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母が死んだ日のこと
2013年12月23日の早朝に母は他界した。肺癌ですと言われてから3ヶ月くらいで逝ってしまった。
母は心配性だ。そして過保護だ。いつも味方してくれたし反対されることはほとんどなく、僕は何一つ不自由なく育てられた。
僕には反抗期がない。ずっと両親と仲がいい。記憶の中では両親の誕生日にプレゼントを渡さなかったことは一度もない。大学で遠いところで一人暮らしいている時もネット使って何か贈っていた。社会人になって一人暮らししてるときは実家に帰ってお寿司をご馳走するのが定番化した。
母と2人でとか父と2人で親子3人で出かけることはたくさんあった。姉が結婚するまで家族4人でよく出かけた。
親孝行したいときに親はなし。
中学生くらいから、これにはなりたくないと思っていたのでわりと親孝行できてたんじゃないかと思う。
ある日、姉からメールが来た。
「母が深刻な病気かもしれない。今度検査結果を一緒に聞きにいく。母は心配かけたくないから内緒にしてほしいと言ってるけど、できたら来てほしい。」
姉が僕に頼ることはほとんどない。弟の僕に頼る必要がないくらい姉は何でもできる。その姉が「来てほしい」と連絡してきた。迷わず、すぐに仕事は休みにした。
仕事を休んで病院の入口で両親と姉を待った。母は僕を見るなり泣いた。なんでいるのよ、と。
姉のメールが来たときに深刻なことになっているのかもと思ったが母の泣く姿を見て本当に深刻なことが起きたと実感したし覚悟した。
家族全員で先生の話を聞いた。
とても優しく丁寧に説明してくれた。優しいけど内容は残酷だった。要約すると「治りません。死ぬのを遅くするのに抗ガン剤の投与をするしかない。ガンの場所が悪いので手術もできない。」ということだった。
たぶん父と母は理解してなかったと思う。
理解してなかったのか理解したくなかったのか。
病院の帰りにみんなで外食した。結婚した姉含めて久々に家族全員でご飯を食べた。今思えばその日が4人そろった最後の家族全員での食事だった。
母の強い要望で妻には何も伝えなかった。妊娠している妻に余計な心配をかけたくないとのことだった。
入院した母のお見舞いには出来るだけ行った。会社を休んでお見舞いに行くけど妻には内緒だからスーツを着ていつもの時間に出る。
面会時間が夕方までなのでそのまま家に帰るのは早すぎる。父の夕飯に軽く付き合ってから帰る。そんな日を何回かした。
お見舞い中に妻から母にメールが届く。お腹の子の近況報告。母は嬉しそうにしていた。生まれたら砂浜のキレイな海に連れて行くんだと言っていた。
たぶんその願いは叶わない。
そう思ったけど、母の話をずっと聞いた。
12月上旬に姉からメールが来た。
先生から大事な話があるとのこと。父は現状を理解できてないから私と一緒に話を聞いてほしいという連絡だった。
父も母もまだまだ長く生きていけると思っていた。姉と僕は長くても春かなと覚悟していた。
先生からはもういつ逝ってもおかしくない状況だと説明された。月末に娘が生まれるんです。母に逢わせることはできますか?ときいた。保証はできないと言われた。
もしもの場合に延命措置をするかしないか判断してほしいと言われた。
即答で「しません」と言った気がする。
病気になる前、元気なときに母は常々、延命措置は嫌だと言っていた。苦しい状態を長くしたくないと。それを聞いていたので延命措置はしないと書類にサインした。
父には何も相談していないで勝手にサインした。もしかしたら父だったらサインしなかったかもしれない。父に相談せずに決めたのは良かったのか、いまだにわからない。いまだに父には何も話をしていない。
他界する前日の12月22日にもお見舞いに行っていた。休みの日だったから妻には久々に会う友達と忘年会をすると言って出かけた。
だいぶ衰弱した母は自力で歩くことが出来なくなっていた。基本的にずっとベッドの上で過ごしていた。
