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子どものお祈りから見えたこと。
毎週キリスト教会へ行く我が家。
長男は、給食前に「神様、今日も食事をありがとうございます。(以降、世界の飢えがなくなりますように、云々続く)」と、席で手をあわせ祈ってるらしい。
当然、祈る習慣のないクラスメイトが大半なので
「頭おかしい」「そんなのやめな」「何してんだよ!」
と言われてしまう。これは今の日本文化の中では仕方ない。
長男は「みんなお祈りの邪魔するんだよ!」と怒っていた。
でも、これは本人にとっても、クラスメイトにとっても、多様性を実感してもらうチャンス。
どっちが正しいとかの話じゃなくて、「違う」に沢山触れることで、自分の世界が広がっていく感じというか。
(誹謗中傷みたいなのは除く。)
だから、長男にはこう伝えた。
・自分がお祈りをいいと思ってるなら、続ければいい。
・祈りを否定されたのは悲しいけど、それは「彼女たちが間違ってるから」じゃない。人は知らないことは受け入れにくいものだ。
・今後、否定された場合は「なぜ、その人はそう言ってるのか」をいったん考えてみよう。(この場合は、みんなお祈りの習慣がないから、何か怪しいことしてると思ったのかも。)
・これは文化の違いの話だから、互いを「いいね、それ」と言えたら素敵な世界になるね
一方、違ったリアクションもあったらしい。
彼と仲良しのクラスメイト達は「食べ物に感謝するのは大事だね」「俺もやろうかな」と一緒にお祈りをしてくれたらしい。
(からかってるわけじゃなく、真剣に。)
この件を通して私が感じたことは、マイノリティの役割。
多様性にまだまだ欠ける日本において、長男のようなちょっと違う習慣を持つ子は多くないだろう。
うちの子のような「ハーフ」だの「ミックス」「ダブル」と言われる少数派は、その見た目や習慣が違うが故に、つらいことも多いと思う。でも、マイノリティだからできる役割って必ずある。
少なからず、今回のようにうちの子がいることで、初めて「食事前に祈りを捧げる人がいる」ということを知った子もいる。「初めて」に触れる年齢が低ければ低いほど、人間として他者との違いに寛容になり、「違うが当たり前」という感覚が自然と身につく。子ども達の未来を考えたら、悪い話ではないだろう。
私の子どもたちは、ルーツ、外見という面ではマイノリティだけど、こうした人がいなくなってしまっては、島国日本で多様性に触れる機会は限られてしまう。
そういう意味でも、子どもたちには自分にある2つのルーツに誇りを持って欲しい。そして、誰かと比較して優劣をつけるのではなく、そのままの自分を肯定できる人間になっていってくれたら母として嬉しく思う。
いただいたサポートは、私の地元(宮城県仙台市)の児童養護施設へ寄付させていただきます。