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自分で選んで、ここにいる~ 海外挑戦を支え続ける3つのメンタリティ ~

プロアイスホッケー選手
三浦 優希

著者略歴
1996年生まれ。東京都東大和市出身。プロ選手だった父の影響で3歳からアイスホッケーを始める。早稲田実業学校高等部へ進学するも、2年時の一時留学をきっかけに自主退学しチェコに移住。U20リーグ得点王、シニアチーム試合出場等を経て渡米。日本人アイスホッケー選手として初めて、NCAA D1所属大学であるLake Superior State University に入学。4年時には、大学25年ぶりとなる地区大会優勝や全米大会出場に貢献。2021年シーズンより、世界最高峰リーグNHLの傘下ECHL(3部相当)のIowa Heartlandersにてプロデビューを果たす。日本代表として五輪予選や世界選手権にも出場した。

はじめに

UJA Gazette読者の皆様、初めまして。アメリカでプロアイスホッケー選手をしている三浦優希と申します。この度、連載シリーズ『スポーツ留学のすゝめ』にて、私にとって兄のような存在であり、また共に夢に向かって海外挑戦を続ける同志でもあるラクロス選手の中村弘一君(あえてこう呼びます)よりバトンを受け取り、寄稿の機会をいただきました。

私がこれまで積み重ねてきた決断や挫折、そして、これからの目標について包み隠さずお伝えします。少し長くなりますが、少しでも読者の皆さんの背中を後押しできれば幸いです。

紙面の都合上、UJA Gazette本誌で紹介できなかった「自己紹介」「人生が大きく変わった高校2年生」「チェコでの2シーズン」を、こちらのUJA noteで紹介させて頂きます。渡米後の経過はUJA Gazette9号をご覧ください。

自己紹介

改めまして、三浦優希と申します。1996年生まれ、出身は東京都東大和市です。夢は世界最高峰リーグのNational Hockey League(NHL)でプレイする選手となり、アイスホッケー日本代表として長野大会以来の五輪に参加することです。

私がアイスホッケーを始めたきっかけは父の三浦孝之でした。父はプロアイスホッケー選手である、日本代表として長野五輪にも出場しています。3歳と物心つく前から氷の上に立っていた私は、そんな父の背中を見て育ちました。

5歳になると、地元チーム「西武東大和ジュニアアイスホッケークラブ」に入団し、中学3年生までプレイし続けました。たまたまか、はたまた両親の策略かはわかりませんが、私の家はスケートリンクから徒歩1分の距離にあり、時間があればリンクに行ってスケートやアイスホッケーをする生活を送っていました。

小中学校時代はアイスホッケー漬けの毎日で友達と遊んだ記憶がほとんどありません。下校したらすぐにリンクへ向かい、初に自分の所属チームの練習、次に父が教えていたチームの練習、最後に社会人チームの練習、といったように数時間続けていくつもの練習枠に連続で参加するなんてことが当たり前でした。「どうしてこんなに練習しなければいけないんだろう」という思いもありましたが、反面アイスホッケーが大好きな私にとってこれほど幸せな生活もありませんでした。この時の積み重ねのおかげで今の私があるのだと思います。

中学3年生時には、キャプテンを拝命しました。チームメイトにも恵まれ、都大会と関東大会で優勝を成し遂げることができました。さらに16歳以下日本代表強化選手プログラムにも選出されました。北海道や東北など多くの強豪校からオファーをいただいたなか、私が進学先として選んだのは都内にある早稲田実業学校高等部(早実)でした。その理由は3つあります。

まずは「東京に残って日本一になる」ことを目指していたことです。当時、都内出身の選手は高校の3年間を北海道で過ごし、大学で再び東京へ戻ってくることが一般的でした。しかし私は「わざわざ北海道にいかなくても上手くなれることを証明したい」という気持ちを持っていました。とはいえ、アイスホッケーをするうえで早実の環境は決して良いとは言えませんでした。通常強豪校は10年以上プレイ経験のある選手だけで構成されるのですが、早実は経験者と未経験者の融合チームでした。割合で言うと経験者が3割、未経験者が7割といったところで、高校生になって始めてスケートを始めた選手たちの方が多い状況でしたが、その環境こそが「自分で何とかしてチームを勝たせる」という強烈な意志を与えてくれました。

また、幼い頃からの家族の方針として「文武両道」がありました。特に母からは常々「学校でいい成績が取れないとホッケーをさせないよ」と言われており、小中学生時代には勉強も宿題も当然のようにやる習慣がついていました。この方針があったおかげで、早実に進学するという選択肢を持つことができました。

もう一つの要素として、当時父が早実のコーチをしており「まだこの人の下で学びたい」という気持ちがあったことも事実です。

人生が大きく変わった高校2年生

2013年、高校2年生の時に人生の大きな転機を迎えました。1つ目は17歳ながら飛び級で20歳以下(U20)日本代表に選出されたこと、2つ目は海外での挑戦を始めたことです。

夏に行われた全国大会で、私たちは下馬評を覆し北海道の強豪校に大金星を上げることができました。その試合で私は、決勝点を含めた全ての得点に絡むことができました。ベスト8をかけた試合だったにもかかわらず、観客数は決勝戦に次いで多かったそうです。

準々決勝では敗れてしまいましたが、まさしくこれは「東京に残り北海道の強豪校を倒す」という入学当時の目標を叶えることができた瞬間でもありました。チームメイト全員と、大泣きしながら喜んだことを今でも鮮明に覚えています。その試合での活躍がきっかけとなり、同年12月、U20日本代表に選出され世界選手権出場を果たしました。

当時の私は決して全国級の選手ではなく、私よりもうまい選手は大勢いました。きっとこの大金星がなかったら、私が代表に呼ばれることはなかったと思います。だからこそ、この試合は私の人生を大きく変えるきっかけになりました。当時のチームメイトに心から感謝しています。

