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どんな自分も認め受け入れる、と言うこと
どんな自分も認め、受け入れることは言うほど簡単ではない。少なくとも私にとっては、だ。
人には幼い頃から刷り込まれたさまざまな「価値観」がある。善悪もそうだし、損得もそうだ。価値観が違えば、善悪は法律違反以外のものはそれぞれ基準が違うし、国による法律の違いによっても変わる。
損得は、お財布を落として戻ってこなかったことを、損したと多くの人は思うが、「厄落とし」と考える人もいる。だから自分が持っている価値観でさえも、時には疑ってみる必要があると思っている。
そうは言っても、誰でも今持っている価値観でしか自分のことを見ることができない。価値観に基づいた判断は、あまりにも無意識で、あまりにも自然に行われているものだからだ。呼吸をすることを意識することがあまりないのと同じで、価値観は自分と一心同体だ。
その私の価値観では、ガンガンと前に進んでいる自分は良い自分で、落ち込んで希望をなくしている自分はダメな自分だと思うようだ。キャパを超えたものでさえも、自分ならできるはず、と過去の成功体験をもとに自分にムチを打つ。またそんなループに最近入っていて、昨日ついにパーンと弾けた気がした。
弾けるとどうなるか?
・無気力になる。
・全てのことがどうでも良くなる。
・自分のやりたいことが本当にやりたいことなのかわからなくなる。
・全てのことがうまくいかなくなる気がする。
最近姿を表すことがめっきり減っていたのだが、若い頃からよくある、「ドーンと落ち込む瞬間」がやってきたことに気づき、自分の意識を外に逸らすために、以前から行きたいと思っていたカフェに逃げ込んだ。そこで周囲の若い女性たちのおしゃべりをBGMに眠っていた。笑
しかしこの「ドーンと落ち込む」瞬間とは、長い間付き合っているから、「まあそのうち戻るでしょ」と思っている自分もいた。
しかし、気づいたのだ。
「目標なしに生きること」が初めての経験であることに。
いや、正確に言えば目標はある。あるが、それを捨ててしまった時、あきらめてしまった時、閉ざされてしまった時、(閉ざされることは自分が捨てない限りないのだと思うのだが)どうやって生きていったらいいのかわからない恐怖感を初めて体験した気がした。
昔から「自分のやりたいことがわからない」と言う言葉を、高校生や大学生から仕事で、また下手をすれば大人から聞くたびに、心の中で「全く信じられない」と思っていた。私にはそんなことは経験がなかったからだ。だから、その人たちの気持ちを真に理解はしていなかったが、「好きなことって何かありませんか?趣味でもいいんですよ」と質問をしていたが、かなり薄っぺらいカウンセリングになっていただろう、とわかったのだ。
相手はもしかしたら「この人にはわかってもらえない」と思っていた可能性がある。それに今気づいたのだ。もしかしたら、それを経験させるためにこの久しぶりの「どーんと落ちる」体験がやってきたのかもしれない。
そして、そんな自分が自分の中にあることを思い出し、初めて経験する「目標なくして生きること」も経験した。どんな気持ちになるのかも味わった。
すると次に思ったのは、「これ、小説に書ける」と言うことだった。
最近の私は何を経験しても、またどんな自分が出てきても、また相手からどんな対応をされても、良くても悪くても次の瞬間には「これはどこかで書ける」と思っている自分がいる。先日もまるで私にぶつけるつもりなのか、と思うほどギリギリのところを車が右折してきたり、完全に視覚からいきなり飛び出してきた人がいて、車は避けられたが、人は避けられずぶつかってしまったりした。幸いお互いに大したことではなかったが、その瞬間は怒りが溢れるが、次の瞬間には「これ、書ける」と思っている自分がいる。
だからドーンと落ちた時もその落ちた瞬間の気持ちをとことんまで味わい、放置し、どうしたらもとに戻るのかを実験しているかのように、離れたところからドーンと落ちた自分を観察していた。結局あるきっかけで戻ったのだが、ここでは書かない。これもいつか書けると思っているから、ネタ隠しをしている気分だ。どうすれば気分が上がるのかがわかり、自分の扱い方がわかった瞬間だった。
このようにまだプロデビューさえしていないくせに、自分の経験、感情、考え方、あり方全て、そして私が関わる人の経験、感情、考え方、あり方全てを味わい尽くし、知り尽くそうとしている。
そう気づいた時、ふと「ああ、こんな小説を書きたい」と言うアイデイアが浮かんできて体の中からゾクゾクとした。忘れないうちに概要をスマホに残した。
気づけば、「ドーン」と落ちた自分が薄くなり、今朝まさに今の私にドンピシャの有料note記事を見つけ、読んで納得した。一件落着だ。
でもあの「目標なくして生きる不安感、焦燥感」を体験できたこと、そしてそれが以前からの私の価値観によって感じられたことが全て私なりに納得できて、「これが自分なんだ」と認め、受け入れることができた。
「どんな自分も認め、受け入れることができた」と言う、難しかったことができたことは私にとって自信になったし、もしかすると価値観が変化したのかもしれない。目標ややりたいことがなくても、生きているだけでいいのだと言う価値観へと。
全てはネタ。
人生は全てネタ。
頭でそう思ったり、言い聞かせたりしなくても、自然とそうなっている自分を発見して、なんだかすごく嬉しかった。
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