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名古屋STREET DANCE HISTORY14 〜2001年:名古屋群雄割拠新時代〜

どうもです。UCです。

(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次14です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )
(2020.07.10 追記・修正アリ)


今回からいよいよ21世紀ですね。
やはり、1年1年大きく物事が動いていきます。

そして、
確実に時代が変わり始めた年になったのではないかなと思います。

なるべく丁寧に振り返ってみたいと思います。
(※文中は敬称略です。ご了承ください。)

はじめに


21世紀に入り、この頃から名古屋NEW SKOOLシーンは”第3世代“に入っていく年代だと勝手ながら見ています。

97〜98年に名古屋HIPHOP黄金期があり、
その象徴だった『FIVESTAR』が駆け抜けた後、
名古屋を盛り上げようと踏ん張っていた『PLAYS』と『Beeper』のメンバーそれぞれが人生のフェーズが変わった(就職、結婚、転向など)ことで、
徐々にチーム単位での活動をしなくなります。

また、
これまでに”華の78世代“と表現してきた世代の筆頭チーム『EDITS』も、
リーダーの”WAKKAN“(現、リサイクルショップ『BANUL』代表)が新たなビジネスチャンスを掴むべく起業の道を進み、活動が激減します。

(”WAKKAN”は、99年頃から東京に拠点を移した上で名古屋でダンス活動をしていましたが、
東京である経営者の人と出会い一気に頭の中が切り替わり、
ダンスではなく、今度は人生というステージで人と違う事をしてカマしたいと思うようになり、
そのためには早い段階で起業してチャレンジしまくる事だと思い行動に移します。
今なお新しい事にチャレンジしながら敏腕経営者として活動しており、
ダンスで築いたHIPHOP精神を仕事に活かしている好例と思います。)


このように、徐々に看板チームの活動が少なくなり、
その上で、00年編で紹介したような新勢力も生まれ始め、
いよいよ”群雄割拠”となってきたのがこの2001年頃かなと思います。


次々と産まれる新チーム


まずは、
群雄割拠となっていくのに象徴的な動きとして、
新たなチームが次々と始動していくことが挙げられます。

キャリア組の中では、
00年編で紹介した『CAKRA DANCE COMPANY』の中から、
下の世代で結成されたのが、
ADAMOSTE』でした。

メンバーは、
KAZ“(現、『10GAME』), “GORO“, “YUTAKA“, “KURATA“, ”KANI“, ”NON“, ”AI
の7人でした。

(ちなみに、『CAKRA DANCE COMPANY』ボスの“KOU”は、
この頃は同世代の“YASU”(現、“DELAYAS”), “ANN”と『GATSBY IN THE JOCKEY』というユニット活動もしていました。)


また、
00年編で紹介した『Isaac』(”NOBUTO“(現、『PUPPETION』), ”KAPPA“(のちに『ARRIVA』))も、
inPACT』(”TOSHI“, ”AGATCHI“(現、『YAMAKAJI』))
と合体し、
新チーム『TEAM』が結成されます。
この年から『TEAM』の快進撃が始まります。
また追って記します。

さらに、
98年編で紹介した『HEADZ』の”SUGI“、
98年編で紹介した『クリオネ』, 『LOVE KNOT』の”KENTA“,
95年編から登場している”LUPIN“(『C-HAIS』, 『EDITS』)
の3人で結成されたのが、
PUNCH』でした。
(当時、彼らの行きつけの居酒屋『八剣伝』のカクテル名から命名されたそうです。)

その後、メンバー編成が行われ、
SUGI“, ”KENTA“に加え、
99年編で紹介した『BUZZER BEASTER』の ”TANOKEN“,
00年編で紹介した『EX-ARMY』の”GEN
の4人でメンバーが定着していきます。
こちらも名古屋クラブシーンの人気チームとして活躍します。

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▲PUNCH(左から、KENTA, SUGI, TANOKEN)
この時は、GEN不在。


