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名古屋STREETDANCE HISTORY7 〜1994年:芳醇と息吹〜

どうもです。UCです。

(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次7です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY
(2020.06.13 追記アリ)


さて、今回は1994年編です!
当初の予定では、この辺りから2年単位とかでまとめてみようと思っていたのですが、
かなり情報量が多くなってきたので、
引き続き、1年ずつまとめさせていただきます!

微妙に時系列が錯綜していたり、
認識が違う部分も、出てくるかとおもいますが、
分かり次第適宜修正していきますので、
ご指摘やご教授、よろしくお願いします!

それでは、今回も最後までお付き合いください!
(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)


はじめに


93年編では、名古屋NEW SKOOLシーンの世代交代が起こり始めた1年だったと記しましたが、
この1994年でも東海の各地で新世代の息吹や、新たな出逢いが起こっていきます。

まだまだネットも普及しておらず、
PHS(平成世代は存在すら知らない?!)も販売開始前ですし、
あの革命をもたらした”Windows95“も発売前の時代ですからね。

そんな中で情報をたぐり寄せ、次々と繋がっていったみなさんのダンスへの情熱は簡単には推し量れないなぁと想像しては感心するばかりです。

では、順にまとめていきます。

DANCE DELIGHTでの名古屋勢の活躍

93年編で、紹介したように92年に『ADHIP』主催のストリートダンスコンテスト『DANCE DELIGHT』シリーズが始まりました。
そして、この年も名古屋勢の『DANCE DELIGHT』での活躍がありました。

まずは、昨年結成された
PINOCCHIO』(“PINO”, ”KENJI”, ”TOMOKAZU“)が、
OSAKA DANCE DELIGHT(以下、ODD) vol.8』で”3位”入賞!

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▲ODD vol.8レビュー(提供:ADHIP)

当時の優勝が、
のちの『ELECTRIC TROUBLE』となる ”YOKOI“, ”BON“ などが所属する『EXIST』。

そして、準優勝が93年編で『KOU+TAKA』での活躍を紹介した広島の”TAKA“率いる『SKILL NUTS』でした。

さらに、特別賞『暴れん坊SHOW軍』のリーダーは、今やMC/イベントオーガナイザーとして活躍する”MC MORIYA“ですね!

そんな豪華メンツに混じり、
高校生メンバーを擁する『PINOCCHIO』がカマすってステキですね◎
(まぁ今となれば世界を獲った『PINOCCHIO』なんで、別段驚きもしませんが(笑))

▲PINOCCHIO(※動画は95年時)
(他チームもチーム名に動画LINKを貼ってあります。)

そして、
この年にはいよいよ『JAPAN DANCE DELIGHT(以下、JDD) vol.1』が開催されます!
93年編でも説明した通り、『ADHIP』が仕掛ける今や世界最大級となるストリートダンスコンテストが生まれたのがこの年でした。

その栄えある第一回目の『JDD』に、
93年編で紹介した『NEEDLES』より選抜されたKIDSダンスチーム、
OOCHIE COOCHIE』(”AYUMI“, ”RENA“, ”めぐっぺ“(のちの”MEGGY“(『L.L  STYLE』など), ”MAME“)
が西日本予選を通過した上で、
FINALでも、見事”特別賞”を受賞します!!

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▲JDD vol.1レポート(提供: ADHIP)
※ちなみに、チーム名の読み方は「ウチクチ」です。

当時の『JDD』はまだ年齢制限がなく(現在は15歳以上からエントリー可)、
小学生たちがカマしたHIPHOPは全国的に衝撃を与えたみたいです。

◎HIPHOP IQの高い人ならピンと来ているかもしれませんが、
使用曲はチーム名通り『Oochie Coochie / MC Brains』です(^^)

ちなみに、『OOCHIE COOCHIE』の中から、 “AYUMI”と“RENA”は、
その後、『RA』として、
SONY』より踊れる小学生ヒップホップデュオとしてデビューを果たします!!

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▲RA(※デビューは96年)
(今では2人ともダンスしていないそうです。)

名古屋からまた新スターが誕生した瞬間でした。

94年のDANCE DYNAMITE

そんな全国的なダンスコンテスト『JDD』が始まった年ですが、
名古屋の風物詩イベント『DANCE DYNAMITE』は4年目を迎え、
徐々に成熟していきます。

この年の”春選考会“は、
名古屋E.T』(現在、『OASIS21』)で行われましたが、
県外からも実力派チームが参加するようになってきたそうです。

そして、
そんな“春選考会”で優勝したのが、
BODY COUNT』でした!
このチームは、
NORI“(『CELEZOORATION』, のちの『ICE』),
EDDY“,
NAGAI NAO“(『CELEZOORATION』/のちにNYでHOUSEの才能を開花させ、帰国後東京で活躍)
参考資料:http://www.tokyo-dance-magazine.com/people/nao/index.html
などを擁するJAZZチームでした。

その他に本選へ進出を決めたのが、
・『2TIGHT
92年編で紹介した”TOMOKO”, ”KEIKO“の姉妹SOULチーム!

