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存在の肯定・地球人化・近代という思春期から元服へ

ピュシス、自然(母)と一体となって生きていた神話の時代から、農業が生まれ自然を操作。科学産業が埋まれ地球から命から奪う近代が進んでいる。私たち人間自身も内なる命を蝕まれ、生きているのか?何のために?それも見ないが楽かもしれない。

しかし近代は自然から独立したいという若き人類のチャレンジでもあった。飢餓を脱し、自然災害から逃れ、病気から逃れ、未来を安心したい。それには、食料を増やし、蓄積すればいい。不安ならピラミッドを作り祈ればいい。そのための法則は科学が見つけてくれたし、技術が進んで、大量生産ができるようになって、効率も上がり、世界は一つになった。お金で何でも交換できるし、競争でみなが進化発展できる。

産業革命が100年くらいの時間軸で進んだイギリスあたりでさえも囲い込みなどの略奪が横行した。日本では明治維新の際に廃仏毀釈・中央集権化等のシフトが列強対策として仕方なくという文脈で半ば強引になされ、第二次世界大戦でいったん破壊。戦後復興の名のもとにリセットされて、近代モダンワールドに入れられた。

教育も、いかに兵隊として、歯車として役に立つ人間を作るかで行われた。(近代以前の寺子屋教育のおかげで明治期はいい人材がいた面もあるだろう)一部のエリートと多くの兵隊がいればいいという考え方だ。つい最近(1980?ジャパンアズナンバーワン、昭和)まではそれでよかったかもしれない。大量生産大量消費、一億総中流で、みな明るい未来を持ちながら幸せだった。がんばればよかったのだ。あまり考えず、がんばって、詰め込んで、言われた通り動ければ。だし、それは日本的資本主義が家族的なものを持つ続けていたからまだよかった。

しかし、バブル期あたり、ジャパンアズナンバーワンになりそうな時に、(前の世代に)言われた通りやってきただけでは、一番になれないことがわかった。追い越しそうになって、どこへ向かえばいいかわからなくなった。アメリカについていけばいいとしか思わなくなってるのかもしれない(以前はしたたかにだったはず。)。教育も、追い付くためでやってきてうまくいっていたが、それだけでは片手落ちになった。が、まだまだ変われていない。

がんばれば、仕事ができるようになって、認めてもらえて、社会にも貢献出来て、自分にも子どもにもYESが言える。マズローの階段を上るようなそんな時代は続けられなくなってしまった。今は、無駄なものを生産し、地球から奪い、生命から多様性を奪い、格差ばかりが広がって考える余裕もなくただ生きている。

どこへ行けばいいのか?

バブル期あたりはまだわからなかったかもだが、60年代後半に人類は月に行き、振り返って地球を見た。国境もない、一つのイノチであった。これが啓示である。そのころからエコ意識が生まれていく。しかしすぐには世界は変わらない。やっと今SDGsが言われるところまで来た。

近代化・産業化は、いい面もあったが、やりすぎた。科学万能もやりすぎた。飢餓と病気と災害忌避から逃れたと思った瞬間に、気候変動とコロナである。複雑系システムである自然からのしっぺ返しとしか言いようがない。

行き過ぎた安全志向は、未来までも食いつぶしている。それは不安を増大させていく。それがまた次の経済成長に邁進するという悪循環。この不安をなんとかせずして経済でも技術でも解決はできない。それには心底から、足るを知り感謝することからだろう。

改めて今、地球人としてのアイデンティティを自覚し、どこへ行けばいいのかを考える時だろう。それが、人類思春期を脱する元服ではないだろうか。

シンプルだ。システムと、私たちと、私 が変わればいい。

システム的には、格差を最小化して、地球から奪わず、生命と人間自身の多様性を最大化するのだ。それには、農業以前を思い出せばよい。狩猟採集をし、神話の中で暮らしていた時代を参考に、地球を里星として持続可能に暮らせばいい。そのための資本は余っているし、技術も発展した。目先のお金化では見えない価値を、永い目で人類の価値として、プライスレス含め認めればよい。持続可能でないものやモノカルチャーや投機には税を課し、持続可能なこと、多様な命の開花表現には、ベーシックインカム的なものを回し、未来に資するものに投資し、地産地消〜友産友消、それを参加型でやる。AIやネット等の技術はそのためにある。民を監視するためでなく、コントローラーから循環させるために。コモンを再生し続けるために。

しかしシステムを変えるのは人である。人が変わるには?

一つは話すこと(多様なダイアログ)。近くの人と、子育て関連の人と、世界の人と、様々なコミュニティの人と、捨て行くホルダーと、夫婦で、子供と、親と・・・

教育は、使われるための人づくりでなく、共創造するための人づくり である。生まれてきたそれぞれは、すでにそれぞれであるという価値がある。それを引き出すのが教育(Educate)でなくてなんであろう。

そこで大事なのは、存在への肯定(意志)、共感、創造 だが、とにかくまずは、存在への肯定(意志)だろう。世界は全き善であり、一人ひとりが条件付きでない YESであり、祝福されており、いったい何をしてくれるのか失敗含めて楽しみにされている。いまだ無き仕事を待たれている みたいな。現在では産業的には評価しづらい面のある、アート、文系、見えない世界系などにこそ、今可能性がたくさんあると思うし、そうあったほうが世界はもっと楽しく、歓べる。
(シュタイナー教育はじめ、様々なそういうオルタナティブな教育もすでにある!)
学校だけでなく、社会自体がそういうアイデンティティをもっていたらもっと楽しいと思う。

(インテグラルAQAL的には、個・内面➔自分が変わる、個・外面➔身体〜暮らしの変容、集団・内面➔話して変容、集団・外面➔社会システム変容 になるかな)

近代化の中でないがしろにされてきた、理系的でないもの、見えないもの、数値にできないもの、神秘的なもの、役に立たないもの、雑多なもの、豊かさはそこにこそある。地球も月から見た視覚ビジュアルだけでなく、魂の眼で見れば、生きている大いなる生命であり、宇宙もそうであり、私たち自身もそこに含まれ、命を響かせ合う奏でビトである。一人ひとりがそう自覚すること(誰かを変えるのでなく、結局メビウス的に自分が変わる事)が、脱近代というか本来に帰る変わる還る孵る羽化する元服なのだ!





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