教材論 「〈私〉時代のデモクラシー」 宇野重規

 今年から新カリキュラムで「現代の国語」を担当している。今までに扱った教材も採録されているが、新たな教材を扱うのがとても面白い。

 世間一般で言われているように、教員は教科以外の仕事が多い。そのため、どうしても新しい教え方のアプローチだったり、新たな教材(これはほぼ国語に限ると思うけど)を扱うのを躊躇してしまう。でも、高校では専門教科の教育が一番大事だと僕は思っている。日々変化する教育界と受験界に対応していくためには、我々教員にも変化が求められるのだ。なんて、ちょっと偉そうに言ってみたけど、実際の動機としては義務教育じゃない高校では、社会で必要な力を教科を通じて学ぶ必要があるんじゃないかなって思ってる。ただ、大学全入時代で出口は入試ってことを考えると、プラスして受験対策も求められるんだけどね。その2本の柱を踏まえると、変わり続ける目標みたいなものが2つもあるのに、僕ら教員が変わらないのはどうなの?って思うわけですよ。

 新カリキュラムの施行に伴って、今年は新しい教材に取り組んできたけど、教員になった頃のような新鮮な気持ちで過ごすことが出来た。個人的に読んだことのない文章を読むのは楽しいんです。難しい文章を読んで何が面白いの?って他教科の先生や生徒から突っ込まれるんですが、これが国語(現代文)教員の性かな。

 そして絶賛授業中なのが、宇野重規さんの「〈私〉時代のデモクラシー」。冒頭でコマーシャルを例にして、現在の資本主義と個人主義の問題点を分かりやすく述べた後に、中世(日本だと近世)→近代→現代という歴史的な社会構造の変化とそれに伴う個人、すなわち〈私〉の変化を解説しています。この説明は簡潔で分かりやすい。実際に起きた事象とリンクさせることで日本史や世界史、公民の授業にも活きる。少し前から言われるようになった教科横断教育が可能な教材だと思いました。

 次に近代と現代を比較しつつ、近代(モダン)と現代(ポストモダン)それぞれの方向性が切り離されたものではなく、近代の課題が解決されて成熟した故に生まれたのが現代であると結論付けている。教材として教える際の流れがスムーズだということを感じた。時代の区分は便宜上分けられたものでしかない。本当は曖昧であって、急に新しい時代が変わったわけではなく、そこに至るまでの経緯を踏まえて変化していくのが実際。ただ、人間は今生きていると変化に気付きにくいものだし、過去を学ぶときにどうしてもわかりやすく解釈しがちになってしまう。○○時代(年号)と言えば?、という問われ方をするから仕方ないんだけど、当時生活していた人々の様々な思想が入り乱れ、せめぎ合って徐々に変わっていく。そのことを意識することが出来た。

 また、個人的に大学院の授業でポストモダンの系譜であるデリダ(脱構築)、フーコーを若干齧った身としては、前近代と近代、現代へと続く思想の流れを掴むことが出来たのは大きな収穫だった。

 結論に向かって、〈私〉像の変化と現代の問題が接続される。このことをを生徒に一般化する(生徒自身の問題として考えさせる)ことが、実感を伴っていて面白かった。僕自身の解釈を踏まえて、〈私〉=〈あなた〉という風に最後はまとめたい。〈私〉はどうありたいのか、各々が自らに問うことで問題を解決していくことを問題とする時代から、〈あなた〉はどうありたいのか、誰かに問われる時代になった。。そうしないと、〈私〉=〈あなた〉時代から置いていかれる。

 「不思議の国のアリス」が好きなんだけど、その中に出てくる赤の女王の言葉を生物の進化に当てはめた「赤の女王仮設」という考えがある。

https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E4%BB%AE%E8%AA%AC-185542

 簡単に言うと、「生物は生存のために常に進化を続ける必要がある」ということ。これは私たち人間にとっては思考・思想に関わる問題である。他の生物と同じように僕らも、「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」ということ。

 全てを解決することは難しい。文明の発展でどんどん複雑になる社会の中で新たな課題に向き合って、全力で走り続けなければならない


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