そして、
そんな『PUNCH』と同世代の”YOSHIN“が結成したのが、
00年編でも紹介したHOUSEチーム『TとYの方程式』(”YOSHIN“, “TAE“)でした。
お互いにNY修行(当時も、97年編で紹介したフェイジルスタジオはハウスダンサーの練習場所のメッカだったそうです。)で高めたバイヴスそのままに、
大阪の『TRUE SKOOL』で優勝します!
一気に名古屋シーンに食い込むこととなります。

ちなみに、
97年編で紹介した『MINX』もこの頃には、
メンバー編成を行い、4人で活動しています。

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▲MINX(上:左から、AIKO, MIE、下:左から、AIRI, RUMI)


新世代チーム結成ラッシュ


この年は、
さらに新世代でも新チームがたくさん生まれていきます。

99年編で紹介した『高校卒業パーティー』を行った世代が、
この年は成人を迎えます。
(ちなみに『成人パーティー』も『RADIX』で開催します。)
その世代から生まれたチームがいくつもあります。

まずは、
BRIDGET
が本格始動したのもこの年でした。

元々、“OSAWA”(リーダー), “YU”, “RYO”, “MASA”, “RYUTA aka JACKY”で、
メッセンジャー』というチームで活動していましたが、
ある時、リーダーの”OSAWA“以外の若手メンバーでコンテストに出ることとなり、
そこで後輩の”TATSUYA“(現、”ARROW“/『DROP GIFT』代表)も加入して、
BRIDGET』が動き出します。
その後、
TATSUYA“は高校卒業後、上京するためにすぐに脱退。
YU”, “RYO”, “MASA”, “RYUTA aka JACKY”の4人で活動するようになります。

2003年には、
TAKE”(現、『10GAME』)も加入しますが、
この頃はまだ大阪を拠点にしており、
Brown eyed soul』(99〜02年)というチームで活躍していたそうです。

その後、
メンバー編成を行いながら、
SEAMO”のバックダンサーを経て、
2010年よりダンスボーカルグループ『BRIDGET』としてデビューします!
現在も『エイベックス』所属で絶賛活動中です。


そして、
99年の『卒業パーティー』の主催者の1人であった “Nishi-P”も、
studio ZOO』で知り合った、
MAYUMI”(のちに『龍五娘』),
RENKA”(のちに『U go girl!』),
LISA”(のちに『U go girl!』)
と4人で、『遊闇』を結成します。
のちに、
MOMOCO”(『Ne-Ne'S』)も加入します。

STREET JAZZ”という通称が使われ始めた頃のハシリのチームであり、
00年編で紹介した『名古屋武踏会』での、
この年の”NEW SCHOOL部門“で”優勝”を果たします!
(審査員の『DAZZLE』賞もダブル受賞します。)

その新しさは名古屋シーンでももちろん存在感を示し、
のちにそれぞれが名古屋、東京、LAで活躍する実力派チームとなっていきます。

さらに、
YASUHIKO”, “HIROAKI”(現、“WOWZ”)の同級生コンビも、
GORO”(『ADAMOSTE』/『CAKRA DANCE COMPANY』)のレッスンで出逢った “MASA”と、
翌年、『Ugly』を結成します。
独自路線を走り、コンテストを中心に活躍するようになります。

OLD SCHOOLでも、
00年編で紹介した”MATSU“(現、『SOUL CITY TOKAI』主宰)が、
同世代bboyたちと『NEXT SCHOOL』を結成します。
メンバーに、”B-YASU“, ”GANE”(ともにのちに『CONCRETE SOUL ROCKERS』), “KAN”(のちに『甲斐天蹴』), ”GO-TO“, ”ANDO“, “MATSU”などがいました。

そして、
もうひとつ下の世代では、
99年編で紹介した“AYA”(『HONEY WAXX』)が、
この頃に『chanjya Baby』を結成します。
メンバーは、“AYA”, “TOMOKO”(ともにのちに『HONEY WAXX』), ”YUKO“の3人でした。

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▲chanjya Baby
(左から、TOMOKO, AYA, YUKO)

そして、
00年編で紹介した”ヒロト“(現、”Hilototti“/『Hilotes』代表)も、
大学入学後、『pimps』というチームを結成し、
学生シーンで頭角を表すようになります。


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▲PIMPS(左から、ヒロト、フミオ、アッキー)

