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短編小説「猫と人間」【前編】

 コンビニでアイスクリームでも買おうかと、僕はマンションのエントランスを出て、町を歩き出した。

 午後二時半、曇り空の下、僕はグレーのワイシャツに、ブルーのジーンズ、コンバースのスニーカーという出立ちだった。

 遅い昼食を済ませたばかりの僕は普段から運動不足で、たかだか徒歩五分の距離でもそれなりの運動にはなる。
社会人になると体を動かす機会がめっきり減るから、車を使わないという選択肢は我ながらいい心がけだ。

 今日は平日だが、会社は休みだ。
五月四日は、何の祝日だったか。駄目だ。思い出せない。

 連休中の住宅街は、いつにも増してひと気が少なかった。
町には電線の他に送電線が張り巡らされ、あちこちに鉄塔が点在している。
弱い風が吹く度に、庭先の落葉樹や常緑樹が静かに揺れる。
小高い山、行きつけのベーカリー、路傍を歩く野良猫。

 一時的ではあるにせよ社会から解放されたことで、普段は見慣れたはずの景色を楽しめるほどの精神的な余裕が、今の僕にはあった。

「ねえ、私の言葉、分かる?」
 不意に、すぐ傍から若い女性の声がした。
反射的に僕は周りを見渡した。
だけど通りには、僕以外の人間の姿は見当たらない。

 決して幻聴などではなかった。
確かに今、それは僕のすぐ傍からはっきりと聞こえたのだ。

 この瞬間、僕の近くにいるのは白と黒の毛色を持った、一匹の野良猫だけ。
彼、もしくは彼女はなぜか歩みを止めて、僕のことをじっと見上げている。

「やっぱり、この人も駄目か」
 猫はそう言って、歩き出した。

 猫が、喋った。人間の言葉を、猫が正確に発音した。
と言うより、その声は人間から発せられた声質となんら変わりなかった。
実際に若い女性の声で、『やっぱり、この人も駄目か』と猫は口にしたのだ。

「猫が、喋った」僕は呟いていた。
その直後、猫はくるりと振り返り、僕の方を見つめた。
「私の言葉が、分かるの?」猫は言った。
「嘘だろ……猫が喋ったぞ」
「君、私の言葉が分かるんだね?」

 そう言うと、猫は僕の方へさっと駆け寄ってきた。
僕はあまりの衝撃で、身動き一つ取れなかった。

 猫は僕の足元に近づき、そして止まった。
翡翠のように綺麗な色をした丸い瞳、ピンと空に突き出た両耳、体の白と黒の模様は牛を連想させる。
だけど今はその可愛らしい見た目よりも、猫が日本語を話すという状況にただただ僕は圧倒されていた。

 猫は僕を見上げ、凝視していた。「ねえ、そうなんでしょ? 私がなんて言ってるか、理解できるんだよね?」
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。それからゆっくりと頷いた。「どうやら、そうみたいだね」
「信じられない。私の言葉が分かる人に、やっと会えた」
「僕は日本語、と言うか人語を話す猫に初めて会ったよ」

 冷静さを装っているつもりでも、僕の心拍数はかなり上昇していた。
白昼夢でも見ているのだろうか。こんなこと、現実では絶対にあり得ない。
発声器官なんて、人間のそれとは根本的に違うはずなのに。

「そりゃ、驚くよね」猫は言った。「でも、日本語を話せるのは当たり前なんだ。私、元人間だもん」
「元、人間?」
「元人間で、OLだったの」猫は言った。「猫になる呪いをね、かけられちゃったんだよね」

 猫になる呪いって、一体どんな呪いなんだ。
一体いつから僕は、メルヘンチックなファンタジーの世界に足を踏み入れたんだろう。

「山奥に住んでて、怪しいスープを煮込んでる魔女にでもかけれたの?」
「ううん、アンティークショップの店長に。由比ヶ浜にある」

 話が読めない。全てが規格外だ。
由比ヶ浜にあるアンティークショップの店長に、猫になる呪いをかけられた?
それによってこの猫は、人間から現在の姿に変化したらしい。
さっきから何もかもが、僕の理解の範疇を大きく超えている。

「信じられない……よね?」猫は恐る恐るといった感じで訊いた。
「普通はね」僕は言った。「でも現にこうして、普通じゃないことが起きてる。猫と会話してるんだ。だから、そういう意味では信じれるかもしれない」
「本当? 信じてくれるの?」
「うん。本当のことなんだろ?」
「誓って本当。嘘は言わない」
「じゃあ信じるよ。君は以前は人間の女性で、OLをやっていた。でも今は猫として生きてる」
「そう。その通り」彼女は頷いた。

