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アンチコメの匿名性の落とし穴


SNSが広く普及し、気軽で便利なツールとしてどの年代、どの立場の人にも受け入れられるようになって久しいですね。

Twitterをはじめ、Instagram, YouTube, Tik Tokなど... 今挙げたものは、特に顔を知らなくても簡単に色々な人と会話を行うことが可能なアプリです。

非公開アカウント、いわゆる鍵アカでなければフォロワーでなくとも投稿の閲覧ができますし、コメントの投稿も自由です。自分の求める情報を得たり、好きなインフルエンサーの日常をのぞけたりして、SNSは日々私たちの生活を彩ってくれます。もう手放せないですよね。


さて、そんなSNSのコメント機能を使って、最近ではアンチコメントの卑劣さが目に余るようになってきているのは皆さんもご存知の通りです。ここ数年でも国内外問わず多くの芸能人、インフルエンサーがアンチコメントに対して反応してきました。テラスハウスの木村花さんの件は記憶に新しいですね。とても悲惨な事件が起きてしまいました...。


アンチコメをする人の意図とは?


「芸能人なんだから」「有名税だ」「色んな意見あるでしょ」「傷つくくせに投稿する方が悪い」


そんな声もあがっていましたが、花さんの死があった今、それも排斥される様相が濃くなってきました。しかし、アンチコメはいまだに見かけるし、被害にあう有名人は後を絶たないし、この風潮がよい方に向かう兆しが一向に見られない。

以前LINEニュースでこんな記事を見かけました。短めなので時間のある方はぜひご一読ください。

1年間に絞れば、炎上に加担した人はたった0.7%のネットユーザーに満たないという。そして10回以上も執拗にコメントを繰り返す人はその中の1.3%  。たったこれだけの人たちで、炎上記事に寄せられる批判コメントの14%ほどの割合を占めるといいます。彼らの多くは正義感から炎上に参加し、単なるストレス解消のためとは言いきれなさそうなのです。


正義感、といえば一見聞こえはいいですが、どの立場の人にも公平に与えられる普遍的な正義なんてものはあるのでしょうか?私の思う悪があなたにとって正義かもしれないように、あなたには悪と思われることさえ、世間一般にとっては善、とまではいかなくとも至極どうでもいいことだったりするかもしれないのです。


それでも自分[だけ]の正義を振りかざそうとする人がアンチコメの一端を担うのでしょうが、私が言いたいのは、よくそんなに簡単に「『自分』を開示できるなぁ」ということなのです。

どういうことか。


自己開示というリスク


2つほど質問をさせてください。

・あなたは「何」ですか?

・あなたは「誰」ですか?(「〇〇です」と名前を言う以外で)


少し条件を付けましたが、どうでしょうか。答えはまとまりましたか?


ひとつ目はスラスラと答えられるでしょう。

自分は男性で、社会人で、東京出身で、長男で、20代で... といわゆるあなたの「属性」がいくらでも挙げられると思います。たしかにこの時その人は男性であるし、社会人であるし東京出身でもある。

ではふたつ目。あなたは「誰」なのか?

ここでひとつ目と同じような解を当てはめようとした方は違和感に気付いたはずです。自分が誰か、という問の真意は「自分が他の人と違う『誰か』」であることを明示しなければならない、ということなのです。東京出身の社会人男性など腐るほどいる中で、どうやってそれが他ならぬ「あなた」だということができるでしょうか?試しに住所を答えたとしましょう。杉並区の△△マンション205に住んでいます。ではあなたの前後にその部屋を借りていた人も「あなた」なのでしょうか。否。ならばこう言うしかない。私の名前は〇〇です。では同姓同名の人がいたらその人もまた「あなた」なの?.......

名前言うてるやんけ。はい。質問冒頭で付した条件は皆さんに少し考えてもらうために追加しました。すみません笑

というわけで、「あなた」という人はたしかにそこに存在しているのに、はたしてそれが「誰か」ということを言うことはできない。ただ自分につけられたラベル・・・もとい属性でしか自らを説明することができない。しかも不十分。それだけでは自分を語り尽くせないのです。


この「何」と「誰」という違いは、ドイツ出身の哲学者、ハンナ・アーレントによって提唱されました。アーレントは前者をWhat、後者をWhoと称し、特に今私がお話ししたWho性というものの特性についてさらに掘り下げていく。

どう頑張って説明しようとしても語り尽くせないのがWhoである、と先ほどご説明しました。でも私たちは家族や友人、恋人に対して、その人を見かけた時、声を聞いた時、手を握った時、はたまたそのシルエットしか見えなかったとしても、それが他ならぬ「その人」とわかる。相手もまた「あなた」を他人と判別することができる。口に出せなくてもその人が「誰か」ということはなぜか知っている。


