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「都市と生活者のデザイン会議 WE + WELLBEING」② ドミニク・チェン氏と考える「わかりあえなさ」と共生のビジョン(後編)

予測不能な時代のなかで、“都市と生活者”の関係は果たしてどこへ向かうのか。
その糸口を探るため、NTT都市開発 デザイン戦略室と読売広告社 都市生活研究所が立ち上げた共同研究プロジェクト「都市と生活者のデザイン会議」。雑誌メディア3誌の編集長との対話で得た気付きを深掘りし、新たな探求に取り組んでいます。
2021年度のテーマは、「“自分らしさ”と“他者・社会の幸せ”が共存するライフスタイルデザイン」。建築家・建築学者の門脇耕三さんを伴走研究者に迎え、私たち自身の意識のゆくえを考えていきます。

前回の座談会で語られた、「自己と利他の共存はいかにして可能か?」という課題意識。新たな概念の手がかりを求め、さまざまな観点からウェルビーイングのあり方を提起してきた情報学研究者、ドミニク・チェンさんとの対話を実施しました。その模様をダイジェストでお届けします。(後編)
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<対話参加メンバー>(敬称略)
伴走研究者:門脇耕三 
 
「都市と生活者のデザイン会議」
NTT都市開発株式会社 デザイン戦略室(以下NTTUD)
井上学、權田国大、吉川圭司
梶谷萌里(都市建築デザイン部)
 
株式会社読売広告社 都市生活研究所(以下YOMIKO)
城雄大、水本宏毅、小林亜也子
 
その他の参加者
NTT都市開発株式会社(以下NTTUD)
新井菜香、田中友依子、大霜綾乃
NTTアーバンバリューサポート(以下NTTUVS)
細川敬士郎
NTTファシリティーズ(以下NTTF)
大森夏希

「うち/そと」の中間領域と、“柔らかい都市”の可能性


門脇 ここからは、チェンさんのお話から得た気付きや疑問をお互いに投げかける形で、「都市と生活者のデザイン会議」メンバーによる議論を深めていきましょう。
 
YOIKO 城 今回のテーマ「“自分らしさ”と“他者・社会の幸せ”が共存するライフスタイルデザイン」を考える上で、「わかりあえなさ」はハブになり得る言葉だと思いました。
 
NTTUD 吉川 そうですね。「わかりあえなさ」を前提に、異なるもの同士の関係性をどうデザインしていくか……新しい気付きにつながる視点だと思います。
 
NTTUD 井上 「うち」と「そと」の考え方も気になりました。建築でいうと、入口に設けられた風除室は日本のビル建築に特有のものです。いわば、外界からインターバルを経てプライベートな中の部屋へ入っていく、日本的な空間概念のアプローチとも考えられます(笑)。
 
YOIKO 小林 確かに日本語には、その中間領域を表す言葉がいっぱいありますよね。例えば「間」と書いて「あいだ」や「ま」とも呼ぶなど。
 
門脇 私の専門である建築学からすれば、西洋の伝統的な建築はブロック状の材料を積んでいく組積造(そせきぞう)のため窓を作りにくく、基本的には壁で閉じられているため、空間の境界がはっきりしやすい。これに対して日本の伝統的な建築は逆に柱しかない開放的な構造のため、ここに戸を建て込み、軒を出して縁側を作り、さらに庭を設けるというようなかたちで、何重にも仕切りを作ってようやく境界らしきものができる。なので、パリの街を上から見るとプライベートなエリアがしっかり区切られていますが、日本の家同士は垣根でゆるくつながっていて、どこがプライベートなエリアなのかがわかりづらい。建築や都市のつくり方が我々の感覚に影響を及ぼしている部分もありそうです。
 
NTTUD 吉川 「関係性は変化していく前提であるべきだ」という話も印象に残っています。日本建築が自然環境と共生しているように、昔の日本では流動し続ける環境に対して場が対応するということも、ごく自然なことだったはずです。変化を前提とした場を形成することでさまざまな関係性をゆるやかに包摂していたかつての都市が、徐々に固い構造になるにつれて、関係性を分断してしまっているのではないか。そんなイメージが湧きました。この状況を昔の感覚へと揺り戻し、自分も他者もコミュニティも変わっていく前提でデザインしていくことが大事ではないかと考えさせられました。

