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「都市と生活者のデザイン会議 WE + WELLBEING」② ドミニク・チェン氏と考える「わかりあえなさ」と共生のビジョン(前編)

予測不能な時代のなかで、“都市と生活者”の関係は果たしてどこへ向かうのか。
その糸口を探るため、NTT都市開発 デザイン戦略室と読売広告社 都市生活研究所が立ち上げた共同研究プロジェクト「都市と生活者のデザイン会議」。雑誌メディア3誌の編集長との対話で得た気付きを深掘りし、新たな探求に取り組んでいます。
2021年度のテーマは、「“自分らしさ”と“他者・社会の幸せ”が共存するライフスタイルデザイン」。建築家・建築学者の門脇耕三さんを伴走研究者に迎え、私たち自身の意識のゆくえを考えていきます。

前回の座談会で語られた、「自己と利他の共存はいかにして可能か?」という課題意識。新たな概念の手がかりを求め、さまざまな観点からウェルビーイングのあり方を提起してきた情報学研究者、ドミニク・チェンさんとの対話を実施しました。その模様をダイジェストでお届けします。(前編)

▶「都市と生活者のデザイン会議 WE + WELLBEING」① 座談会 利他を叶えるライフスタイルの概念と実践とは?
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ドミニク・チェンさん (撮影:望月孝)

ドミニク・チェン(Dominique Chen)
情報学研究者、早稲田大学文化構想学部准教授。1981年、東京都生まれ。フランス国籍。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)デザイン・メディアアート学科卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。2007年よりNPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン設立理事。08年には株式会社ディヴィデュアルを設立、数多くの情報サービスの企画開発を行う(18年にスマートニュースにM&A)。デジタルウェルビーイングの観点から、人間社会とテクノロジーのよりよい関係性のあり方を学際的に研究する。近著に『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス/21年)、主著に『未来をつくる言葉 ─ わかりあえなさをつなぐために』(新潮社/20年)。

<対話参加メンバー>(敬称略)
伴走研究者:門脇耕三 

「都市と生活者のデザイン会議」
NTT都市開発株式会社 デザイン戦略室
(以下NTTUD)
井上学、權田国大、吉川圭司
梶谷萌里(都市建築デザイン部)

株式会社読売広告社 都市生活研究所(以下YOMIKO)
城雄大、水本宏毅、小林亜也子

その他の参加者
NTT都市開発株式会社(以下NTTUD)
新井菜香、田中友依子、大霜綾乃
NTTアーバンバリューサポート(以下NTTUVS)
細川敬士郎
NTTファシリティーズ(以下NTTF)
大森夏希


ドミニク・チェンさんに聞く、ウェルビーイングと利他の関係


門脇 チェンさんはさまざまなご活動を通して、自己と他者の関係やウェルビーイングのあり方を一貫して追及されています。本日はウェルビーイングの観点から、これからの社会に必要な概念をぜひ掘り下げたいと考えた次第です。
 
チェン ありがとうございます。最初に、ウェルビーイングという考え方について見ていきましょう。医療が主に怪我や病気を治療することにフォーカスする一方で、ウェルビーイングは心と体の状態や関係性をどう維持するかに焦点を当てながら、2000年代から活発に研究が進められてきました。
関連する尺度として「世界幸福度調査」がありますが、「あなたの幸福度はどれくらいですか?」という聞き取り方法が主観的で文化差の影響を受けること、GDPや世帯年収との相関関係についても背後の要因がよくわからないままという課題がありました。そこにウェルビーイングの発想がもたらされたことで、曖昧な心の状態を要素分解して捉える理論が数多く提唱され、研究が進められています。しかし「これを実践すれば世界中の人類が幸せになる」というものはまだ確立されていません。
 
日本では、私も参加している公益財団法人Well-being for Planet Earthがイニシアチブを取り、GDPに代わる新たな指標「GDW(Gross Domestic Well-being/国内総充実)」を提起し、推進に取り組むなどしています。このように経済的な尺度だけでなく、一人ひとりが豊かさを実感できているかどうかを指標化する取り組みが、各所で進められています。
 
こうしたなかで私の専門の一つが、情報技術とウェルビーイングの関係性です。この領域は「デジタルウェルビーイング」という言葉で表されますが、SNSによる社会的分断や精神に失調をきたす人が増加していることなどをふまえ、ユーザーのウェルビーイングに配慮した情報技術の設計方法が議論されています。
監訳書『ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術』(BNN/2017年)でも触れたように、私自身はユーザー個人の快楽的なウェルビーイングに偏重してきた点にこそ、従来の情報技術の問題があると考えています。例えば炎上マーケティングのように、刺激の強い情報を流せば流すほど、エンドユーザーが中毒状態になり、広告収益が上がる。SNSをはじめとする巨大IT産業に対する批判が高まっているのは、ご存じの通りです。