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▲ヒロト(20代前半時)


さらに下の世代では、
You-Gee“(現、『Studio U』代表)の元でダンスを始めた高校生の”YURI“(のちに『GESSO』)が、
HIPHOPチーム『凸凹BAMPY』として活動を開始します。

もっと下の世代では、
幼少期よりダンスに慣れ親しんでいた、
YASUO”(現、『C.C.C』), “SHUNKEN”, “YOSHITAKA”(のちに『CALPAS』)の3人が、
Be-Bopチーム『STEP of ART』を結成します!
当時、まだ十代の彼らでしたが、
クラブイベントなどでも活躍するようになります。

岐阜や静岡での新生チーム


そして、
名古屋のみならず、岐阜や静岡でも新チームが結成されていきます。

岐阜では、
99年編より紹介している
ATSUSHI”(のちに『Heart Be Groovin'』/現、『ALL GOOD FUNK』),
KATOKEN”(のちに『レオン』),
RYO“(のちに『レオン』),
MORIATSU“(現、”MORIARCH“/『BIOBLOOD』)
が、LOCKダンスに転向しており、
99年編で紹介した“SHOJIN”(『密林』)のレッスンに顔を出していたことから、
無限ロッカーズ
の名前を引き継ぐこととなります。

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▲無限ロッカーズ(※写真は2003年)
(左から、KATOKEN, MORIARCH, RYO, ATSUSHI)


無限ロッカーズ』は、
この年の『名古屋武踏会』の”OLD SCHOOL部門“でいきなり優勝するなど鮮烈なデビューを飾り、
そのまま東海注目のLOCKチームとして、
その後も、スターダムを駆け上がります。


そして、
静岡県浜松市でも、
TERA”(現、『Riff Chase』/『DANCE STUDIO Jammin』代表)が、
RYOHEY”と、
Reserve dog』というチームを組んで、
活動を開始します。

2人はのちに仲間を増やし、
HI-JACK』として名古屋シーンでも活躍します。
そして、
今では“TERA”は浜松の番長としてシーンを牽引し続けています。


ちなみに、
当時、浜松で活躍していた若手チームの筆頭が、
スカイラブハリケーン』であり、
メンバーは、
SHO“(のちに『RAGGED SOUL』)
AKIRA“(現、『EXILE』, 『®️AG POUND』)
YOSHIYUKI”(のちに『DOOZY』)
CHU-Z
の4人でした。

EXILE』入りした”AKIRA“を筆頭に、
全員がその後大きく羽ばたいたチームであり、
99年編で紹介した、『ALL DEGREE』直系の後輩チームだったそうです。

どの地域にも熱い人たちがいるものですね。


ダンスダイナマイト2001


そんなこんなで、
各世代、各地域で新チームが次々と結成された年の『DANCE DYNAMITE』は、
その群雄割拠ぶりが現れます。

2000年はトーナメント方式のコンテストでしたが、
2001年はそれまでの形式に戻します。

93年以降、
本選は『DIAMONDHALL』が定着しておりましたが、
予選は、98年以降より『CLUB QUATRO』で行うことが定着していました。

そんな『CLUB QUATRO』での激戦を制して、
この年、本選にコマを進めたのが、

1.『COHIBA
94年編で紹介した『よそほひ』メンバーを中心とした“KOU Family”チーム。
メンバーは、“SHIGE”(現、“DJ TETSU aka Daddy1”), “SEIJI”, “SATOSHI”(すべて『よそほひ』), “KAZ”(『カルビークッパ』, 『CAKRA DANCE COMPANY』/現、『10GAME』)

2.『CONTROL
※2000年の『来い!vol.6』で優勝した実力派BBOYチームです!
メンバーは“TAKAYUKI”, “SEN”, “L”などです。
(現在調査中)

3.『TEAM
※前述の『Isaac』+『inPACT』の合体チーム!
NOBUTO”, “KAPPA”, “AGATCHI”, “TOSHI”の4人。

4.『The Message
98年編で紹介した名古屋を代表するLOCKチーム!この年にはメンバー編成があり、メンバーは、”SHUNJI“, ”KIN“, ”IKU“, “NATSUKI“, ”YUTTA“の5人でした!
 ちなみに、”IKU“と“NATSUKI”で『Mind of Soul』というチーム活動もしていました。

