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名古屋STREETDANCE HISTORY13 〜2000年:名古屋ミレニアム〜


どうもです。UCです。

(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次13です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )  
(2020.08.05 追記・修正アリ)

今回は、いよいよ2000年です。
ミレニアムイヤーですね。

もちろん、
急に何かが変わるわけではないですが、
振り返ってみると、
様々な場所や人にとってのターニングポイントがあった年でした。

まぁそれはどの年でもそうなんですが。
今回も膨大な量となりましたが、
しっかり振り返りたいと思います。
(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)

B-LANDの解散

98年編より、その活躍を記してきた『B-LAND』ですが、
2000年を持って解散となってしまいます。

やはり、芸能の世界は厳しい世界ですね。

解散が決まり、事務所との契約も切れ、
東京から名古屋に戻るメンバーは、
「いつかもう一回東京で華を咲かせてやる」
と心に誓いながら戻ったそうです。

その言葉通り、
RYO-Z”はすぐに東京に戻り、
Bush Babeez!!』を結成するなど、
東京のダンスシーンに新しい風を吹かせ、
東京のトップダンサーの1人として活躍します。
これについては後で詳しく記します。

一方で、
TATSUYA”は名古屋に戻り、
元のチーム『C-HAIS』での活動を再開するなど、
名古屋ダンスシーンでの活動が主となります。
94年編で初代メンバー、95年編で二代目メンバーを紹介してきた『C-HAIS』ですが、
この頃には初代からメンバーだった “MOTO“はダンスシーンから離れており、
後輩の”LUPIN“(のちに『NIGHT RYDERS』)が加入していたり、
のちには”K-TA“(『Beeper』), ”AKEEM“(『Beeper』)なども加入するなど、
仲の良いダンサーたちが次々集まって、
クラブシーンを中心に人気を博していました。

そして、
SAKAI“は、名古屋に戻ったあと、
実家稼業を継ぎ、徐々に踊る機会が減っていきます。


当時、メンバーは24〜25歳。
ダンスの仕事、芸能の仕事がなくなり、
この次、どこへ向かったらいいのか、何で生きていくのか、
それぞれの転換期となる良い”挫折“だったと言います。


ダイナマイト2000の驚きの本選方式

さて、
ミレニアムを迎えた『DANCE DYNAMITE』ですが、
この年は“倉田サム“が90年編で紹介した、
イベント会社『DANCE★DYNAMITE』を立ち上げて10周年!
ということで、新しい方式を導入します。

予選→本選方式は変わりませんが、
本選は、予選通過した8チームでの”トーナメント“方式で行いました。

SHOWコンテストのトーナメント!
ほとんど見たことのないシステムですね。
しかも、それを1日で行いました!
新しい方式に果敢にチャレンジするその行動力は素晴らしいですね。

ということで、
予選通過チームは、優勝するためには“3作品”が必要となりました。
相当大変ですが、
これはこれで面白そうですね!

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▲DANCE DYNAMITE 2000フライヤー


本選進出チームは、

1.『DOPE FRESH
98年編で結成を紹介したHIPHOPチームです。99年に続き本選進出ですね!
メンバーは、“HAYATO”(現、『PUPPETION』代表), “ICHIRO”, “TAKUYA”, “RYUJI”, “YOSHINORI”の5人。

2.『Beeper
95年編から登場しており、99年編でもそのマルチぶりを紹介したチームです。
この年で5年連続予選通過の当時最長記録?
この時のメンバーは、“NAOKI”(現、“SEAMO“), ”You-Gee“(現、『studio U』代表), ”K-Gee“, ”TETSU“, ”HIROYUKI“, ”KAZUNORI“, ”KATSU“(のちに『MASH BRUSH』)とメンバー増員していました!

3.『QUEST
※京都の有名HIPHOPチーム!
NAKAJI“(のちに『シャブレイ』/現、『たぴヤ』代表), ”TIKE“, ”MAMORU“, ”NOKKY“, ”TAKUYA“(現、”たくや仙人“)の5人でした。

4.『激辛リベンジ
99年編で紹介した、99年ダイナマイト優勝チームです!
メンバーは、昨年より増員し、
YOHEI“, ”IMAYAN“(ともに『うずず』), ”TOMO“, ”YORIKI“, ”TAKURO“(3人で『PUMPKIN HEADS』), ”MIDORI”, “TOMOO”の7人でした。