・『MOVE UP
※”SENBA“, “MICHI“, “JUNYA“, “AG“, “TAKAO“に加え、元『MIAMI FACE』の”YASU“(現、”DELAYAS“)も加入した6人Ver.!

・『OOCHIE COOCHIE
※前述の『JDD vol.1』特別賞チーム!当時小学生!

・『0(ZERO)
※”FUMI“(のちの『Ne-Ne'S』), ”マル“, ”サトコ“, ”ヒトミ“, ”ミホ“の5人組JAZZチーム。

・『CRAP HOPPER
※”ホッタ“率いるチーム。

・『Stiff Upper LIP
※”Tap dance”チーム。
予選は“サカイダコージ”(現、『arttap room 81』代表), “MOTSU”(のちの『NASTY』,『CAKRA  DANCE COMPANY』), “TAMA“で出場。
本選は、”MOTSU”に代わり、”SATOSHI“(のちの『FULL STOIC MOVERS』,『YAMAKAJI』/現、『D-HIGH DANCE STUDIO』代表)が出場してそうです。  

の計7チームでした。

個人的には『ケレレクヴァア』というチームの映像を観た時にカッコイイなぁと印象に残っていたので、
今回、調べて選考されていないことを知って少し残念でしたね。
まぁ結果よりも、自分がカッコイイと思ったことが大切なんですけど。

ちなみに、『ケレレクヴァア』は、
AKIRA”(のちの『VANILLA』), “ナンシー”, ”MASAOMI“, ”やす“の4人組HIPHOPで、
私の観た映像では、どことなくエキゾチックなHIPHOPを踊っていました。

そんなこんなで、
本選はもちろん、『DIAMOND HALL』で開かれました。

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▲ DANCE DYNAMITE’94 本選フライヤー

本選は、選考会選出チームに加えて、
GUESTに、当時の名古屋の大御所ダンサーが集合した、
NA style』が登場します。

P.D UNITS』の新旧リーダー”倉田サム“,(現、『ダンスダイナマイト』代表), ”TAKE“に、2代目メンバーである”KOU“(現、『CAKRA DANCE COMPANY』主宰/『studio CAVE』代表)、
そして、『DA WICKED JAM』の”OZEHAN“, ”SANO“, ”KING-BOO“,
などが一堂に介してSHOWを行いました!

そして、
翌年より『DANCE DYNAMITE』はまた新たな展開へと突入していきます。

New Yorkという刺激

さて、
93年編でも紹介したように、93年頃より名古屋の若手ダンサーも、”YUKOP“(初代『P.D UNITS』)に連れられ、NYに直接足を運ぶようになります。

何度も言うように当時はネットも十分に普及していない時代です。
そして、NYのアンダーグラウンドシーンがとにかく熱く、
HIPHOP、そしてHOUSEの最新スタイルが次々と生まれていた時代でした。
しかし、その分当時のNYは治安が相当悪かった歴史もあります。

特に、1980年代のNYはアメリカ史上最悪の治安と社会状態だったとされており、
90年代になってからは、だいぶ治安が良くなったとはいえ、
それでも”South Bronx“など、「行っては行けない場所=身の安全を保障できない場所」がまだまだ多くあったとのことです。
今や観光地の”ユニオンスクエア”も、”セントラルパーク”も、
日没後なんて日本人だけで歩けたもんじゃなかったみたいです。

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▲当時のNY地下鉄(80〜90年代初頭?)