5.『PUNCH
※前述の人気HIPHOPチーム!
 この時は、”SUGI“, ”KENTA“, ”TANOKEN“, ”GEN“の4人。

6.『激辛リベンジ
99年編, 00年編で紹介したコンテストキラーチーム。
メンバーは、”YOHEI“(『来い!』オーガナイザー), ”IMAYAN“, ”TOMO“, ”YORIKI“, ”TAKURO“, ”TAKAHIRO“の6人でした。

7.『DOPE FRESH
98年編で紹介した結成から99〜01年まで3年連続本選進出の実力派チームです。
この年は、沖縄出身ダンサー”HIRO“もメンバー入りしており、
HAYATO“(現、『PUPPETION』代表), ”ICHIRO“, ”TAKUYA“, ”RYUJI“, ”TARO“(現、『dancing base Zenith』代表), ”HIRO“の6人でした!

8.『TIROL
00年編で紹介した”KEI“(元『カルビークッパ』), ”SETSUKO”の姉妹チーム。

の8チームでした!(順不同)

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▲DANCE DYNAMITE ’01 フライヤー


そして、
この中で優勝を果たしたのが、
TEAM』でした!

ボディコントロールやタットを駆使し、
練りに練られた構成で、
細かい音までハメていくいわゆる“音ハメ”スタイルで、
結成直後にも関わらず、優勝を果たします!

この『TEAM』の勢いはとどまるところを知らず、
この年の『来い!vol.7』でも優勝します!
無双状態ですね。

というわけで、
群雄割拠“の時代をまず制したチームが現れました。


ダンスダイナマイト '01 ゲスト


そして、
この年の『DANCE DYNAMITE』のGUESTとして登場したのが、
のちに紅白出場も果たす名古屋産HIPHOPグループ、
nobody knows』でした!
バックダンサーに“YASU”(『FOOT ILLUSION』)らを従えてのステージパフォーマンスでした。

LIVEはそのほかに、
イベントMCも務めていた“MADD”も行います。

そして、
ダンスSHOWは、
90年編から登場している“KOU”(『MIAMI FACE』, 『P.D UNITS』, 『CAKRA DANCE COMPANY』主宰)と、
91年編から登場している “TOMOKAZU”(『PINOCCHIO』, 『C-HAIS』, 『FIVESTAR』, 『PLAYS』)
という、
90年代から伝説を残し続けている名古屋きっての天才&変態ダンサーの2人がユニット出演します!

さらに、
00年に続き、2年連続で『SPARTANIC ROCKERS』が登場します!
リーダーの“MIYATA”はその後も、『DANCE DYNAMITE』の審査員としても毎年のように名古屋に来てくれています。

そして、極め付けは、
韓国から当時、世界一のBBOY集団『EXPRESSION』が登場します!
これもものすごい衝撃だったそうです。
現役の世界チャンピオンが名古屋に来るということで、
そのパフォーマンスに多くの人たちが度肝を抜かれたそうです。

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▲DANCE DYNAMITE ’01 レポート

21世紀に入り、
GUEST陣の充実も変わらない『DANCE DYNAMITE』でした。


名古屋クラブシーンイベントの変遷


そして、
クラブシーンでも新たな動きが見られます。

96年編で紹介した『From Behind』、
97年編で紹介した『Check It Out』、
と、名古屋クラブシーンになくてはならないイベントをオーガナイズしてきた “KATSU”(『Beeper』, 『DEGIL FIRE』)が、
TAKAOMI”(『DEGIL FIRE』/現、『(株)エントランス』代表取締役)とともに、
US-TAK』なるイベント団体を興し、
Check It Out』のイベント名を、
TOSS IT UP』に改めます!

