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ボクらなりの二人三脚

The University of Utah
船井 勝彦

彼女は隣の大学で電子工学を専攻していましてね。でもオシレーターをコレクションにしてニヤニヤ笑ってるような同級生のガリ勉とは違って、人生で初めて会った本当の天才っていう感じでした。知り合った当時は彼女には付き合ってる彼がいまして。インターンシップで別の州にいたんですが。まあ最初はただの友達で。色々夜遅くまでお喋りしてたりね。三・四か月目かな。図々しくボクと彼のどちらかを選んでくれよと。あれからもう二十年以上。はやいもんです。

渡米と出会い

自分でも当時はよくわかってなかったんですが、高校卒業したあと単身でアメリカに渡ったのはとにかく何かデカい事がしたかったから。そういう風に生きろと母に教わってきたんです。また別の話になるんですが、病弱な母でボクが東カロライナ大学でテニュアトラックの職に就いた次の年に亡くなりました。でもとにかくその行き所が不確かな野望を具現化するのを手伝ったくれたのが大学二年の時に出会った彼女だったんです。彼女はもう中学生のころから将来何をしたいか決めてた。これからは電子コミュニケーションの時代だから、それを駆使して世の中のためになるようなテクノロジーを開発するエンジニアになるんだと。彼女の学士の卒論はブルートゥースを使ってリモコンの赤外線を操るプログラムのプロトタイプ。パープルトゥースって命名して。実際そういうの今売ってますよね(笑)。とにかく何か目標をしっかり持ってる生き様を見てボクもそうなりたいと思うようになったんです。

彼女は学士と並行してサンマイクロシステムズっていう会社でスパークっていうマイクロチップの開発してました。五年以上開発掛かったチップたったんですが、それをマーケットに出す四か月前に上からの通達でハードウェア部全プロジェクト廃止全員解散だと。企業の嫌な部分を結構早いころに経験したんですよね。で、ボクはその頃大学の研究室で働いてたもんだから彼女もなんとなく工学部の研究室で手伝い初めて。まあなんでも上手な人だから教授からも称賛されて。大学の方もオールAで卒業式では大学を代表して旗を持つ役を任されるような人で。まあとにかくスターだったんですよ。

ボクの方も最初はなんとなくで始めた研究もやり甲斐が出てきて、これをキャリアにするのもいいかな、と思い出しまして。彼女もボクの研究の成果を楽しんで真剣に聞いてくれて。院に進んで本格的に研究者目指してみようかなと思い始めました。とにかく彼女はボクの一番の友人だったしインスピレーションだった。卒業が近付くにつれてお互い別の道を進むのかなって。ボクは離れたくなかったですね。そうだ、結婚しよう!とプロポーズしました。軽いですかね?んじゃあ一緒になるんだったら、一緒に院受験するか?って。彼女の研究指導の先生の推薦でミシガン大学はどうかということになって、ああそういやボクの分野でもミシガンで面白いことやってる人いるよ!って。ミシガンなら田舎だし院生x2の給料でも窮屈なくやっていけるよね、っという話で。合理的でしょ?まあ後で痛い目に合うんですがね、そのせいで。

研究者としてキャリア形成とライフイベント

最初の二年は結構順風満帆でした。彼女も入学すぐにNSFから0.5%採用率のフェローシップもらって一年目から学会で発表してて、どこまで優秀なんだよ(笑)。ボクの方もまあ着実に頑張ってたんですよ。だって生物系って結果出るまで時間かかるじゃないですかあ(言い訳)。ボクも彼女も妥協したくない性格だし、子供は前から二人ともほしいかなと思ってたので、博士総合試験に合格した後の博士課程三年目に長男が産まれることになるわけです。ここで全てが変わります。

正直に言って二人とも育児を甘く見てたんですね。子供が欲しいのは真剣だったし、ボクからしてみれば病弱な母に長男として早く安心させてあげたかったのもあるけど、何よりライフプランの一部だから心してかかり責任感はあるつもりだった。可愛くて仕方がない長男の赤ちゃんだったんだけど、とにかく夜寝てくれないんですよ。今なら五人も子供いるからわかるんだけど、長男は単にそういう寝ない赤ちゃんだったんです。でも当時はボクらなにか間違った事してるんじゃないか、ってストレスで色々試したりするんですね。三時間通して寝れないというのが三年以上続きました。結局夜通して寝たのは彼が五歳になったころ。次男と三男が寝るようになっても長男は夜泣きするっていう、今だから笑える話ですよ。まあボクも彼女も性格濃いからそういうところを引き継いでたんですね。今もそういう濃い性格の青少年ですから。