今日は気分が良いから散歩したいと母が言う。散歩と言っても歩けないから車椅子に乗って院内を少し回るくらい。
母を乗せて車椅子を押す。
晴れた冬の日、病院から富士山が綺麗に見えた。綺麗だねと会話したことは覚えている。また来るねと言って、その日は帰った。
12月23日。
ちょっと本屋に行ってくると言ってズボンだけジーンズに履き替えて、コート着たらわからないからと言って上はそのままの部屋着のトレーナーで1人で出かけた。たまたま本屋にでかけた。
本屋につくと父から電話。
早く病院に来いとのこと。本屋からそのまま電車に乗って病院に向かった。
本屋に行くと言って出て行った人が帰ってこないのは、おかしい。母の要望でずっと妻には隠していたけども、さすがにもう妻に伝えないといけないなと思った。
しかし、急いで病院に向かっているので、ゆっくりと説明している時間がない。義母に電話した。
妻の両親には事前に話をしておいていた。たぶん永くない。妻には内緒にしているから何かあったらよろしくお願いしますと。
病室に着いた。もう会話ができる状況ではなかったが一応、僕が来たことは認識してくれたと思う。母の手を握りしめてベッドの横にずっと座っていた。
夜になった。病院が仮眠室を用意してくれた。父と交代で母の様子を見る。
母の兄にあたる伯父さんと母の姉の娘にあたる従姉妹も見舞いにきてくれた。2人も病院に泊まり込みで一緒にいてくれた。
軽く仮眠して夜中に父と交代した。病室には心電図の定期的な音と母の呼吸する音だけ鳴っていた。
外を眺めながら僕は何を待っているのだろうと思った。
いつまで何を待っていればいいのだろうと思った。
いまこの時間って何の時間なんだろうと思った。
定期的に鳴っていた音が急に変わった。母の呼吸する音が消えた。そのとき一緒に病室にいた従姉妹に急いで仮眠室にいる父を起こしてきてもらった。
すぐに病室に駆けつけてきた父の顔は覚えていない。
看護師さんと当直の先生がきて母の死を確認した。
知らせを聞いた姉もすぐにタクシーでかけつけた。母を見て泣いた。久しぶりに姉が泣いている姿をみた。
危ない状態だと知って急いで京都から向かってきていた母の姉(一緒にいてくれた従姉妹の母親)が病室に入ってきて泣いた。なんで先にいくんやーと言って泣いていた。
親孝行は割としてきたことと事前に話をきいていて母の死を覚悟する心の準備ができていたせいか、そのときに涙は出なかった。
夜が明けて朝になった。
人が1人死んだくらいじゃ何も変わらない。陽はまた昇る。
今日も天気は良さそうだなと思って記念に病院の窓から朝日の写真を撮った。
母が他界した2日後に娘が生まれた。
大切な人が1人減って1人増えた。
娘は生まれてすぐにICUに入院した。肺に水がたまっているから自発呼吸だと酸素が足りない状態だった。
おいおい母の次は娘かよ。しかも母と同じく肺が悪いってなんなんだよ…と思った。
母の葬式準備と妻と娘の入院のお見舞い。たぶん人生で1番忙しい1週間だった。
娘は1週間くらいの入院ですんだ。12月31日に退院することができた。
全部落ち着いたら涙が出た。単純に母がいないことが悲しかった。それからしばらくは、よく泣いた。会社の帰り道、寝る前とか不意に悲しくなって泣いた。
娘の成長を感じる度に涙が出てくる。この姿を母に見せられなかったなと。
親孝行はだいぶ出来てたと思うけどひとつだけ後悔がある。それは母を抱きしめなかったこと。宇宙兄弟のこのシーンみて思った。他界する前日に富士山が綺麗だねと会話したときに同じことすればよかったなと。
代わりに娘を抱きしめる。娘が抱っこしてーと言ってきたときは断らずに抱っこしてあげる。
母が連れて行きたいと言っていた砂浜のキレイな海に娘を連れて行けていない。来年行こうかな。
今日は母の誕生日。
おめでとう&ありがとう。
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