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▲TOSS IT UP vol.1 フライヤー

GUESTは、00年編で紹介した『Bush Babeez!!
初期メンバー4人での登場です!
熱いですね〜


この『TOSS IT UP』は、出たいチームは、
エントリーすれば誰でもSHOWが出来るということで、
常に40チーム、多い時は60チーム?以上のSHOWが行われるダンサーのお祭り的なダンスイベントでした。

しかし、
誰でも出られるのは“1〜2部“であり、
3部”はイベント側からオファーを受けたチームのみでした。
(多い時は4部まである時もありました。)

当時、
DANCE DYNAMITE』の本選に残ることがひとつのステータスであったように、
TOSS IT UP』の“3部”に出演することは、
名古屋ダンスシーンの中で名実ともにトップクラスとなった証ともいえるほど、
インパクトがありました。


KATSU”は大小問わずダンスイベントに顔を出しては、
スタイルや派閥にとらわれず、良いチーム、ダンサーを発掘しては『TOSS IT UP』はじめ、シーンに繋げていました。

その為、
未来ある若手ダンサーから、シーンを築き上げたベテランダンサーまでが集結する
TOSS IT UP』は、
「トスに来れば、今の名古屋ダンスシーンがすべて分かる。」
とさえ表現されていました。

まだまだ母数の少なかった第一世代から、
第二世代、第三世代と進むにつれて縦はもちろん、横にもどんどん拡がっていったわけでして、
そうなると、
ジャンルの壁やスタイル・価値観の違い、
さらには“派閥“が出来てくる部分はありますが、
それでも、そういった違いを超えて、お互いがギスギスしすぎない関係性があることが、
名古屋シーンの強みだと勝手ながら思っています。

集まる場所があるっていうのは良いことですよね。


そして、
98年編で紹介した『WILD WILD SMILE』ですが、
この頃、”KUMAZAKI“(『PLAYS』, 『HIPHOP CORN』)がレジデントを退き、
NAOKI aka シーモネーター“(『Beeper』/現、“SEAMO“)のみのレジデントとなります。
そして、”KUMAZAKI”の穴を埋めるべくDJ入りしたのが、
同じく98年編で紹介した ”Coko-1“ (現、”CONiY“/『DANCE STUDIO HIGH STARS』代表)でした。

そして、
NAOKI”はこの頃は既にラッパー“シーモネーター”として人気を博しており、
ラッパーシーンでも“塾長”と慕われ、
だんじり祭り』など1000人規模のイベントを大成功させていました。

その勢いのまま、
シーモネーター“は、
シーモネーター&DJ TAKI-SHIT』として、
メジャーデビューが決まります!

そこで、
WILD WILD SMILE』のオーガナイズを、
MICRO“(『HOME MADE 家族』)へと引き継ぎます。
MICRO“もダンサー時代があったそうです。

Wednesday at LUSH』時代の”RYO-Z“(『Bush Babeez!!』)から合わせて、
三代目のオーガナイザーが誕生しました。


ダンサーシーンとシンガーデビューの関連性

ということで、
翌年の“シーモネーター”のメジャーデビューが決まったこの年に、
同じく翌年のメジャーデビュー向けてに動き出したダンサーがいました。

それが、
99年編00年編で紹介していた
K-TA“(『Beeper』, 『C-HAIS』/現、『Sun-X Dance&Vocal School』代表)こと、”Ryu-B”でした。

この当時、
HOME MADE 家族』メンバーの”HOZE“が
RAPだけでなく、歌も上手いということで、
周りからの紹介を受け、
Ryu-B“と”HOZE“で一緒にライブをするようになります。

それをきっかけに、
C-HAIS』と『HOME MADE 家族』で、
HAIS MADE NIGHT』というイベントを開催したりと、
良好な関係を築いていきます。


そんな折に、
Ryu-B“&”HOZE“に『C-HAIS』&『HOME MADE家族』のコラボLIVEを観たところ、
大きく反応したのが、92年編で紹介した『PARTY』の”宮地大輔“でした!

2人の可能性を見出した、
宮地大輔“の働きかけにより、2人は東京でラジオ番組が決まり、この年上京します。

そして、
HOZE“は『HOME MADE 家族』を脱退し、
HOZE“と”Ryu-B“の2人で、
HB』として、
翌年、メジャーデビューすることとなります!

