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短編小説「猫と人間」【後編】

 それから僕らは最寄りの大船駅まで、肩を並べて(?)歩き出した。

 少し前まで、散歩がてらコンビニに行くだけだったはずの日常が、今は猫になる呪いをかけられた女性を救おうとする非日常に変わっている。
ただ自宅から数百メートル圏内を歩いていただけなのに。
人生って、何が起こるか本当に分からない。

 喉が渇いていたらしいので、道中の自動販売機でミネラルウォーターを買って、それを飲ませてやった。
こんなに美味しそうに水を飲む猫、いや人間を僕は初めて目にしたかもしれない。
水分補給が終わったところで、僕らはまた駅に向けて歩き出す。

「名前、聞いてもいい?」
「つみれ。藍色の藍に沢で、藍沢つみれ」
 藍沢つみれ、か
「君は? なんていうの?」
「僕は井浦。井浦渉」
「井浦君ね」彼女は言った。「年、いくつ? 大学生って感じじゃないから、私と同じ社会人だよね?」
「二十五。大学を出るのが一年遅れてるから、社会人三年目だよ」
「ふうん。年下かあ」
「君は? いくつなの?」
「ええ、レディに年齢聞く? 普通」彼女は信じられないといった顔で僕を見た。

 自分から聞いておいて? 猫が自由な生き物だというのは本当らしい。
「ふふっ、嘘嘘。二十七だよ。君の二年先輩」
「随分と長寿な猫だなあ」
「ちょっとっ。私、人間だってばっ」

 横須賀線に乗って鎌倉駅に着いた僕らは、そこで江ノ島電鉄に乗り換えた。
車内は連休中ということもあってそれなりに混んでいたが、なんとか座席に座ることができた。

 僕の隣には一匹の猫が座っているため、周りの乗客にジロジロ見られたりするけど、気にしない。猫と電車に乗る機会なんて、そうそうないんだ。

 でも、乗車中は僕らの間に会話はなかった。僕から話しかけることはしなかったし、彼女から話しかけてくることもなかった。
人間と普通に話すみたいに猫と話していたら、きっと高確率で僕は周りから白い目で見られてしまう。
そうなることがお互いに分かっていたから、暗黙の了解として乗車中の会話は自重したのだ。

 和田塚駅を過ぎた電車は、三分も経たない内に目的の由比ヶ浜駅に到着した。

 駅を降りて、僕らは暫く周辺の住宅街を歩いていた。
道幅は車一台分がやっと通れるくらいで、僕らの他に通行人は殆どいない。
車も駐車場に駐めてあるのを見かけるくらいで、この道を走行する車は一台もなかった。
行楽シーズンだから、海岸にはそれなりに人はいるんだろうけど。

 やがて彼女は、一軒の家の前に立ち止まった。「ここ」

 その二階建ての西洋風の邸宅は、いかにも魔女が住んでいそうな趣きがあった。
家の周りを様々な種類の植物が生い茂り、白を基調とした外壁に、緑のサッシ。屋根からは煙突が突き出ている。
看板が出ていないため、一見ここがアンティークショップだとは分かりにくいが、確かに窓ガラスの先に数多くのアンティークが陳列されているのが確認できる。

「ここに、君をその姿に変えた張本人がいるんだね」
「うん」彼女は小さく頷いた。
「よし、行こう」

 扉を開けると、カランカラン、と控えめなベルの音が鳴った。
彼女を先に店に入れ、僕も後から入った。

 店内には多種多様なランプやシャンデリアが天井から吊るされ、多種多様なアンティークが整然と陳列されていた。
壺、器、グラス、時計、絵画、ポット、カップ、ソーサー、置物。
とにかく数えきれないほどの種類の品が、ここには存在する。
そんな店内を、ペルシャ猫やベンガル猫といった何匹かの高級感ある猫たちが徘徊していた。

 店の奥を進むと、一人の老齢の女性がロッキングチェアに腰掛けていた。
黒いリネンのワンピースを着飾り、ショートカットの白髪に、小さな丸い金縁眼鏡をかけている。
今はふくよかな体型をしているけれど、若い頃は綺麗だったことを伺わせる顔立ちだ。

 指輪、ネックレス、イヤリング、と様々な装飾品を身につけた彼女の膝の上に、一匹のラグドールが居座っており、僕らをじっと見つめていた。
彼女が言ったように、まるで中世ヨーロッパの貴婦人といった佇まいだ。
そうだな。便宜的に彼女のことを貴婦人と呼ぶことにしよう。

「いらっしゃい」貴婦人は柔和な声で言った。
「きふ、あなたが、藍沢つみれさんに呪いをかけられたんですか?」
「ええ、その通りよ。ちゃんと自分の言葉が理解できる人間を連れてきたのね、藍沢さん」
「では約束通り、彼女の呪いを解いてくれませんか?」
「そうおっしゃるだろうと思って、もう解いたところだけれど」
「えっ」

 隣を見ると、そこにはもう猫の姿はなく、代わりに一人の成人女性が立っていた。

 黄色とオレンジのチェックのブラウスに、白い綿のズボン。肩には白いトートバッグが掛かっている。長いダークブラウンの髪は後ろで一つに結ばれている。
そして彼女の顔立ちは-あの可愛らしい猫の印象からは想像もつかないほどに-美人だった。
大人びた見た目の、目を疑うくらい綺麗な女性が僕の隣にいる。

「嘘……いつの間に」彼女は自分の両の掌を見つめていた。
そんな人の姿に戻ったばかりの彼女から、僕は暫く目を離すことができなかった。
要するに、僕は彼女に見惚れていた。

