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愛すること愛されること

「愛されたい、誰かに愛されたい」

そう思っていた。
そうしたら救われるのに。
自分にYESと言えるのに。
と。

そうされないと 自分に価値はない 認められない

やっと誰かとつきあうことができた時は
ちょっと自分を認められ、嬉しいが
その結果、ふられると、さらに落ち込んで 執着して 恐れも増えて

でも(今の自分をまるごと抱きしめることで。)他者でない、自分が自分にYESを言い出し始めると少しづつ好転していった。よかった m(_ _)m。
自分にありがとう。そんな世界にありがとう。

そしてリスペクトできる相方に出会い、一緒にいる。
存在を認めてもらい、認めつつ、率直に言える関係の大切を知る。
受け入れられないとき、受け入れていないとき、伝えられないとき、言えていないとき、伝える時、またそれは気づきになる。そういうレッスンみたいなものでもある。

対があることはありがたいことだ。感謝。

だからそれが逆に、相手がいないことで自己肯定不足だったり、
自信不足だったり、劣等感だったり、
恋愛資本主義にやられて消費したり、騙されたり もする 

処方箋は 自分をそのまんま抱きしめることだ。
実際に体とハートとで。今でもやってます。

さらに、インナーチャイルドや、シャドーを抱きしめる。家族や民族や人類のトラウマを抱きしめる。

そして娘が生まれた。生まれてきた。生まれてきてくれた。
いろいろな方と妻のおかげで自宅出産で授かった。
身一つで元氣に生まれてきた。

存在だけで、素晴らしい。
ほんと天使がやってきた という感じ。
幸せ という感じ。
(これはこれで神さまに認められた!というような幻想もあるんだと思うし、生物としては子孫を残すときにオキシトシンが出るとかそういう面もあるんだろう。でもとにかく嬉しいものだ。)

すこし大きくなって、
走って、ぼくのところに飛び込んでくる。
ほんと、ぼく自身が
「生まれてきてよかった。ありがとう。」
と思える瞬間だった(今でもそう)。
(「生まれてきてくれて、ありがとう。」)

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これってほんと無条件にオープンにプリミティブに、(娘が)自分を信じてくれているということが、嬉しい という感覚かなと思う。愛されている という感じ。

つまり、愛とは、愛する とは 相手を受け入れることなのかもしれない。
存在をそのまま無条件で肯定し、評価も何もなく、大好きだ! であること そしてそれを伝えること。

子どもだと、身構えないし、受け入れられているから、自分も素直になり、防御もせず、自分がそのままでいられることでか、赦されやすい 感じがする。
(相方だとそこにまだ力みとかいろいろシャドーも出るんだろう)

つまり大事なのは、自分の在り方だ。世界は鏡であるのだから。
子どもに対するとき、相方に対するとき、家族以外に接するとき、自分も変わる。その時に、まず自分が素直な状態であること、それが相手の素直な状態を引き出す。世界もまたしかり。恐れは自分を閉じ、距離を生み出し、恐れを生み出す。(ダイアログでだいじなのもそこだ)

世界を いろんなことがいろいろ起きている世界を そのまま受け入れること そこから、それ故に関わるということが出てくるんだろう。

(表面的なところでこれはこっちがいいとかあっちがいいとか判断評価はしてよい。ここでいいたいのは、深いレベルのこと。存在を認め合うってところをしっかり、肚つながりあうこと。)

大きな世界の方が概念的で考えやすく、逆に身近な現実ほど、シャドーもでるし、受け入れがたいこともたくさんだ。だからこそ、レッスンにもなる。それはつまり自分を赦し愛するレッスンでもあるし、ゆえに歓びが増える、世界に愛が増える(ように自分が受け入れることができるように変容する)ことになる。それは世界にとっても嬉しいことだ。

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人は相手や誰かのための方が動きやすい面が多い。だから自分を愛する(自分をいたわってあげる)よりも、人を愛する(人をいたわる)方がしやすいから、人のためにがんばったりする。それがまわりまわって自分に還ってくる。でもそれには時間のずれがあって、ずれちゃったりもする。そこに過不足が生じて恐れも生じる。だから、基本は自家発電を自然にまわしておいてそこから生まれる自然な余剰を外に使う、くらいの運転方法が持続しやすいなと思うのです。




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