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▲HB デビューシングル『ROCK the HOUSE』(2002.07 リリース)
(HBのロゴと、曲タイトルはCAZULのペイント!!)

詳しくはまた次編でも記します。

すべては繋がりとタイミング。
そのために実力を積み上げてきた人たち。
最高ですね☺︎

HOUSEシーンの変遷


そんなHIPHOPシーンの動きもありつつ、
HOUSEシーンはさらなる深みを見せます。


99年編00年編でその伝説ぶりを伝えた『[ha:n]party』を終えて、
名古屋のHOUSEシーンの重鎮『UNIVERSE』メンバーは徐々に、
「ダンスはクラブがあって、いい音楽を聴きながら踊ればいいよね。」
と、イベント規模やGUEST SHOWの派手さよりも、
良いdj・良い音質・良いクラブで、
パーティーをやることを優先するようになります。

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▲A Treasury of Sound フライヤー

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▲Danceteria フライヤー(2002年時)


今でも不定期に開催されているgood partyです。

当時、
UNIVERSE』の主要メンバーが20代後半。
LIFESTYLEとしてのダンサーLIFEをナチュラルに楽しめる領域に達し始めていたのかもしれません。

一方で、
毎週木曜の『HOUSE TOPS』を7〜8年続けていた“SENBA”(『MOVE UP』, 『FOOT ILLUSION』, 『UNIVERSE』)も、
この年、“EJOE”を迎えたスペシャルVer.も開催します!

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▲DANCE FEVERフライヤー


毎週HOUSE partyをレジデントしつつ、
スペシャル回ではHIPHOPも含めてこのクオリティはすごいですね!

どちらもやれる人は中々いないでしょう。
SENBA“の存在感がいかに大きかったかが分かりますね。
この頃、
98年編より紹介している『FOOT ILLUSION』も、
立て続けに結果を出したことで、全国からオファーがあり、
県内外で活躍していたそうです。

ちなみに、
DANCE FEVER』のCAST陣は、
DJも、DANCEも、
全員一度は紹介した人、チームばかりですね。
群雄割拠の時代に突入したとは言っても、
90年代後半からシーンの中心にいた人たちは、
この2001年も変わらず牽引していた様子が窺えますね。


そんなこんなで、
HOUSEシーンは、名古屋では、
初代『P.D UNITS』が持ち込んだHOUSEを、
MOVE UP』, 『PINOCCHIO』が爆発させ、
UNIVERSE』, 『FOOT ILLUSION』が定着させ、
さらに『FUTURE TRIPS』, 『TとYの方程式』など後輩チームも続々と現れ、
シーンとして成熟していきます。

一方、
岡崎&豊橋などの三河地方では、
THE LiFE』の”SHUICHI“を中心に始まり、
名古屋シーンとも繋がりを持ちながら、
ECCENCE OF LIFE』が三河代表チームとして常に存在していました。

ECCENCE OF LiFE』は、
SHUICHI”がダンサーとしての第一線を退き、DJメインに転向してからも、
TONE”(現、『LIVING for NEXX』店長)を中心に活動を継続しており、
NY帰りの“NORICO”(現、『BT STUDIO』)もメンバー入りするなどして三河を牽引していました。

そんな“NORICO”や“TONE”の生徒には、
当時高校生の”NANA“(のちに『GESSO』)がおり、
NANA”は中学時代より、“YUKI”と、
聖砕』というチームで活動していました。

愛知全体でハウスシーンが成熟してきた時期だったのでしょう。


ストリートに最も近いスタジオの誕生


さて、
この年、ダンスシーンにとって外せない出来事が
名古屋で”ストリートに最も近いスタジオ”と称される
pineapple studio
のオープンです。

98年編で紹介した『TOP UP PRODUCTION』が、
新たにスタジオ部門としてオープンしたのが、
pineapple studio』であり、
代表を、“TAKE”(『P.D UNITS』)が務めました。

これまでにも説明してきたように、
ストリートとスタジオの関係性は、少しずつ距離が縮まってきたり、クロスオーバーする部分が出てきたとはいっても、
この時期もまだJAZZダンサーやステージダンサー(表現が的確かはわかりません)がメインのスタジオにストリートダンサーが入っていることが多かったのですが、
この『pineapple studio』は代表もインストラクターも根っからのストリートダンサーばかりであり、
新たな時代の息吹を感じさせました。