「藍沢さん、思ったより早かったのね。本当はもう少し時間を要するかと思っていたわ」貴婦人はラグドールの背中を撫でながら言った。
「あなたのおかげで、私は大変な目に遭いました」彼女は言った。「偶然この男性、井浦君に出会えたから良かったものの」
「当然よ。だって、私はあなたに相応の試練を与えるために、猫になる呪いをかけさせてもらったんだから」
「あの、なぜそんなことをされたんですか?」僕は訊いてみた。「人を猫に変える呪いなんて、常識的に考えてかなり悪質な内容だと思うのですが」

 いや、僕だって猫になる呪いが存在することを、はっきりと受け入れられた訳ではない。
でもたった今、この貴婦人は藍沢さんを猫の姿から、元の人間の姿に変えてみせた。
人を猫に変えて、猫を人に変えるなんて、もはや何かしらのトリックで欺けるような次元ではないと思う。
つまり僕は、暫定的に呪いの存在を信じることにしていた。

 貴婦人は僕をジロリと見た。「知りたい? 私が藍沢つみれさんに呪いをかけた理由を」
「ええ、そりゃあ、まあ。気になりますよね? 藍沢さんも」
「う、うん。そうだね」
 彼女の返答は、どこか歯切れが悪かった。

「いいわ。教えてあげる」貴婦人は溜め息をつくように言った。「藍沢さんはね、今から三年前、二匹の飼い猫を捨てたの。種類は二匹ともスコティッシュフォールドで、性別はどちらもメスだったかしらね。
どんな理由があったにせよ、彼女は三年前、二匹の猫を捨てたのよ。間違いないわね? 藍沢さん」
 藍沢さんは無言で頷いた。俯き、顔を上げようとしない。
「それから二匹の猫は保健所に引き取られ、やがて殺処分されたわ。藍沢さん、あなたが殺したのよ」

 暫しの沈黙が店内に流れた。
「あの、三日前まで、藍沢さんとは初対面だったんですよね? どうしてあなたにそんなことが分かるんですか?」
「私には生まれつき特別な能力があってね。人の心が読めたり、人を猫の姿に変えたりすることができるの。まあ、他にも色々と能力はあるんだけど、今それをここで教える必要はないわね。
それで三日前、藍沢さんがうちの店に来店した時、あなたが過去に行った過ちが私にはすぐに分かったわ。あなたの心を読んだことでね。
あなたは結果的に二匹の猫を殺しておきながら、あなた自身は何のペナルティも被っていない。それはあんまりじゃないかと思ったのよ。死んだ可哀想な猫ちゃんたちが報われないじゃない。
だから私は、あなたに対して個人的な罰を与えることにした。あなたを猫に変えることで、人間社会で猫として生きることの大変さを教えてあげようと思ったの。誰にも相手にされないことの虚しさや、捨てられることの苦しみをね。
これで充分、あなたは自分が過去にしたことの愚かさが理解できたかしら?」

「ごめんなさい」藍沢さんは呟いた。「ごめんなさい……本当に……ごめんなさい」
 横目で見た藍沢さんの瞳からは、涙が流れていた。

 貴婦人が経営するアンティークショップを後にした僕らは、近くの喫茶店に立ち寄っていた。

 連休中のせいなのか、店内は混んでいたものの、唯一空いていた窓辺のテーブル席に腰掛けることができた。
窓からは相模湾が一望できる。空が曇っているため、海はあまり綺麗とは言い難いが、サーフィンやビーチバレーを楽しむ人の姿が多く見られた。

 僕と藍沢さんの間に、会話らしい会話と呼べるものはなかった。
ただ黙って、お互いが注文した品にありつくだけだ。
僕はコーヒーを啜り、彼女は三日振りの人間的な食事、サンドイッチを平らげたところだった。

 藍沢さんはクリームソーダを口にした。それから僕のことを覗き込むようにして見た。「私のこと、幻滅した?」
「うん」
「だよね」藍沢さんは苦笑いした。「自分でも最低だと思うし、今回のこと、当然の報いだと思う。だから弁解するつもりは全くない。あの人が私に言ったこと、一字一句間違ってない。私は、最低の人間なんだよね」

 僕は返事をしなかった。わざわざ口に出して肯定するつもりもなければ、否定するつもりない。
「自分でも分かってた」彼女は言った。「でも、これまでそんな事実から必死に目を背けようともしてた。だけど、これからは自分がやった過ちと、ちゃんと向き合っていこうと思う」
「そう」僕はコーヒーを啜った。

 自分の目の前にこれほどの美人が存在するというのに、僕は彼女にそういった類いの感情はもう抱かなかった。と言うより、抱けなかった。

「井浦君にはね、本当に感謝してる。君と出会ってなかったら、今頃路頭に迷ってたと思う。君のおかげで、人に戻ることができた。本当にありがとう」
「いや、別に感謝するほどのことじゃないよ」
「あ、それでね、これも何かの縁だし、良かったら連絡先……」
「悪いけど」僕は椅子から立ち上がった。「ペットを捨てるような人間、僕はごめんだな」

 僕は財布から千円札を三枚抜き取り、それをテーブルの上に置いた。
彼女は呆然とした様子で、僕を見上げていた。

 藍沢さんは何か言葉を発しようとしていたが、僕はそれを待たずに席を離れ、店を後にした。

 海からやってくる風を浴びながら、僕は最寄りの駅に向かって歩いた。

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