彼女は凄く順調にいってるから院生としてやってきたわけですけどここにきて研究より開発のほうが向いてるということに気付いてきて、修士取って博士中退して企業で開発の方に回ることも考えてはいたんですね。ところが彼女の指導教授からしたらこんな逸材のNSFのフェローが辞めるなんて勿体ないわけですよ。必死に説得されましてね。子供が産まれたんだから週五時間働けば良いから育児と並行してやればいいじゃないか、博士取った後企業に移れば良い、ともっともなことを言われたわけです。当時からNSFのフェローは年収3万ドルと待遇が良かったから週五時間で育児にもフレキシブルな環境なら継続してやってみようということになったんです。つまり短期的に表面的に一番安全な選択をしたわけです。まあ後からならなんでも言えるわけですが、情熱もないのに博士課程継続しようと決意したのは間違いだったんですよ。遡ると企業に行くべきだったのにボクと二人一緒に院を始めちゃったこともですかね。

博士課程の三年目ということは研究に本腰入れる時じゃないですか。ボクのボスは古いタイプの人間で週末は来なくていいし週日は五時で帰っていいから朝八時からびっしりとフルタイムで働けと言う。ここでボクはもっと育児に力を入れたいという気持ちをはっきり申し出なきゃいけなかった。でもまだ自分のアカデミアの居場所を見つけていなかった当時のボクは勇気を出してそれを言わなかった。更に彼女も私は研究に情熱がないし博士は取るだけ取って研究は続けないんだからカツはできるだけ今成果を出してよって言うわけです。今までのボクのキャリアでの一番の後悔ですね。彼女の才能を知っていながら、彼女の優しさを逆手にとって自分のキャリアに都合の良い決断を選んでパートナーとしての責任を野放しにしたわけです。

なるだけ早く二人で卒業して二人とも本当にやりたい事ができる環境になりたい。そう思い詰めてびっしり効率良く働けば成果は出ます。博士課程から四年ちょっとで筆頭著者の論文を五本出して卒業することができました。卒論の手前に次男も産まれ、彼女も筆頭著者の論文は二本目に取り掛かりであともう一年ちょっとで卒業できるかなという状況でした。ここでもボクは本来ならすぐポスドクに出ずに育児をして彼女に博士課程に専念するという選択を率先して取るべきでしたが、またここでボクはそれをしなかった。色々ポスドクのオファーとか来ていて待ってくれと言えば絶対待ってくれただろうに、そこまで頭が回っていなかったんですね。彼女も新しい街新しい環境に引っ越しすることに魅力を感じていたんですが、引っ越ししたとしても直後にポスドクを始める理由なんてない。周りが見えてなかった自分が情けないです。

ポスドクは内分泌代謝で当時トップ3と言われていたワシントン・セントルイス大の内分泌科のチーフのラボへ。彼は今までアカデミアで出会った中の人で群を抜いて確実に一番天才的な人で今もそうだと思っています。セントルイスはミズーリ州なので地価・生活費が安めな中西部。動物園博物館とか無料の公共施設が充実していて家族には楽しい街。彼女の家族のテキサスからもそこまで離れていなかったので地理的にも最善の選択でした。ラボ内の環境も責任持って自由に行動できるところでしたのでボクもある程度育児の分担にも力をいれることができ、彼女の博士論文もセントルイスについてから一年ちょっとで終わらせることができました。何か簡単に彼女が博士論文終わらせたような文章になりましたが、そこには工学ならではの壮絶なバトルがありました。悪く言えば生物学なんて仮説が間違ってたり研究の設計が少しぐらいずさんでも結果取って書きゃ論文として成立するじゃないですか(笑)。工学は基本的に今あるものより優秀なものができるか、という完成型の学問なので問答無用な印象を受けましたね。彼女が博士論文をまとめた数か月後に三男は産まれました。三人の子供たちと一緒に参加した卒業式で彼女の名前が呼ばれた時ほど人生で誇りに思ったことはないです。大声で彼女の名前を吠えたので三男はギャン泣きしましたが。