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▲pineapple studioインストラクター(2002年時)

このスタジオでレッスンする為には、
ストリートシーンでのプロップスがないと出来ないという時代でした。


ちなみに受付やスタッフもストリートダンサーでした。
初代受付には97年編で紹介した”MariっPe“(『YO!YO!』/現、”Bambi”)などがおり、
2代目にも99年編より紹介している “AKO”(『enokeen』/のちに『龍五娘』,『A's』)なども受付を務めるようになり、
いつしか『PINE GIRLS』としてブランド化されていきます。

そして、
pineapple studio』をオープンさせた、
TOP UP PRODUCTION』がさらに仕掛けます!

伝説のイベントの幕開け


それが、
ストリートに根差した大型イベント
SUPER BAD
の発足でした。

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▲SUPER BAD 2001フライヤー

第一回目は、
CLUB OZON』で開かれました。

GUEST陣を見れば、その本気度が分かりますね!

DJに、
東京から“MASTER KEY”!(説明不要、『BUDDHA BRAND』のDJです!)、
そして、
CAZUL“とも親交の深かった沖縄出身のレジェンドDJ “TA-SHI”(’92 DMC日本チャンプ!)
そして、
名古屋が全国に誇るレジェンドDJ、
刃頭”(『ILLMARIACHI』/現、『OBRIGARRD』)(97年編でも紹介しました。)
が登場します。

このうちの誰か1人でもDJするなら遊びに行きたいほどのレベルでそろっていますね。

DANCEもひとつずつ説明したいレベルで本当にカッコイイ人たちばかりです!!

ただ、
それをすると長くなりますし、
一応、あくまで東海ヒストリーなので、
ここは割愛させてくださいm(_ _)m

とにかく、
フライヤー画像を見て感じてください!
(直接連絡いただければ、どれだけ凄いかをしっかりお伝えします笑)

さらにLIVEも充実しています!
日本R&B界のパイオニアにして最高峰の『F.O.H』に、
名古屋ラップシーンの歴史を築いてきた、
M.O.S.A.D
PHOBIA OF THAG
CHOCO BROTHERS
が揃い踏みです。

ヤバすぎです。
名古屋の、いや、日本HIPHOP史に残るクルーばかりです。
ここも詳しくは割愛しますが、興味ある方は是非色々調べてみてください!

名古屋のラッパーてマジでカッコイイ人多いんですよ。
ダンスヒストリーのこの記事ですが、
そちらにも興味持っていただけると嬉しいです◎

さらに、
BANDとして参加しているのが、『N.O.B.』でした。
この『N.O.B.』を率いていたのがドラマー “KASHI”であり、
東海クラブシーンの重鎮であり、この”KASHI“がいたらこそ実現したバトルイベントが、
ROCK IT』でした。
また後に記します。

そして、
LIVE PAINTには、
若野桂“と”R.E.S.KAZU“(現、”CAZUL“)!
名古屋が世界に誇る2大GRAFFITI ARTISTですね。

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▲若野桂&R.E.S.KAZU(aka DA KOOLAID/CAZUL)
(写真はSUPER BAD 2002フライヤーより)


というわけで、
この『SUPER  BAD』こそ、規模・クオリティ共に格段に濃密であり、
ダンサーが仕掛けるHIPHOPイベントとして、
名古屋のダンスシーンのみならず、クラブシーン、HIPHOPシーンの新たな伝説となったイベントだと言えます。

そして、
この年のvol.1を皮切りに、
年一回、2010年まで毎年開催されます。
2001〜2003年は『CLUB OZON』での開催、
そして、2004〜2005年は『丸美観光ビル』のB1階〜4階丸ごとで開催され、
2006年からは『丸美観光ビル』にプラス『ZEPP NAGOYA』とステージ規模が拡大します。
翌2007年からは『女子大W.A.R.』(Walk Around Revolution)として、
栄・女子大エリアの15のクラブ・飲食店を夜通しハシゴして遊べる“クラブサーキット“式イベントを全国的に先駆けて開催します!
2008年以降は19会場に増え、名古屋のトップDJ/MC/DANCEが一夜に集結する、
超濃密なイベントとして歴史を刻みました。