それでも、熱気に溢れ、世界中の若者を惹きつける魅力を持つのがNYであり、
HIPHOP”というカルチャーのみならず、
キース・ヘリング“, ”ジャン=ミシェル・バスキア“といったストリートアーティストを産み出したことからも、
そのエネルギーの濃さ、大きさは容易に想像がつきます。

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▲Keith Haling作品

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▲ジャン=ミシェル・バスキア作品


もちろん、ダンサー同士でも、
今みたいに国境を超えて多くのダンサー同士が繋がるなんてほとんど無く、
クラブで知らないダンサーがいたら、まず敵対と言っても過言ではないくらいの治安だったそうです。

だからこそ、
直接、海の向こうの本場の情報・雰囲気を生で掴み取ってくる経験値は相当大きかったとのことです。

例えば、
昨年NYに行った”SENBA“が、
”超危険地域”の”South Bronx”のクラブに ”YUKOP”と行き、
物怖じせずに踊っていると、あの『D.I.T.C』の “Fat Joe”(!!)に声を掛けられて、握手して認められたなんてエピソードがあります。
「ダンスだけは一歩も引かない」
当時から、変わらない自己表現への信念とプライドが垣間見えますし、
こんな経験は、ほとんどの人が一生に一度すら起こらないような経験ですね!!

そんな感じで、この年の夏も、
MOVE UP』の“SENBA“, ”MICHI“, ”JUNYA“, ”AG“, ”TAKAO“と、”KENJI”がNYへダンス修行に行きます。

また、
93年編でも紹介した2代目『P.D UNITS』となった “TAKU-G”(現、“魂宮時”/『studio ku〜空〜』代表)も、
その後たびたびNYを訪れるようになり、
そのカルチャーやアートを吸収していきます。
そして、
その中で“自己表現方法”はダンスだけじゃなく、もっと“自由”でいいと考えるようになったそうです。

極端に言えば、アフロアメリカンたちが“自由”を掴もうと生まれた“HIPHOP”が、
カタチになる(型にハメられる)ことで逆に“不自由さ“を感じるようにもなったと言います。
以降、“TAKU-G”の活動はより柔軟に、より多角的に拡がっていきます。

名古屋の夏’94

一方、この年の夏、
名古屋では”倉田サム“主催の『Saturday Butcher’s Park』が4週連続で開催されました。
これはPARCO(1989年開店)の地下で、
DJ Butcher“(『P.D UNITS』)のDJ playによるブロックパーティーであり、
DANCE SHOWに加え、
DJ TIMEには当時の名古屋トップダンサーたちがサイファーで盛り上げまくりました。

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▲Saturday Butcher’s ParkのDVD動画

僕も動画で何度も見ていますが、
みなさんキレキレです◎

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▲Saturday Butcher’s Parkのサイファー場面

ちなみにこの頃、
愛知県新城市から名古屋に足を伸ばし、
DJ Butcher”に衝撃を受けてDJを始めたのが、
今の“DJ OBA”(のちの『Bush Babeez!!』/現、『GPD』)でした。
密かに流れる名古屋の血筋ですね!

この頃は、
93年編で紹介した『J&J』から、
さらに大所帯となった『Jクルー』なるものがあり、
先輩『MOVE UP』について、東京や大阪までもついていき、
様々な経験値を積んでいったとのことです。

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▲94年当時の集合写真
(分かる範囲でも、PINO, KENJI, KUMAZAKI, TAKAOMAN, JUNJUN, DELAYAS, JUNYA, SENBA, AG, RYO-Z, RYO, YUCCO, YUKOP, TAKEなどなど)

まさにFamilyですね!
ダンススタイルは全員個性的であったにも関わらず、
ダンスに関わる行動は本当に団体行動が多かったみたいです!

様々な出逢い

そして、
この頃、前線で活躍するダンサーと、次世代を担うダンサーが、
各地で出逢い、師弟関係となったり、チームメイトになったりと言うエピソードが散見されます。

例えば、
前述した“TAKU-G“(現、”魂宮時”)と、
練習場所でたまたま出逢ったのが、当時高校生だった”HAYATO“(現、『DOPE FRESH』, 『PUPPETION』代表)であり、
その後、”HAYATO“は”TAKU-G“を師匠と慕うようになります。

ちなみに、
HAYATO“と同じ高校の後輩で、
翌年にダンスを始めるのが、
LUPIN“(のちの『EDITS』,『C-HAIS』, 『NIGHT RYDERS』)であり、
HAYATO“が、”LUPIN“にシーンの道を教えることとなります。

その“LUPIN”とのちにチームを組むことになる “WAKKAN”(のちの『EDITS』, 『LOVE KNOT』/現、リサイクルショップ『BANUL』オーナー)も、
高校1年生だったこの年に、
若宮高架下”で勇気を出して声をかけたのが、
KENJI”(『PINOCCHIO』/現、『CLOVER DANCE塾&STUDIO』代表)であり、
それが名古屋シーンに顔を出すキッカケとなりました。

一方で、
93年編でも紹介した豊橋no.1チームとして人気を博していた
Free Style
(“KATSU”,”SHUICHI(現、『QUARK』代表)”,”NAKAJIMA“, “YASU“(のちの『FOOT ILLUSION』))
は、この年に解散してしまいます。
(HOUSE組とHIPHOP組での方向性の違いが要因だったそうです。)