独立への道のり

博士研究に正直疲れた彼女はここで初めてまとめた産休を取ります。いくら合理的にかなっていたといっても情熱がなかったから燃え尽きちゃったんですよね。開発に対しての仕事探しも今新しいことに熱中することは難しいと。そこで取り合えず色々整理するために一旦育児に専念することになりました。ボクもポスドク二年目。プランとしては産休落ち着き三男が保育園始めるぐらいに二人で仕事を探そうという感覚でした。当たり前ですがテニュアトラックの研究職を得るというのは簡単な過程ではなく、ちょこちょこっと工夫したからって三年もポスドクやってない若造に億のスタートアップの投資をしてくれるバカ学部はそんなにないわけですね。先ほどセントルイスは家族には楽しい街だと書きましたがボクに限ってはセントルイスには真っ暗な思い出しかほとんどありません。それほど思い詰めて挑んでたんです。詳しく書くと長くなるので書きませんが、色んな意味で必死の甲斐があってポスドクの三年前が終わる直前にJCIの筆頭論文がアクセプトされNIHのKグラントのパーフェクトスコアを授与します。テニュアトラック応募の締め切りギリギリの時期です。いくつか面接をして三つの大学からオファーをもらいました。ワシントン大学からもテニュアトラックのインストラクターのポジションのオファーが来たんだけどボクは居残ることに迷いがあった。近い環境でラボを始めるということはボスや仲間ポスドクPIと直接競争することになるし、研究の多面性ということでハンデになりやすい。そして何よりインストラクターとしてのスタートなのでスタートアップも条件はあまり良くなかったし二・三年後にアシスタントプロフェッサーに昇格する時に切られる可能性もあると思った。彼女も仕事で波に乗ってくる頃だろうし、そういう時の引越しは彼女のオプションを減らす事になるだろうというのは大体予想できた。

それに対して東カロライナ大学からはボクだけじゃなく彼女にもすごく関心を持ってくれて教員として迎えてくれるというオファーをもらった。東カロライナ大学なんてみなさんは聞いたことがないような田舎の四流大学なんですが、一応ウチの分野ではしっかり名声はあるところなんですね。そこの先生方たちが色々夢のある大きな話をしてくれるわけですよ。君のような若い才能のある先生に大暴れしてもらいたい、とうれしいことを言ってくれるわけです。工学部のほうでもあなたのような力のある女性の先生をお招きして、工学を目指したいと思ってる女性の学生さんたちのモデルになってほしいと言われました。学士のグループ卒論でいろいろ企業との連携が必要になってくるからそこの橋掛けを任せたいと言われましてね。迷いはなかったですね。ワシントン大学より名声もリソースもハンデになるのは確実ですし、NIHから研究資金もらえないで研究キャリアを断念する確率は少なくはなかった。だけど東カロライナの夢に一つ賭けてみようと二人で思い決めました。ここで僕らが成功しなかったらそれはボクらの力不足ということ。今まで合理的で安全的な選択しかしてこなかったボクらの精一杯の決断でした。

あれからもうすぐ十年と時は経つのは早いものです。東カロライナで四男も産まれ、また去年ユタで五男も産まれました。キャリアも家族も大変な事も多いですが一生懸命やってきました。彼女も思い描いていたキャリアとは全く違う方向ではありますが、彼女の特質を生かした仕事で皆から一目置かれる存在になり、将来は大学のリーダーシップのポジションを任されていくことになるでしょう。ただやはり過去を思い返してみてやり直したいことがあるかと言われると結構悔いはあります。妥協してきたつもりでも完璧にボク中心の流れですよね。いくら二人で決めてきた事だとはいってもボクはもっともっと平等に、あるいはそれ以上に彼女中心でやるべきだったと思います。エンジニアとしての将来性のある彼女の可能性を捻じ曲げちゃったのは確実にボクのせい。結果論から言えば三つのR01を要するラボのPIになって大成功なんだけど、他にもっとあるはずだった良い決断をしてこなかったのはすごく後悔してます。

著者略歴
島根県出身。スイス・チューリッヒの高校卒業後、単身アメリカへ。04年ボストン大学士、05年同修士、09年ミシガン大博士取得。ワシントン大セントルイスでポスドクを経て13年に東カロライナ糖尿病センターで研究室のPIに。17年に現在のユタ糖尿病センターへ移転。主に細胞のエネルギー効率変化のメカニズムとそれによってもたらされる病原の研究。同大学工学部勤務のアメリカ人の妻と5人の息子の子育てに奮闘中。

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