対話風景より。 (2022年2月15日、新型コロナウイルス感染予防対策を行いながら実施。写真撮影時のみマスクを外して撮影しています)

 門脇 「ユーザー同士の能動的な関わり合いが重要だ」という話もありましたが、今のメンテナンスフリーの街づくりからは、その要素が失われていますよね。
 
NTTUD 吉川 都内のある再開発事例では、住居部分に近隣の大学へ通う学生を優遇して入居させる代わりに、自治的な活動へ積極的に入ってもらうような制度設計をしていると聞いたことがあります。ハードだけでなく、人と街がどう関係性を深めていくかというソフト面の設計も大切だと感じます。
 
YOIKO 城 欧米では見知らぬ人同士の会話が生まれやすいという話も、元をたどれば城壁で守られた街の中で、異質な人たち同士が互いの安心を築くためだったと考えると理解できます。要は「わかりあえなさ」を前提に、対話力が磨かれてきたわけです。逆に日本の場合は、集落や家など「うち」と「そと」がゆるく接続した構造を前提として、自然な形で共話が成立していたはずが、都市が固くなるにつれて会話が減り、“わかりあえているつもり”だけが残って疎外感を生んでいったのかもしれません。だとすれば、共話を促すような“柔らかい都市”のあり方を考えることが、大きな意味を持つのではないでしょうか。

「共話」を育む、多様で曖昧なコミュニケーション


門脇 オンラインで参加されている方もぜひ、ご発言をお願いします。
 
NTTUVS 細川 例えば動画の配信を視聴する場合など、知らない人の配信であってもチャットをするうちに仲良くなったと感じたり、その人がおすすめする商品を買いたいと思ったりすることがあります。街づくりにおいても“できあがったもの”ではなく、街をつくる過程で多様な人を巻き込んでいくことで、同様のコミュニケーションが生まれるかもしれないと思いました。
 
NTTUD 吉川 街をつくる途中からファンを育んでいくような街づくり、面白いですね。
 
門脇 ネット上のコミュニケーション手段はこの20年間でテキストから画像、画像から動画へと移り変わってきていて、「いいね!」ボタンも含めて非言語的なコミュニケーション手段が増えました。いうなれば、対話的なものから共話的なものに変わってきたということではないでしょうか。街づくりに置き換えるなら、“お互いが有意義な関係性で創造に参加するためには、有意義なコンテンツの提供が必要”となるとハードルが高くなりますが、そうではなく「いいね!」ボタンを押すような非会話的な参加の仕方もあり得るかもしれません。
 
NTTF 大森 私自身は「わかりあえなさ」というキーワードについて、そこからどんな価値が見つかるのかということをずっと考えていました。こうやって不特定多数で話すことも、動画配信やチャットの交流も、「わかりあえなさ」を持つ人同士のコミュニティだと考えると、こうした場のあり方を街として提供することはできないだろうかと思います。
 
NTTUD 吉川 ここでコミュニティを「わかりあえなさ」をつなぐためのものという定義にしてしまうと、共通の趣味嗜好を持った人だけが集まる場になってしまう。そうではなく、予期せぬ“ノイズ的なもの”を含んだコミュニティをどう育んでいくか……ここが重要ですね。

 門脇 “コミュニティをつくる”という視点ではなく、コミュニケーションの捉え方を非言語的なものにも拡張して、例えば中国の広場で自発的に行われている太極拳の集いのように、身体的な関わり方も含めていくのはどうでしょう?
 
YOMIKO 城 面白いですね。強いコミュニティをつくろうとしすぎると、同質性を持つ者同士は心地良く感じるかもしれませんが、ぬか床でいえば単一の菌に偏って、多様性が生まれづらくなる。他者の存在という、ある種の“居心地の悪さ”も含めた関係性についても考えなければいけないと思いました。
 
YOMIKO 水本 「こうしないといけない」と思って築き上げようとすればするほど、異質なものに対して排他的な姿勢になり、生きたコミュニティにならないということですね。
 
NTTUD 井上 そうした“まだ名前のない感覚”を公共圏の中にどうつくり出していくのか、さらにそれを経済活動としてどのように循環させていくのか。多くの人とともに考えていかないといけないと思います。
 