続いて海外挑戦についてです。高校1年時に、母から早実の海外留学制度を紹介されました。端的に言うと、夏休み期間中に自分の行きたい国へ留学できるというものでした。この話を聞いてすぐ、翌年に留学することを決めました。私が海外に興味を持つようになったのは、間違いなく両親の影響です。小さい頃から、世界を相手に戦っていた父と、父をずっと支えていた母の話を聞きながら育ちました。世界を見ることがどれだけ楽しいか、日本の外には自分の知らない景色がどれだけ多く広がっているかを小さい頃からたくさん教えられていた私は「自分はいつか海外に行くものだ」とさえ思っていました。

留学先として選んだ国は、チェコ共和国でした。「なんでチェコ?」とよく聞かれますが、ここには大きな理由があります。それは小学4年生の時に実際にチェコを訪れており「チェコのアイスホッケー」に強烈なインパクトを与えられたからです。

選手が創造的に動きながら華麗にパスをつなぎ、ゴールへと迫っていくその美しい姿に、小学生ながらも感銘を受け、試合が終わるころには「いつかこの国でホッケー選手になりたい!」という憧れを抱いていました。幼い頃からの目標を叶えるため、そして自分の実力が世界ではどの程度通用するのか知るために、単身でチェコに渡りました。現地日本人の方の温かい協力のおかげで、僕はチェコのU20トップリーグに参戦するチームの練習や試合に参加することができました。

この時間はとにかく楽しかったことを覚えています。毎日「自分のやりたかったホッケーはまさしくこれだ!」と思っていました。

帰国前日に監督から呼び出され、期待と不安が入り混じりながらオフィスへ向かうと、「このチームに入らないか?ぜひうちに残ってほしい」という驚きの言葉をかけられました。まさかこんなオファーを受けるとは思ってもいませんでしたが、この言葉をかけられた瞬間、自分の心の中で「絶対にここでプレイする」という決心がつきました。

今でもはっきりと覚えていますが、この話の直後に母に電話をしました。母は「大学卒業後じゃダメなの?」と言いましたが、私は「今このチャンスを逃したら一生後悔する。今しかないんだ」と伝えました。その後一時帰国し、家族や早実の先生に事情を説明する日々が続きました。

スポーツ推薦で入学した私が途中で学校を辞めるということは、本来であれば認められるはずがありません。それでも、ホッケー部顧問の先生を始めとする先生方、そして大切なチームメイトたちは、私の思いを理解して快く送り出してくれました。私がチームを抜けることでどれだけチームに迷惑をかけるかはわかっていました。それでもみんなは、私のわがままな夢を応援してくれました。自分の海外挑戦は、早実がなければありえませんでした。人生を変える素晴らしい機会をくれたこの学校や当時のチームメイトには、今でも感謝の気持ちで一杯です。

そして2013年11月より、チェコでの本格的な海外挑戦がスタートしました。早実は休学という形を取っていましたが、翌年には自主退学の届けを提出して通信制高校「NHK学園高等学校」に転入し、チェコにいながらインターネットを通して日本の高校教育を受けていました。退路を断っての挑戦がスタートしました。

チェコでの2シーズン

私はチェコ留学中の目標を「シニアチームと契約し、プロデビューを果たす。それまでは日本に帰らずに挑戦を続ける」と定めていました。

最初の年は、選手登録が間に合わずに急遽試合に出られないことが判明するなどたくさんのトラブルからのスタートでした。それでも現地の方々に助けていただき、翌年にはU20リーグでデビューを果たすことができました。

U20リーグでは2シーズンプレイしましたが、ここでは素晴らしいチームメイトに恵まれ、2年目には得点王とリーグアシストランキング2位を獲得することができました。振り返ってみればかなり上出来に思いますが、ここにたどり着くまで全てが順調だったわけではありませんでした。

1年目シーズン途中、突然何の前触れもなく、1セット目から4セット目に落とされました。4セット目とはいわゆる控えのようなポジションです。私は人生ではじめて「試合に出られない」という経験をしました。当時はとてもショックで、そんな自分が恥ずかしいとさえ思っていました。試合に出られていないことは誰にも言っていませんでしたが、ずっと私のことを見てきた父はそのことに気付いていました。

ある日父から一通のLINEが届きました。それは、サッカー元日本代表監督の岡田武史さんが行われた講演の文字起こし記事でした。その講演の中に「途中にいるから中途半端、底まで落ちたら地に足がつく」という言葉がありました。この言葉を見た私は、まさしく、今の自分を言い表している言葉だと思い一気にモチベーションが上がりました。チェコに来てから、活躍ができて浮かれていたところがあったのかもしれません。そんな自分の思考パターンを指摘してくれる言葉でした。そこからは新たな戦いが始まりました。

言葉がわからなくても、監督やコーチに直接話を聞きに行ったり、どうしたら試合に出られるようになるかをひたすら考えたりしていました。結果的としてレギュラーで怪我人が出たときに私が呼ばれ、そこで活躍できたことで再び試合への出場権を勝ち取ることができました。これは自分の海外チャレンジの全てを支えてくれる大きな経験となりました。初めて、自分が挫折に打ち勝った瞬間でした。

U20リーグでの2シーズンを通しての活躍が評価され、私は念願であったプロチームからのコールアップを受け、2016年には試合にも出場することができました。そして、シーズン終了時にはプロ契約のオファーも獲得しました。チェコに来てからの目標が達成された瞬間です。それまでの私であれば、このオファーは即OKしていたかと思いますが、その時の私が出した答えは”NO”でした。

続きはフリーマガジンUJA Gazette 9号にてぜひお読みください!!

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