私たちはどこからその情報を獲得するのでしょうか。言い換えれば、Who性はどのようにして開示されるのでしょうか。

ハンナ・アーレント『活動的生』からの引用です。

言論と行為には、語られたことや為されたことを超えて、発話者であり行為者である当人をありありと現われさせる性質がある。(p.224)

つまり、当人が「誰であるか」を表すのはその人の発言と行いであるということ。それも私たちはただその発言や行いの内容を見るだけではなく、その時々の状況、相手の雰囲気、表情、声色、口調、その他の付随的な情報を取り込んで、その人が一体「誰」なのかを知ることができる、そのように人のWho性というのは開示されているのです。


自己を開示する言論と行為に対してアーレントはまた、次のように述べています。

一個の誰かとして相互共存においてありありと現われるというこのリスクを、みずから引き受けることができるのは、この相互共存のうちで将来的にも生きていく心積もりのある者のみである。(p.225)

発言し行動するということは、他者と共存する社会に自らを鎮座させるということであり、それには「自分をさらけだす」というリスクを否が応でも伴う。そのリスクに対して責任を負える者だけが、この相互共存社会に身を置くことができるのです。


3つの事例


さて、アンチコメントの話題に戻しましょう。

匿名だからと己の正義感を主張しコメントを残すことは同時に、アーレントの言葉を借りれば自らのWho性を開示することに他ならないのです。そしてそれは内容によるのではなく、付随的な情報によって補われる。



インスタでいつも沢山のほほえましいカップルエピソードを投稿なさっているキヌコさん。ご存知の方も多いのではないでしょうか。私もよく楽しんで見させていただいています。先日彼氏さんのもんこさんがYouTubeチャンネルを開設したそうで、おふたりの人気はこれからも高まりそうですね...!

ですが最近YouTubeを投稿しするようになり、 SNSで顔も知らぬ相手から多くのアンチコメントを投稿され、ついにはもんこさんが病んでしまったと...。それもトーク力を武器にしているコンテンツなのに顔や見た目について容赦無く叩かれたというのでは、その心ない言葉に辟易してしまうのは当然のことでしょう。


ここでアンチコメントを投稿している人が自ら開示しているWho性といえば、

「彼に対してまったくお門違いの認識をしているのに気付かない」人であり、

「顔のいい人しか顔出し投稿をしてはいけないと信じている」人であり、

「イラストから自分がイメージした通りの顔をしていないと許せない」人であり、

「そうした自分の正義に心から自信を持っている」人である。

少し強い言葉を使いました。すみません。しかしコメントをするその実は、このようなWho性を他者に対して開示していることに他ならないと言えるでしょう。


「お門違い」ということに関していえば、テニスの大坂なおみ選手のツイートに対する炎上は海外でもニュースになりました。ご本人の投稿が削除されていましたので他サイトの引用で失礼いたします。

このツイートは#BLM関係の投稿で炎上したすぐ後のことでした。どちらも解釈の相違が招いた批判でしたが、正直ご本人も付き合いきれないでしょうね...


直近の話題です。「美人だし性格や礼儀も最高」と評される小島瑠璃子さんもアンチコメントの被害に遭われています。


まとめ


もちろん投稿者側にも配慮の欠如や何らかの非がある場合もあるし、それに対する良心的なアドバイスも時には本人にとって貴重な意見となることもあります。

しかしこう見ると本当に数え切れないほどの人がアンチコメによって傷を被っていることがわかりますよね。アンチコメをする彼らはその恥辱きわまりないこの行為が自己のみならず、文字通り恥を「さらしている」ことに気付いていないわけで、私がこの記事を書いたのは、アンチコメ投稿者当人のためというよりは、アンチの被害に遭われている方がこの記事を読んで少しでもお気持ちを楽にしていただければと思ったからです。


私も先日他のSNSで知らない相手から熱心なアンチコメをもらったのですが(笑)、「あーハイハイ、『僕は私はこんな人間だー!』って頑張って自己表現してるんだよね」とでも思ってむしろなかなか微笑ましい気持ちで読み飛ばしてました。

様々な人が自由に意見を交わせるはずのSNSの弊害的な側面が、もはや文化のようにこの国に染みついてしまっています。時が流れ、中学の公民の教科書に「わが国の悪しき風習」として掲載されるようになる頃には、その恥ずべき文化を築いた我々は笑い者にされているかもしれません。


まだ試作段階だそうですが、最近ネガティブな言葉をクスっと笑えるポジティブワードに変換して表示するプログラムの開発が進んでいるという記事を見かけました。人が変わるのが先か?AIに誤魔化してもらうのが先か?できれば前者であることを願いたいものですね。


では。

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