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虚ろにしか感じられない自分。だから書く。自分を確認するために。

日記帳リレー

日々いろんなことを書き連ねる日記帳。
病気を抱えている私にとっては、自分の体調変化や気分変動を記録するのは大事な作業。
双極性障害(躁うつ病)を抱える私にとって、自分の「見える化」作業は欠かせない。

もともと日記に「自分」を残すことが好きではなかった。
自分の中の汚い部分やダメダメな自分を何かに記録して、それを誰かに見られるなんて、耐えられないことだった。

必死に優等生の仮面を被り「母に望まれる自分」を演じていた頃は、自分を丸ごと受け入れるなんて難しかった。
ダメダメな自分を記録に残すなんてとんでもないことだった。あり得なかった。
ダメダメな自分は自分の中から抹殺してしまわないといけない部分だったから。

でも、病気と向き合うに当たっては「記録」というものが欠かせなくなった。

自分って意外と見えないし、自分の変化というのは自分ではなかなか気付けない。
日々、自分を記録することが習慣となったことで、記録は〈視覚化〉に繋がるのだなぁと気付いた。

「記録」に慣れると、書くという作業が楽しいものになった。

体調変化や気分変動を記録しているうちに、自然と自分の「気持ち」の部分も書き出せるようになった。

どんな場面で自分がイヤな気持ちになるのか。
どんなことを言われると自分が傷つくのか。
どういうときに自分の感情が爆発するのか。

そんなことが少しずつ見えるようになってきた。

つらつらと書き連ねていると、ノート1冊はすぐに終わってしまう。
なので、ときどき百円ショップでノートを買い込むことになる。
なかなか買い物に出る機会の少ない私にとって、ノートのストックが無くなるのはとても不安だから。
ノートが無くなってストックの中から次の日記帳を選ぶのは楽しい。

私にとってはノートはもう友だち以上と言ってもいいかもしれない。

書くのに慣れてくると、ペンが勝手に書いてくれるような感覚になるときがある。
ときどき自分でも思ってもみないような言葉が飛び出して、「あぁ!私はそんなことに引っかかってたのか」と気付くことも多い。

私の欲しかった言葉たち

私が育ったのは、温かい言葉の飛び交うことのない不健全家族。
言葉にたくさん傷ついて育った。言葉に怯えて生きてきた。

私は私の望む言葉を親から与えてはもらえなかった。

私のことを丸ごと認めてくれる言葉。私に対しての肯定的な言葉。
そんな言葉たちが、いつ頃からか自然とノートに書けるようになった。

つらい状況に追い詰められると、ノートに向けてそのつらさをたくさん吐き出すのだけど、
つらい気持ちを出し尽くすとその後は自分への応援の言葉や温かい言葉が出て来てくれる。

そんな言葉をたくさん書きながら、「そっか!これって私が親に言って欲しかった言葉だよね」と気付く。

今でももちろん親からそんな言葉は与えられることはない。
でも、私は自分で自分にたくさんの言葉を与えられる。

なので、親から言葉をもらえないことを、今はそう気にせずにいられるようになった。

自分が自分に与える言葉を、自分はちゃんと受け取ってくれる。素直に聞き入れてくれる。

双極性障害を抱えていると、何もなくても気分変動が大きくて、とくに理由もなく気持ちの落ち込むことがある。
忙しさが続いたり体調を崩したり、睡眠不足でエネルギーの落ちているときは、なおさら気持ちは落ちる。

そんなとき「親」はやっぱり全く期待のできない存在。私にとって。

高齢でもあるし、とくに病気をたくさん抱えた母は数年前から要介護。
もともと言葉の多くはない母。出て来る言葉は以前にもまして否定的だったりする。

とにかく甘えられない環境にいるので、自分の気持ちの落ち込みはできるだけ最低限に抑えたい。
なんとかできる部分は自分でなんとかするしかない。

そんなとき、なんでも書ける日記帳は大活躍。

とにかく、いつでもノートを取り出せるように家の中でもなるべく近くに置いておく。
ふと気分の落ちてしまいそうなときには、なるべく早めにノートを出して自分に対しての温かい言葉を書く。

「言葉」って私にとっては〈愛情〉なんだなぁと感じる。

本を読んだり、SNSでいろんな人の文章を読んだりするのが私は好きだ。
それは私が寂しいからなんだろうなぁと思う。

本にしっかり没入すると、著者が私に語りかけてくれるような気持ちになれるときがある。
そんなとき、本を読みながら私はその著者を感じることができる。すぐそばに。

私が「文章」を好きなのは、そこに〈人〉を感じることができるからなんだ!

自分で日記やSNSに文章を書いているときも、たぶん私はそこに
「私」という〈人〉を感じたいのだろうと思う。

私がノートに書く言葉は、確かに生きた人間(私)から出て来た言葉。
私がノートに書き付けた言葉から、私はそこに生身の温かい「人間」としての私を感じることができる。

私は書くことで「自分」を感じたいのだろう。

親から肯定的な言葉や、温かい言葉を与えられることのなかった私は、
まだ「自分」という存在に自信が持てずにいるのかもしれない。

なんとなく虚ろにしか感じられていないのかもしれない。自分というものが。
だからよけいに不安が募るのかもしれない。

自分がしっかり存在しているのか、確認したいのかもしれない。

だから、
読むことで必死に「人」を感じようとするのかもしれない。
「人」を感じることで寂しさを拭おうとしているのかもしれない。

書くことで必死に「自分」を感じようとするのかもしれない。

読んでくれる人の存在で「自分」を感じようとするのかもしれない。

まだまだ自分にたくさんの言葉を与えることを続けよう。
私がしっかりと「自分」を感じられるようになるまで。

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