 通りには相変わらず、僕と猫以外、誰もいなかった。
どうやら彼女の言葉を理解できるのは僕だけらしいので、他所から見たら今の僕は完全に変質者だろう。
人通りが全くないという事実は、確実に僕を安心させた。

「猫になったのは、いつから?」僕は訊いてみた。
「つい最近。三日前とか」
「アンティークショップの店長に、猫に変えられたって言ったよね? それはどういう経緯で?」
 自分でも、こんな非現実的な質問をすること自体に驚いている。
だけど僕はもう、この状況を受け入れなければならない。

「私、アンティークが好きでね、そういうお店によく行くの。その由比ヶ浜のお店は、三日前に初めて行った。店内は猫が何匹かいて、店長は年配の女性だった。貴婦人って感じの見た目の人だったな。
暫く店内を回って、気に入った器とかグラスを見つけたから、レジに持って行ったら、その店長にこう言われたの。
『あなたには、この店の品を売ることはできない。訳あってあなたに、ある呪いをかけさせてもらったから』」
「ふうん。それで?」
「それで、私が『どういうことですか?』って訊いた時には、もう猫の姿になってたの。
それから彼女はこう言った。『あなたは今日から猫になった。この呪いを解いてほしければ、あなたの言葉が理解できる人間をここに連れてきなさい。そうすれば、呪いを解いて元の姿に戻してあげる。だけどそれが無理なら、あなたは一生猫のままよ。私があなたをここで飼ってあげてもいいけれど』って」

「だいぶ身勝手な人だな。どうして君にそんな呪いをかけたんだろう?」
「さあ……それは分からない」 

 何か、心当たりがあるんだろうか。
あったところで、それを僕に話すつもりはないということか。

 にしても、僕は今の今まで人間を猫に変える呪いが存在することを知らなかった。
本当にそんな呪いがあるとするなら、かなり恐ろしい話だ。世界征服だって夢じゃないかもしれない。

 しかしその呪いが使える女性の職業は政治家や官僚ではなく、由比ヶ浜でアンティークショップを営む店長らしい。
社会に出てまだ三年目の僕だが、世の中というのは本当に奇妙で不条理だということを実感せざるを得ない。

「それでね、私は彼女が提示した条件、『私の言葉を理解できる人を探すこと』を選んだの。元の人間の姿に戻るために、ね。
それから三日間、あてもなく探し続けた。道行く人に、片っ端から声をかけて。でもその間、誰も私の言葉を聞いてくれなかった。みんな、猫がただニャーニャー鳴いてるだけとしか思わないんだろうね。
だけど今日、やっと君という人間を見つけた。私の言葉に、耳を傾けてくれる人を」
「うん。事情はよく分かった」僕は頷いた。「今からそのアンティークショップに行こう。君を元の姿に戻させるんだよ」
「一緒に、来てくれるの?」
「当たり前だろ。勝手に人を猫の姿を変えるなんて、そんな理不尽な話があってたまるか。僕も話を聞いてて、少し腹が立ったし」
「君、いい人だね。ありがとう。私なんかのために」
「こんな話を聞いて、手助けしない人間の神経を疑うね」

 単なる正義感や思いやりのためだけではない。
心のどこかで、彼女が人間に戻った姿を見てみたいという好奇心もあった。

「ありがとう。私、本当にいい人に声かけたんだ」彼女は感慨深げに言った。
「大げさだって」僕は苦笑いした。「それにしても、よく由比ヶ浜から歩いて大船まで来たね。猫の姿なら、尚更遠く感じると思うけど」
「私、横浜市に住んでるから、この辺りの地理には疎いんだ。猫の姿だから、Googleマップも使えないでしょ? だから、いつの間にか迷っちゃって」
「なるほどね」
「突然猫の姿に変わっちゃったのも、連休中で良かった。そうじゃなかったら私、無断欠勤になっちゃうところだったから」
「あ、確かにそうだな。不幸中の幸いってやつか」
「本当に」彼女は頷いた。

 こうして気丈に振る舞ってはいるけど、猫として生活する三日間は本当に大変だったはずだ。
相当な苦労を強いられたに違いない。

「じゃあ、さっそく行こうか」僕は言った。「目的地が由比ヶ浜にあるなら、電車を利用するのが合理的だ」
「うん。賛成」彼女は微笑んだ。

【後編】へつづく

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