文学教育のために出来ること

 高等学校のカリキュラムが変わって、国語で文学に触れる機会が減った。このことについて、現役の教師として感じていること。
 
 小説や詩、短歌や俳句を詠むことが必要なのか。生徒として指導を受けていた時、そして僕が教員になった当時はそんなに必要だとは思っていなかった。ただ、もともと本を読むのが好きだったこともあって、「面白いな」って感じていたし、授業に関係なく勝手に自分で読んでいた。中高の電車通学の時間、昼休みは専ら小説と過ごしていた。

 授業で扱う文学はつまらないという生徒も多い。これは、文学教育で根強い「読みの押し付け」のせい。本質を言えば、物語を読んだ感想は人それぞれ違うし、筆者の意図と違った解釈が間違っているなんてこともない。そもそもだれがどのように読んでも自由で、その違いが面白いっていうのが、こちらが目指すべき現代文の力に近いものだろう。

 もともとの流れとして、一義的な読みの批判として「十人十色の読み」を称賛する考えがもてはやされた。

 しかし、入試という枠組みの中ではそうはいかない。答えは一つしかないためだ。記述を導入しようとして、結局できなかった大学入試共通テスト(旧センター試験)からも分かるように、少なくとも今の時点ではそれを評価の対象にするシステムも人材もいない。そうすると、無理矢理にでも答えを一つに決めないといけない。

 これを否定しているわけではない。大きな方向性(大きな物語)を理解するということは、社会に出たときに必要。私たちは枠組みの中で生きている。それは資本主義や民主主義であり、日本という国の特徴でもあり、ある程度必要な教養や一般常識の理解に繋がる。物事が一つにしか決まらないときもある。その根拠を学ぶのは、パズルみたいで結構面白かったりする。

 しかし、そのためには主観と客観の区別と読み取りが必要だ。文章には書いた人がいるし、問題には出題者がいる。それを読んで解く必要性が受験生には生じる。つまり、その人の主観を客観的に読み取る読み手の主観が必要なんだ。

 面白いもので、主観と客観はコインの裏と表、メビウスの輪のように私たちと関わっている。どんなに客観的な文章(データ)であっても、それは筆者の主観が伴うし、それを客観的に読もうとしても理解する自分自身の主観に依る。その主観と客観の仕組みを理解しようとするとき、評論文だけでは足りない。

 小説は空想。つまり、筆者の主観が強い。そして、創られた物語の中の秩序はその人が決めた世界である。つまり、現実以上に恣意的で思想が詰め込まれたものだと言える。普段小説を読むときはそんなに意識せず、楽しみながら主観に浸る。しかし、これが国語の中にあると必然的に客観性を帯びる。無理矢理にでも「読み」を強いられると、見えてこなかった部分が見えてきたりする。

 よく生徒に伝えるのは三位一体の法則。これは予備校の先生に教わったんだけど、「行動・言動・態度」=「心情」。判断材料と感情の一致。空想世界で人の心を伝えようとする作者の意図に気付かされる。そして、象徴。書かなくてもいいことを敢えて書く意味を考えると、筆者の心が少し見えてくる。

 このような体験を担っていたのが、文学教育だったと今更ながらに気付いた。今何が出来るか、もう一度文学教育の意味を捉えなおしたい。

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