ドミニク・チェンさんの講演資料より、「 うち / そと 」の概念図。

それに対して必要なのは、「わたし」ではなく「わたしたち」としてウェルビーイングを一緒に作っていく姿勢ではないか。他者と自己が重なり合う領域をどう言語化し、コミュニティを築いていけるのか、編著書『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』(BNN/2020年)では、さまざまな方とともに考えていきました。
手がかりの一つは、私の能楽の先生である能楽師の安田登さんから教えていただいたメタファーです。日本的な家屋には「うち」と「そと」の緩衝地帯として「なか」に相当する縁側がある。家の人が外の人を縁側に呼び込むと、その人は身内ではないけれど仲間になる。自己と他者を切り離して対極的な存在として捉えるのではなく、身内でも他人でもないけれど縁側的な領域で重なり合っている存在として受け入れる。この相互作用やコミュニケーションのあり方こそ、「わたしたち」がウェルビーイングをともにつくり合う関係につながるのではないか。
 
著書『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』(新潮社/2019年)では、こうしたコミュニケーションの根底にある「わかりあえなさ」を提起しました。わかりあえないことを失敗と捉えたり、生きにくいと感じたりするのは、それをコミュニケーションのゴールに設定しているから。でも、違いを持つ人同士が完全にわかりあえていると思うのは、ある種の幻想ではないでしょうか。お互いの「わかりあえなさ」を大事にして、多様な価値観を受け止めることが大切だと思います。

ドミニク・チェンさんの講演資料より、「共話モデル」の図。

その方法論として注目しているのが、言語教育学者の水谷信子さんが提唱された「共話(synlogue)」という概念です。AとBの二人の対話で考えると、基本的に一方が話している間は、もう一方は話さず、交互に話を交わします。これに対して共話は、Aの話にBがうなずいたり、声を重ねたり、途中で拾ったフレーズをBが完成させたりと、一緒に会話を作っていく方法。日本語では日常的によくある話し方で、特に雑談はこれができないと盛り上がりません。
 
では、こうしたコミュニケーションの場をどう設計するか。過去に運営していたオンラインコミュニティ「リグレト」は、「オンライン掲示板で弱音を晒すと攻撃されたりマウントを取られたりして荒れる」という当時の常識に対して、お互いのつらい体験を共有し、励まし合う場を設計する試みでした。
近年はその発展型として、ソーシャルプレゼンス(オンラインコミュニケーションにおいて相手の存在を感じさせる方法や度合いのこと)の研究にも取り組んでいます。例えば、オンラインのミーティングはお互いの存在を感じにくいため、共話が生まれづらいという難点がある。これに対して、愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に出品した作品『タイプトレース/ラストワーズ』では、参加者に架空の遺言を書いてくださいとお願いをして、タイピング中の打ち間違いを直したり、手を止めたりする様子を記録。メッセージとともに表示しています。

ドミニク・チェンさんの講演資料より、「Nukabot」。

さらに、こうした他者とのコミュニケーションを人間以外の生命種へと広げて考えるために制作したのが、「NukaBot」です。これは漬物の“ぬか床”に棲む微生物の発酵状態を伝えてくれるロボットで、それに人がどう反応し、どんな意識を育んでいくのかについて実証実験をしています。
ここで面白いのは、発酵を関係性のメタファーとして捉える視点です。ぬか床は多様性のある生態系で、乳酸菌が優勢になったり、雑菌が後退したりとさまざまなフェーズを経て、最終的にはすべてが共存することが良いぬか床のカギになる。これになぞらえて、人間同士の関係性も同じく“発酵的”に考えられないか。最初は妄想的なアイデアでしたが、最近は真剣に、この視点をコミュニケーションやコミュニティ、そして都市の設計などに広げられないかと考えているところです。

ドミニク・チェンさんの講演資料より、「ぬか床の発酵プロセス」。


「わかりあえなさ」から始まるコミュニケーションの展望


門脇 ありがとうございました。ここからは、いくつかのトピックについて議論をしていきたいと思います。まずは他者との関係性について。
チェンさんは一貫して、個を完全に独立したものではなく、他者との関わり合いのなかで事後的に立ち上がっていくものとして捉えられているように思います。しかしそのなかでも、お米の芯のように、あるいはアルデンテの状態のように、わかりあえない部分が残ってしまう。日本文化には他者とシンクロする感覚が根付いているだけに、「個は関係性のなかで定まる」ということは理解しやすいですが、「わかりあえなさ」を肌感覚として理解するのは難しいのではないかと感じました。
 
