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フクシマからの報告 2019年春    息子と娘の甲状腺にのう胞としこり   医師「経過観察ですね」        母「先生、意味がわかりません」

私は、2011年3月の福島第一原発事故直後から8年間、故郷から他県に脱出し、避難生活を送る人々を訪ね歩く取材を続けている。

山形県や埼玉県、群馬県、兵庫県など、その旅は全国に及んだ。会った人たちとは今も連絡を取り続けている。そして時折会いに行く。その生活や考えがどう変化したか、しなかったのか、歴史の記録に残したいと願っているからだ。

原発事故から8年が経つ。私が取材してきた人たちは、次の3パターンに分かれる。

(1)故郷に戻った。
(2)そのまま避難先に定住した。
(3)妻子を避難させたまま父親だけが「単身帰還」。

私の取材し続けている人たちでいえば(1)の「戻った人」と(2)(3)の「事故前とは違う生活形態になった人」が半々である。

8年が経つと、避難者の生活がこの3パターンで定着したことがわかってくる。小学生だった子どもは、中学生や高校生、大学生になった。避難先の学校で友達ができたり部活動で活躍したり、生活の軸足が避難先に移った。母親も避難先の生活に慣れて定住した。

要するに、一時的な「避難」ではなく「転居」になったのである。

木下礼子さん(45)=仮名=(上の写真)とは、2012年1月に避難先の群馬県Q市で初めて会った(下の写真)。小学5年生の娘と3年生の息子、実母と夫の母親を伴っての避難だった。夫は勤務先から離れられず、そのまま南相馬市に残った。住んでいた家は、20キロの封鎖ラインからわずか3キロしか外側に離れていなかった。

群馬県に避難したのは、偶然、夫の親戚が住んでいたからである。2011年3月15日、軽四輪に一家を詰め込み、脱出した。アパートを借りて住んだ。他には知人も親戚もいなかった。生まれた時からずっと同じ南相馬市で暮らしてきた木下さんが、ある日突然、何の準備もないまま、見知らぬ街に放り込まれたのである。

その時の様子は拙著「原発難民〜放射能雲の下で何が起きたのか」(PHP新書)に詳しく書いた。「放射能が伝染る」とお嬢さんが小学校でからかわれた。それまで生まれ育った南相馬市でずっと暮らしていたのに、避難先には知り合いも友人もいない。地理すらわからない。木下さん自身も心身とも疲労の極限である。そんな話を聞いた。

群馬県で2年間の避難生活を送ったあと、故郷である福島県南相馬市に戻った。「娘も私も、もう精神的に限界」。木下さんは南相馬市に戻るとき、そう話していた。

その後も、私は折に触れて木下さんにメールなどで連絡を取り、南相馬市に行くたびに、会って話を聞くようにしている。南相馬市に住む詩人の詩集を送ってくれたこともある。

2019年3月、南相馬市を訪ねたときも、木下さんに会った。いつも会うファミレスで3時間話した。いつもどおり「何か変わりはないですか」尋ねる。避難生活を送った人たちの変化を記録する。そんなつもりで会う約束をした。

ところが木下さんの口から予期しなかった言葉が飛び出した。

「娘と息子の甲状腺にのう胞が見つかった」「息子はのう胞の中にしこりがある」というのだ。

それは、私が原発事故被災地の取材で一番「聞かずに済むように」と祈っていた言葉だった。もう8年もやりとりしている人たちである。次第に打ち解けて、家族や仕事や、いろいろな悩みを話してくれるようになる。私も自分の家族や仕事の話をする。「取材先と記者」というよりは「友人」に近いやりとりになる。

原発事故被災地の子どもの定期検診(2年に一度)が続くなか、甲状腺がんが見つかり始めているという話はニュースで聞いていた。

(注)原発事故の後、福島県が実施している「県民健康調査」の検討委員会の第34回目会合=2019年4月8日=での報告では、甲状腺がんで悪性または悪性の疑いと診断された患者は、5人増えて212人。そのうち169人が手術を受けた。ちなみに調査対象は約37万人、受診者は約18万人である。

 できれば、私の知っている家族にそれだけは起きてほしくない。避難生活の苦しみを十分に味わった人たちである。ようやく平穏な生活を取り戻したのに、残酷すぎる。記者としてというより、同じ人間として、私はそう願った。「何事も起こりませんように」と祈るような気持ちだった。

 しかし現実は甘くなかった。私が一人で取材している範囲でもそんな話が出てくるのだから、全体ではどれくらいの数になるのだろう。

 あえて楽観的な事実を付言しておくと「のう胞」は体液がたまった袋にすぎない。それががんなど悪性の病気の前兆であるとは限らない。そのまま消えてしまうこともある。

 成長期の甲状腺の検査をすると、原発事故による被曝がなくても一定数のう胞や結節が発見される。原発事故が起きると、周辺住民で検査を受ける人が増えるので、発見数そのものが増える。問題は、被曝の影響がない母集団と比較したときに、明確な増加があるかどうか、である。統計医学である「疫学」はそのへんは前提として織り込んで考える。

 1979年にアメリカで起きたスリーマイル島原発事故の周辺住民の健康調査をした3大学の疫学者をすべて取材した私の知見でいえば「がんなど病気の増減はあっても、30年後も、疫学者は『因果関係はわからない』としか言わない」である。

 そして、その時に取材したアメリカの疫学者はすべて「甲状腺がんの潜伏期間は被曝からおよそ5年」と話した。つまり、福島第一原発事故でいえば、2016年以降の発症は因果関係を疑う対象になる。

 木下さんの口からは、さらに不穏な話が出てきた。子どもたちの同級生が3人、相次いで自殺した。まわりで大腸がんになる人が多い。

 もちろん、それが原発事故と関係があるとも、ないとも、わからない。木下さんにも私にもわからない。将来もわかることはないだろう。

 ただ一つ私に伝わってきたことがある。

 そんな不安な話が地元の口コミで耳に入るのに、相変わらず政府や科学者は楽観的な話しかしない。マスコミは沈黙している。

 一方、子どもたちの成長は続く。現実は待ってくれない。止まってるわけにはいかない。前に進まなくてはいけない。どうすることもできない。

 そんな現実の狭間で、木下さんが生きていることだ。

(インタビューは2019年3月16日、福島県南相馬市で行った。話が飛んでわかりにくい場所を整理した以外は、できるだけやりとりをそのまま再現するように努力した。木下さんは真顔のまま口調を変えずに冗談を言うので、文字にするとやや唐突な箇所があるが、あえてそのままにしておいた)

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