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▲SUPER BAD 2007 出演者

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▲SUPER BAD 2008 出演者

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▲SUPER BAD 2009 出演者

今も輝くトップアーティストが集結していますね。

CAZUL”が立ち上げ、“JUNJUN”が屋台骨を支えた『TOP UP PRODUCTION』は、
常に現場から新しいカタチを作り上げていく根っからの“HIPHOP”集団だったといえます。

今回の記事のサムネイル画像も『SUPER BAD 2001』のフライヤー裏面にある文字なんですが、
NORMALを裏返しにいく。
これぞ、名古屋スタイルというのを表現しまくってる最高なデザインだと思います!


名古屋郊外の盛り上がり


さて、
99年編00年編とその躍進ぶりを紹介した “SHOJIN”(『密林』)は、
この年も精力的に活動します。

まず、
この年に彼もダンススタジオ『DANCE STUDIO  Family』をオープンさせます!

その『DANCE STUDIO Family』があった場所が名古屋市天白区であり、
00年編で紹介した“SHUNJI”(『The Messgae』)が店長を務めていた『プールバー』と同じビルであり、
その上にも『DAN HIGUCHI DANCE STUDIO』というスタジオがあるという、
名古屋市天白区の塩釜口エリアのメッカみたいなビルでした。
(今はすべてなく、居酒屋鳥メロがありますw)

この『DANCE STUDIO Family』で、
00年編で紹介した『名古屋小武踏会』は開かれるようになり、
県内のみならず、県外からも多くのバトラーが参加するようになります。

さらに、
SHOJIN“は、自身のチーム『密林』のKIDSメンバーと、
MITSURIN』として、
JAPAN DANCE DELIGHT(以下、JDD)vol.8』
のFINALISTとなります。

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▲MITSURIN × コペルニクス(東京)

昨年に続き、2年連続ですね!
(昨年は『密林』フルメンバーで出場。)
しかも、この年は名古屋予選がなかったので、
東日本予選からの通過でした!
かなり勢いありますね。


そんな“SHOJIN”の『DANCE STUDIO Family』と同じ名古屋市天白区にスタジオを構えていたのが、
00年編で紹介した『FORCE DANCE STUDIO』でした。

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▲KIDSに強いFORCE DANCE STUDIO!
(左奥:ハルナインティー)

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▲FORCE初期時代の集合写真

最前列の左2人が“ももちゃん“, “なっちゃん“。
00年編で紹介した『SUMMER PEACH』であり、
オレンジロンTの39番は、今名古屋シーンの次世代を担う“Susumu Spaniel“(のちに『KoRock』/現、『A.R.E.S』)です。
ちなみに、2列目1番左に93年編から紹介している “IKUMI”(『BLACK BEANZ』)もいますね。

また、
当時『ZABOON』、『CAMPAS』など、
天白区にもクラブがあったこともあり、
天白に人が集まる機会の多い、遊び場のひとつとして盛り上がっていた時代でした。

そんなこんなで、
それぞれの地域で、それぞれの遊び場が盛り上がった時期だったのだと思います。

群雄割拠の裏返し


このように、
名古屋NEW SKOOL第3世代へと突入し、
良く言えば群雄割拠と言える状態になりますが、
裏を返せば、アイコンとなるカリスマダンサーが不在でもあったとのことです。

もちろん、
それぞれに高い実力と人気を誇っていましたが、
分散している分、
これまでの『PINOCCHIO』, 『Hi-Problem Chld』, 『FIVESTAR』のように、
名古屋にいながらに全国へと影響を与えられるようなチームやダンサーが新しく出にくくなります。

その中で次に頭角を現していくのは誰なのか?
予想のつかない21世紀の始まりでした。

まとめ


名古屋NEW SKOOLの第一世代、第二世代のダンサーがキャリアを積み、人生フェーズが変わる中で、新たな世代が活発に動き出した第三世代幕開けの年となった。

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