しかし、同時期に、
KATSU”(当時大学ウン年生w)と、同じ大学に入学してきたのが、
You-Gee“(現、『studio U』代表)であり、
You-Gee“は”KATSU“のHIPHOP愛に感銘を受け、師匠と慕うようになります。
こちらものちに名古屋シーンを牽引する存在となっていきます。

そして、
OLD SKOOLのSOUL系統でいくと、
岡崎市に『THE UNDERGROUND』の支店?で『Black Market』というクラブがあり、
名古屋と三河を繋ぐクラブとして人気を博していました。
ちなみに、当時の店長が“DJ KARNELL“(現、『Karnells Bar』店長)であり、
AKIRA ”(現、“AKIRA SOUL”)の下で『SOUL CHILDREN』として活動もしていたそうです。
(時系列が微妙に錯綜しているかもしれません。)

この時期に、“AKIRA”は栄の『SOUL MASTER’S CAFE』というDISCOで働いており、
そこで働き出したのが当時大学生の”KIN“(のちの『the Message』『mo-Zone』『名古屋城前ポッパーズ』など)でした。

このように、NEWでもOLDでも、新たな繋がりがどんどん生まれていました。
そんなキッカケや繋がりがその後どう拡がっていくのか?
また翌年以降、詳しく記していきます。

’94結成のチーム


さて、そんな出逢いが各地であった中で、
この年結成された名古屋シーンを代表するチームが、実は『C-HAIS』なんです!

PINOCCHIO』メンバーとして活躍していた ”TOMOKAZU“(当時高校二年生)が、
「高校生がやるパーティーで踊ってほしい」
とのオファーを受けて、
色んな高校の仲良い子を集めてモテようとして始めたのが、
2020年の現在も名古屋クラブシーンで活躍する『C-HAIS』です。

そんな”TOMOKAZU”の呼び掛けで集結したのが、
TAKAOMAN“, “MOTO“, “ケンジ” (※『PINOCCHIO』のKENJIではない), “ヒロヒサ“, “カツ“, “モリト“、
合計7人であり、
これが初代メンバーとなります!

ここから、『C-HAIS』は紆余曲折を経て、
メンバー編成が行われ、その中で快進撃を見せていくわけです。
実は、“TOMOKAZU“は、『C-HAIS』と『PINOCCHIO』は同時進行だったわけですね!

そして、
この頃に結成したもう1チームが、
gooffy』であり、
IZUMI”(現、“維月見”), “SOMEKA”(現、“染香”), “AYA”の3人組。
活動自体は短かったみたいですが、コンテストで入賞したりと、
のちに名古屋フィメイルダンサーのカリスマとして産まれる『TEASE.』の原型となった時期だったかもしれません。


さらに、お隣三重県では、
のちに三重を代表するHIPHOPチームとしてその名を轟かす『entrance』の元となる『ドールクエスト』が結成されます!
しかし、ここには2020年現在の『entrance』メンバーはまだおらず、
初代『entrance』のリーダーとなる”YU-JI“が、”DJ SWITCH”やMCの”HIRO”などが所属するパフォーマンス集団だったそうです。
そして翌年以降、現在の『entrance』メンバーが徐々に加入していく流れとなります。

それぞれのスタイルの確立に向けて

この頃になると、
それぞれの“スタイル”がよりハッキリとしてきます。
“HIPHOP DANCE”が好きな人、
“HOUSE”にハマる人、
音楽好きが高じて“DJ“を始める人、
イベントを”オーガナイズ“したい人、
”自分自身だけの表現“を追い求めたい人、
”HIPHOPの4エレメンツ”すべてを体現したい人、
などなど。

人の数だけ信念があり、
人の数だけ正解が、道が、あると思います。
その道が交わることもあれば、離れていくこともあります。
良くも悪くも、枝分かれはどんどん進んでいきます。
また、それぞれが進む道を追えるだけ追っていければと思います。

というわけで、次回は1995年!
日本ではどうしても、”阪神大震災“の年という部分が避けて通れない年ですね。
(あとはオウム真理教の地下鉄サリン事件)

そんな年に名古屋のダンスシーンはどんなことが起こったのか?
色々記していきたいと思います。


まとめ

1994年は、前年の第一次世代転換期を経て、
新たなスタートやキッカケを掴んだ者が多く、それが翌年以降の新たな爆発に繋がる1年であった。

↓NEXT↓


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