YOMIKO 小林 コーヒー店で他人のペットに話しかけ続ける人の話がありましたが、それを見ている自分と対象となる人との間にも、コミュニケーションが生まれているといえますね。だとすれば、多様な人が居合わせることのできる風景を作り出すことこそが、コミュニティデザインだといえるかもしれません。
 
門脇 ゴールとしてコミュニティをめざすのではなく、まず共存から始める。次に、そこから散発的にコミュニケーションが起こっていけばいいのかもしれません。
 
NTTUD 權田 私が気になったのは、対話と共話の話です。日本人は生真面目だと思われている反面、日本語の表現にも表れているように曖昧な表現を好みます。それが最近はSNSの影響で文字による短い表現が主流になり、直接的な情報伝達が増えてしまった。そこに生きづらさの一端があるのかもしれないと感じました。同じく「こういうものをつくる」という言葉による定義が求められるデベロッパーとしても、曖昧な要素をどう実現していくかが、大事な糸口になっていくように思います。

多様性を“つくりあう”、新たな概念を導く試み


NTTUD 吉川 今回の気付きを建築や都市へと落とし込んでいく上で、ぜひ深掘りしてみたいと思うのがぬか床のメタファーです。街をさまざまな菌が共存するぬか床として捉えると、単に多様性があればいいということではなく、どのように場所性や固有性のある場を育んでいけるかという視点が大切になってくる。その意味で、ぬか床のメタファーはダイバーシティとローカリティの共存と捉えられるかもしれません。
また、個人的な気付きとして、個人の弱さや痛みを社会として分かち合い、受け皿になるような街のあり方についても考えたい。「わかりあえなさ」を前提として、どうあれば人が幸福になるかだけでなく、痛みや弱さを抱えた人の受け皿を街や社会としてどう作っていくかを考えることもまた、大事なのかなと思います。
 
NTTUD 井上 近年は街づくりにおけるアートの価値にも注目が高まっていますが、アートの本質は本来の自分を見つめ直してこれまでの見方や考え方を変えること、いうなれば“心に傷を付ける”点にあると思います。一方で、痛みや傷を避けてばかりでは他者に対する想像力が欠如してしまう。そのようなアート的なものの考え方にも、新たな認識や概念を社会に生み出し分断を再接続させ、痛みや傷から目を背けずに受け入れる行為へつながるヒントがあるかもしれません。
 
NTTUD 吉川 確かに、弱さを抱えた個人を社会が受け入れることも、他者や社会が抱える痛みを個人が理解することも、さらに遠く離れた社会で起きていることを我が事として捉えることも大事ですね。前回の座談会(「都市と生活者のデザイン会議 WE + WELLBEING」① 座談会 利他を叶えるライフスタイルの概念と実践とは?)でYOMIKOの小林さんが挙げていた、「個人の弱さや切実さがそれぞれの自主性や能動性につながる」という話も、より良い社会へのサイクルを考える上でさらなる可能性につながっていくと思います。
 
NTTUD 梶谷 私は大牟田市の話が気になりました。デベロッパーの「街を変えていこう」という考えには、対象となる他者を変えようとする姿勢が無意識に含まれていると思います。しかし大牟田市では、対象者を変えようとするのではなく、街全体で対象者を受容している。とても柔らかい街だと感じました。ではどうすればそのような街づくりができるのか。そう考えていて思い当たったのが、場所性とスケールの違いです。例えば大牟田市のやり方を東京などの大都市でそのまま実行したとして、果たして成功するのか。私は、もっと小さなスケールからデベロッパー自らが身をもって試してみて、考えながら学んでいく必要があると感じました。
 
YOMIKO 小林 チェンさんからは、「人は正解を言わないといけない状況に置かれると身構えてしまう」という話もありました。つまり、ある役割を求められるなかで自分を抑え込み、そういう人間であるかのように振る舞おうとしてしまう、ということだと思います。だからこそ、ある意味でノイズにもたとえられる要素を受け入れて、多様な人たちが共存できるようにしていかないと、一人ひとりの個性も薄まってしまう。多様な個人が輝くことで街としても魅力的になっていく上で、必要なノイズをどう作っていくか。ここのところをぜひ探っていきたいなと思いました。
 