チェン 「お米の芯のように」というメタファー、とてもわかりやすくて素敵ですね(笑)。ご指摘については逆に、現在の社会は「わかりあえる」ということに対して過度な期待を抱いているのではないかと考えています。コミュニケーションの過程で「わかりあえる」と感じたとしても、それは一時的な場であることが多く、自己と他者の関係や「うち」と「そと」との重なり合う領域のなかで刻々と変動していくものです。
さらに、本当の意味で「わかりあえる」という理想的な状態は存在しないのではないか。例えば僕と門脇さんがあるテーマについて「わかりあえる」と感じたとしても、お互いの解釈がたまたま大きく重なり合っただけで、相手を100パーセント理解していることにはならないというのが僕の考えです。でも、それは悲観することではない。逆にコミュニケーションの中で「わかりあえる」と思えること自体が非常にポジティブな価値であり、素晴らしいことではないでしょうか。
 
門脇 つまり、コミュニケーションとはそもそも不完全なものだということですね。だからこそ「わかりあえなさ」が残るとして、そこにポジティブな面があるとしたら、それは何でしょうか。
 
チェン いくつかのレイヤーがあると思います。最もポジティブなのは、相手に対する「わかりあえなさ」が好奇心につながる場合。逆に、例えば政治的に受け入れられない相手をSNS上で攻撃し合う状態はネガティブな「わかりあえなさ」であり、最も良くないのはコミュニケーション自体が切断されてしまうことです。だからこそ、共感しやすいテーマで会話を始める地点からスタートすることが大切だと思います。
 
門脇 コミュニケーションの継続が何よりも重要だということですが、例えば思想的・心情的に対立したり、秩序を乱したりするような人が近くにいたとして、毎日「こんにちは」と挨拶するだけでも効果はあるのでしょうか。

対話風景より。(2022年2月15日、新型コロナウイルス感染予防対策を行いながら実施。写真撮影時のみマスクを外して撮影しています)

 チェン 仮に秩序を乱すような行為があったとしても、過去の行為だけでその人の存在を全否定する権利はどこにあるのか、と思います。その象徴が、過去に少しでも不純な発言をした人は評価するべきではないというキャンセルカルチャーの風潮です。これは「過去にそういう発言をした人は、今もそういう人だ」というラベリングに基づく考え方ですが、そもそも人と人との関係性は絶えず変化していくものであるはず。つまり我々の社会における世界認識が、いかに単純なモデルのままになっているかということだと思います。
 
門脇 それは、私たちが対話モデルにとらわれすぎていることの表れかもしれません。有意義なコンテンツの交換だけがコミュニケーションだと考えると、自分と主義信条が違う人とは対話ができないという話になる。共話モデルという示唆をいただきましたが、シンクロしていくことにもコミュニケーションの意味を見出すことができれば、新しい形の関係性をつくることもできそうな気がします。
 
チェン 先ほど日常の挨拶を挙げられましたが、哲学者のミシェル・フーコーが「ケア」について行った発言をあるフェミニズムの研究者が引用した言説を思い出しました。英語の動詞「care」には、「何かを大事にする」という意味がありますが、その否定形の「I don’t care」は日本語で「私には関係ない」と訳されます。フーコーは、この「care」には理解できないものに対する好奇心(curiosity)が含まれているのではないか、と言っています。だからこそ、「care」に満ちた問いかけが重要だというのです。日常的な挨拶の「How are you doing ?(どうしてる?)」 についてその研究者は、実はこの言葉は「How do you cope ?(あなたはどういう困難と向き合っていますか?)」という問いかけに他ならないと言っています。自分自身の生の感覚を、相手に対しても投げかける言葉だということですね。
 
門脇 つまり、わからないことに好奇心を持ち、問いを投げかけることが発端になるということですね。ここからは「都市と生活者のデザイン会議」のメンバーも交えて、一緒に話を広げていきましょう。


“ぬか床”に学ぶ、ゆるく多様な共生のビジョン


NTTUD 吉川 個人的に思い浮かんだのは、まだ言葉を話せない我が子と「わかりあえた」と感じる瞬間のことでした。子どもが発した声や体の動きに対して、私が思った通りの反応をした時に、子どもがとてもうれしそうな表情をする。わかりあえるという瞬間には、それだけで幸福な価値があるのではないでしょうか。また、楽器でセッションをしていて、誰かが意外性のある演奏をした時に顔を見合わせたり、笑い合う瞬間にも同じことを感じます。一方で現代の社会や都市空間からは、このような“わかりあうこと自体の楽しさ”が忘れられているのかもしれないと思いました。こうした状況のなかで共話的な感覚を作り出すには、どうすればいいのでしょうか。
 
