかと言われれば、採用される人数に比べてその数は非常に少ないし、30年かけてそのポジションを目指したいかと言われても、即答できる人間は少ないだろう。
個々の業界や制度を所管する「課」が、関連業界との関係で個別最適を追求し、各々で意思決定をしていた時代であれば、中央省庁の管理職になれば国としての意思決定に主体的に関与できたし、それを求められたのだから、今とは少し状況が違ったのかもしれない。だが、そうした分権的な意思決定のあり方は、国家としての統一的な意思の形成を損なうため、時代の要請とそぐわなくなり、制度的にもそれは難しくなっている(「次なる統治機構改革」(1)参照)。
中央省庁の若手職員の離職者が増えているというが、専門性も意思決定の機会も得られず、「中途半端」になっていくという選択しかできない人間が大多数になっている以上、そうした状況を忌避して離職を選択する人間が増えるのは当然のことである。

職務を言語化し、職務に職員を紐づける

こうした状況を改めるためには、行政機関が処理しなければならない無数の仕事を言語化し、定義した上で、職務に適切な職員を充てるという形に人事体系を変更することで、組織としての意思決定に関与しない大多数の人間において、職務への専門性を向上させるという方向に向かう必要がある。
もちろん、行政機関が処理すべき無数の仕事の中には、それを行うために求められる能力が言語化できないものも多い。既に述べたように、組織としての意思決定に関わる仕事は、非言語的な要素が非常に強い。政治や産業界のキーパーソンを把握し、関係性を構築し、滑らかにコミュニケーションすることで、異なる利害を有する者同士の合意を取りつけ、組織や国としての意思決定のお膳立てをする仕事は、どんな能力があればそれができるのかを定義することは非常に難しいだろう(強いて言えば、人間的魅力とか、他者に対する洞察力、とかいったことになると思われる)。
だが、そうではない仕事は数多くある。例えば通商政策を所掌する部局の担当の課長補佐であれば、WTOや日本が締結した経済連携協定に関する高度な知見や、海外政府と円滑な調整が可能な水準の語学力、政府間や企業間の交渉に携わった経験、日本と経済的に関係が深い国の経済や社会に対する知見、などといった項目が、当該職務を遂行するために求められる能力として例えば挙げることができるだろう。
こうした作業を、通商交渉から補助金執行、産業政策の立案から庶務まで、中央省庁が処理すべき無数の業務について行うことが、第一歩であろう。

また、個々の職員が担当すべき仕事の内容を明確にすれば、職務に必要な能力に応じて職員を採用すればよくなるので、組織の内側と外側で人材の行き来がしやすくなるという副次的な効果もある。現状、中途採用に力を入れている中央省庁も多いが、既に述べたように、組織内の人間関係の中で「阿吽の呼吸」で仕事を回していくというやり方は、組織にどれだけ長く所属して組織の文化を把握し、人間関係を構築しているかが重要になり、結果として中途採用された人材がその能力を活かせていないという印象を受ける。担当すべき職務が明確でなければ、こうした状況になるのは当然である。
外部との行き来が活性化することは、霞が関の外に「政策コミュニティ」を広げ、中央省庁以外のアクターが政策立案に関与する機会を広げることにも繋がる(この点については、別途投稿している「次なる統治機構改革」で詳しく議論したい)。

職務と職員の紐付けが、組織としての能力を高める

これは職員個人にとってだけの問題ではない。「何をやっているのかよくわからない人」が組織の中に温存されていることで、国全体として、専門性を持った人材が育成されないことになる。中央省庁や大企業に総合職として採用された職員の多くは、一般に高学歴であり、その中から激しい競争を勝ち抜いた結果として採用されている。こうした有為な人材が、行政機関や大企業という殻に守られ、スキルを磨く必要性に迫られることなく、能力を持て余している状況は、日本社会にとって大きな逸失利益である。
また、専門性を持った人材が育たないということは、当然ながら、日本の行政機関には、専門性の求められる政策立案をする能力が無いということである。例えば、国が持っているビッグデータを解析可能な形に整理し、プログラミングを組んで、そこから政策立案において意味のある情報を提供できる人材が、日本の中央省庁にどれだけいるだろうか。こうした専門性の求められる業務を遂行する能力の有無は、中央省庁としての政策立案能力に直結する。
更に言えば、こうした状況は組織としての靱やかさにも影響している。現状、個々の職員が職務との紐付けを持っていないので、職員は自分自身を、◯◯のプロフェッショナル、としてではなく、◯◯省の職員、として定義することになる。個々の職員が、属する組織との関係において自分自身を捉え、組織環境に自身を最適化していき、おまけに内外の人材の行き来も乏しいということになると、当然、内部の人間同士の同質性は自ずと高まっていき、組織としての独自の文化が成立していく。
結果として、職員は組織の中でしか通用しない理屈に従って行動することになり、その組織自体も社会の変化への適応力を失うのである。これが民間企業なら、その企業が競争力を失い倒産するだけだが、行政機関の場合は倒産することが無いので、国民から求められる仕事ができない状態のまま組織が温存されることになる。

集団主義は過去の遺物

そもそも、個々人の業務の範囲を曖昧なままにし、これをあくまで職員の自発性に委ねる業務のあり方は、職場での人間関係が今よりもウエットで、同じ省庁(あるいは企業)で働いている人間同士があたかも家族の相似形のように見なされ、上司には部下を人格的にも陶冶するということが求められた時代の名残だと考えられる。なぜなら、合理的に考えれば、個々の職員の職務の範囲を明確にし、その職務の成果をもって職員を評価し、適切な能力を備えた人間を職務に配置するという以外のやり方が導かれるはずがないからである。
職場におけるこうした集団主義的な人間関係のあり方は、文化的にも既に過去のものとなっており、今後、時代が進む中で、こうした人間関係のあり方が今よりも好まれるようになることは無いだろう。従って、こうした人間関係のあり方そのものを、業務のあらゆる側面において排除していくべきであるし、個々の職員の能力の向上や仕事に対するインセンティブ設計は、人間関係以外の要素に依って立つべきであろう。

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