その上で私が注目しているのは、新進気鋭のホテルプロデューサーとして知られる龍崎翔子さんの取り組みです。ホテルを“ライフスタイルを試着できる場所”として捉え、人々が新たな生活の価値観を身をもって体験することで、新しい世界が開けていくような試みを進めています。チェンさんからも「日本のメンテナンスフリーの街のあり方は、ユーザーの能動的な関わりを排除している」という話がありましたが、こうした問題の解決につながる可能性を感じました。

 NTTUD 吉川 こうして話し合ってみると、ここにいるメンバーだけでも受け取り方に違いがあると実感します。昨年度の『WIRED』松島倫明編集長との対話(「都市と生活者のデザイン会議」③『WIRED』編集長と考える“多層化する現実×都市”の行方とは?)でも、デジタルな世界が進展するにつれて身の回りが最適化されていくなかで、その“狭い心地良さ”から抜け出すきっかけをどう作っていくかが大事だという話がありました。つまり、自分が知っている好みとは違う世界へ連れて行ってくれる場所や方法が街の中にあることは、非常に大事なことだと思います。
 
YOMIKO 水本 チェンさんが訪れた大牟田市で、町を挙げて認知症患者を保護する取り組みを進めている大牟田未来共創センター(愛称:ポニポニ)に関して印象的だと感じたのが、「パーソンセンタード」という言葉です。「ヒューマンセンタードデザイン(HCD/人間中心設計)」などの用語に使われる「ヒューマン」ではなく、「わたしたち」という意味であえて「パーソン」という言葉を掲げながら、「住民や消費者を、一方的に価値を提供される客体とする考え方を180度転換する」と宣言しています。このように「こういう街をつくったから、使ってください」という従来の考え方から視野を広げ、つくり手と使い手が主体と客体の関係を超えて、ともにつくりあっていく相互作用をデザインできるといいのでは、と思いました。
その上で「わかりあえなさ」について考えると、日本の同調圧力の強さは逆に「わかるでしょう?」という暗黙の了解に基づいている気がします。もっと「自由に使っていいよ」というように、多様な人々が自由なやり方でよりよい場を築いていけないものか。この同調圧力は、とても悩ましい問題だと感じます。
 
門脇 「建前と本音」というように、日本は名実が分離している国だとも考えられます。でもこれは元々、「わかりあえなさ」を前提にして、だからこそ形式だけは守ろうという発想から育まれてきた文化のようにも思えます。逆に捉えるなら、“形式だけなぞっておけば、内心は何を考えてもいい”という自由があるともいえる。つまり、場面が変わるごとに仮面を付け替えるようにして、さまざまなキャラクターを演じ分けてロールプレイすることができるというわけです。そんな風に、日本的な土壌を活かした公共空間のあり方を考えていけるかもしれません。
いろいろなヒントが出てきましたが、こうした概念的な思考をどのように実践的な可能性へと落とし込んでいけるのか……ぜひ引き続き、思考を深めていきましょう。

まとめ:次なる対話に向けて


「“自分らしさ”と“他者・社会の幸せ”が共存するライフスタイルデザイン」をテーマに行われたドミニク・チェンさんとの対話と、メンバーによるディスカッション。人々の多様な生き方から利他的な共存のあり方まで、結論を急がず、それぞれの気付きを投げかけ合うなかで、数多くのヒントが浮かび上がってきました。
その予感や手がかりを、さらなる展望へとつなげるために。概念レベルの思考を掘り下げる試みに続いて、街やライフスタイルにおける社会実装の可能性を探っていくにあたり、今回のキーワードを抽出し、次なる対話に臨みたいと思います。


▶ 次回 「都市と生活者のデザイン会議 WE + WELLBEING」③ 龍崎翔子氏と考える“自分らしさ×利他”のデザイン


実施日/実施方法
2022年2月15日 NTT都市開発株式会社 本社オフィスにて実施
 
「都市と生活者のデザイン会議」メンバー:
NTT都市開発株式会社 デザイン戦略室
井上学、權田国大、吉川圭司
梶谷萌里(都市建築デザイン部)
 
株式会社読売広告社 都市生活研究所
城雄大、水本宏毅、小林亜也子

編集&執筆
深沢慶太(フリー編集者)

イラスト
Otama(イラストレーター)

クリエイティブディレクション
中村信介(読売広告社)、川端綾(読広クリエイティブスタジオ)

プロジェクトマネジメント
森本英嗣(読売広告社)
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