チェン 一つの要素としては、心理的な安全性が考えられます。僕自身が子どもと向き合う時に注意しているのは、「正解を言わなければならない」というプレッシャーを与えないようにすることです。間違ったこと、馬鹿げたことを言ってもOKだという雰囲気がある時は、子どもも楽しそうにしています。これは大学のゼミでも同様です。「正解じゃなくてもいい」という感覚を、町内会や都市空間などさまざまなレベルで感知できる空間を作ること。ここにヒントがあるような気がします。
 
また、印象的だったのは、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授の伊藤亜紗さんと福岡県大牟田市を訪問した時のこと。大牟田市では人口当たりの認知症患者の割合が非常に多いという課題を受けて、「認知症SOSネットワーク」という取り組みを推進しています。これは認知症の方の施設を増やすよりも、小学生からタクシーの運転手まで、市民が認知症の方を見かけたら自宅まで送っていくトレーニングに力を入れるというもの。その結果、徘徊による事故死の割合を日本で最も少なくすることに成功しました。認知症の人を問題視するのではなく、それ以外の人々が変わることによって、よりよい共生を実現したという、いわば逆転の発想ですね。
 
あと思い出したのは、僕の自宅の近所にある、老若男女が集まるコーヒー店での出来事です。ある日、お客さんの飼い犬にずっと話しかけているおばあちゃんがいて、でも飼い主もお店のマスターもずっとニコニコしてその様子を見守っている。誰も注意したりスルーしたりせずに、その場や出来事をみんなが受け入れていた。そうやって見知らぬ人同士が交流する構図は、僕がパリやロサンゼルスに住んでいた時はごく自然なことであり、「わたしたち」の感覚の形成に大きく影響していたと思います。だとしたら日本でも、そうした“ゆるい関係”を建築や都市設計の段階からデザインしていく余地があるかもしれない。
 
NTTUD 井上 私からは、街と個人、コミュニティとの関係性について質問をさせてください。チェンさんから見て、これからの社会のあり方においてサスティナブルな街に重要と思えるものがあれば、教えていただけますか。

 チェン 官公庁の方々から「インバウンドの長期滞在者を増やすにはどうすればいいか」というヒアリングを受けた時のことですが、ちょうど政治家が外国人に差別的な発言をして問題になっていたタイミングだったこともあり、日本で暮らす外国籍の立場として、「差別をなくさなければ多様性は生まれない」と答えました。
発酵のメタファーで考えると、漬物は作る人によって味が変わる。人によって常在菌が異なるため、同じ材料でもオリジナリティが生まれるのです。この話から連想して都市をぬか床にたとえる場合、乳酸菌のような優等生を増やして他の菌を減らす必要はあるものの、多様な菌も含めて共生していなければ良いぬか床にはならないし、つくり手による味の違いも生まれません。ジェントリフィケーションのように富裕層ばかり集めてわかりやすい街をつくったとしても、面白みや関係性の乏しい街にしかならないのはそのためです。だからこそ、「わかりあえなさ」をどう積極的に活用できるかを考えてみることが重要ではないでしょうか。
 
門脇 今のお話につながるかもしれませんが、今の都市に対する不満点や「こうなったらいいな」と思う点があれば教えてください。
 
チェン 一言でいえば、“量産された場所”は苦手です。その場の固有性、場所性を感じられるところだったり、コミュニティが息づいていると感じられたりする場所は、すごく居心地がいいなと思います。知らない人同士のコミュニケーション、インタラクションが自然に生まれるような場所が増えてほしいなとは思います。
 
門脇 ありがとうございます。この対話を我々なりに咀嚼して、どういうメタファーが街の中で新しい種として育っていきそうか、ぜひ考えていきたいと思います。


▶ 次回 「都市と生活者のデザイン会議 WE + WELLBEING」② ドミニク・チェン氏と考える「わかりあえなさ」と共生のビジョン(後編)


実施日/実施方法
2022年2月15日 NTT都市開発株式会社 本社オフィスにて実施
 
「都市と生活者のデザイン会議」メンバー:
NTT都市開発株式会社 デザイン戦略室
井上学、權田国大、吉川圭司
梶谷萌里(都市建築デザイン部)
 
株式会社読売広告社 都市生活研究所
城雄大、水本宏毅、小林亜也子

編集&執筆
深沢慶太(フリー編集者)

イラスト
Otama(イラストレーター)

クリエイティブディレクション
中村信介(読売広告社)、川端綾(読広クリエイティブスタジオ)

プロジェクトマネジメント
森本英嗣(読売広告社)

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