5.『ゲロッパ
※レペゼン山梨の日本を代表するLOCKチーム!
当時、『RAVE2001』でも活躍し、一躍注目を集めていました。
メンバーは、“YAZAKI”(フライヤーでは“fumihiko“表記), “JIN”(フライヤーでは“takahiko“表記), “HIKARU”, “NATSUKI”の4人でした。

6.『FULL STOIC MOVERS
94年編などでも紹介した“SATOSHI”(現、『D-HIGH DANCE STUDIO』代表)率いるbboyチーム!
当時、上京していた“SATOSHI”が関東で出会ったダンサーと愛知のダンサーで組んだ遠距離チームでした。
メンバーは、“SATOSHI”, “YOSHINORI”(静岡出身のbboy), “TAKESHI“(『バクレツポインター』), ”KAZUMA“(95年編から紹介し、96〜98年ダイナマイト本選進出していた『カルビークッパ』メンバー), ”HIROKI“, ”SHIRANE“, ”YATA“の7人!

7.『密林
99年編で紹介したBBOYチーム。
メンバーは、”SHOJIN”, ”AGURI”, ”ASUKA”, ”YASUTO”, ”TATSUYA”, ”TAKUMI”(現、『enjoynt dance school』代表)の6人。
この年から始まる密林快進撃はまた後に詳しく記します。

8.『イカスタシー
98年編から紹介しているフィメイルHIPHOPチーム!
この時には、”NORIMI“(現、”NON“/『CAKRA DANCE COMPANY』), ”MAYUMI“, ”MIZUYO“(現、”KANI“/『CAKRA DANCE COMPANY』)の3人でした。


の8チームでした!(順不同)

結果は、
=ベスト8=
× DOPE FRESH
Beeper

× QUEST
激辛リベンジ

× ゲロッパ
FULL STOIC MOVERS

× 密林
イカスタシー

=ベスト4=
× Beeper
激辛リベンジ

FULL STOIC MOVERS
× イカスタシー

=決勝=
× 激辛リベンジ
FULL STOIC MOVERS

FULL STOIC MOVERS』の優勝でした!
しかも、
予選1位通過からの本選優勝だったそうで、
それもダイナマイト史上初とのことでした!

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▲DANCE DYNAMITE ’00 フライヤー中面

ゲストも豪華でした。
日本BBOYチームのレジェンドであり、
当時、『UK BBOY CHAMPIONSHIP』で日本チーム初の世界チャンピオンに輝いていた、
SPARTANIC ROCKERS』が登場します!

そして、
96年の上京から4年振りに名古屋に戻った、
(91年編から紹介しており、95年編でもその爆発ぶりを記した)『PINOCCHIO』の”KENJI“が、
92年編で名古屋との繋がりを紹介した『GLASS HOPPER』の“TATSUO”と、
93年編で名古屋との出逢いを紹介した、熱海出身当時NY在住で『DANCE FUSION』に所属していた “HIRO”(のちに『ALMA』)と、
HOUSEマスター3人でスペシャルユニットで登場します!

さらに、
お馴染み『N.A STYLE』は、
N.A STYLE 2000』として、『P.D UNITS』と『Mel-O』に加え、
MCの“MADD”も加えた編成で、さらに幅広いステージングを見せます!

そして、
95年編98年編で紹介した、
DA KOOLAID”(現、”CAZUL”)や、
91年編より紹介している
DJ MITSU”(現、『nobody knows+』)も、
GUESTとしてクレジットされていますね。

DJ MITSU”は当時、
THE UNDERGROUND』(『LUSH』,『FARM』, 『CIPHER』)の統括マネージャーをしつつ、
自身の『$TAX RECORD』/『シグマサウンズスタジオ』を主宰し、
NOBODY KNOWS』(当時は、“G-TON”, “CRYSTAL BOY”, “DJ MITSU”)としてインディーズで精力的に活動するなど、
表舞台でも裏方でもシーンになくてはならない存在でした。


DANCE EXPRESSが生むターニングポイント

さて、
98年編より紹介している『DANCE EXPRESS』も、
DANCE DYNAMITE』と同様に東海のダンサーたちがこぞって出演するダンスコンテストとなっていました。

しかも、
この回から『CLUB OZON』が、
いわゆる住吉OZONからヘラルドOZONへと移転したことにより、
大箱での開催となりました!!

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▲DANCE EXPRESS 2000 フライヤー

この年に行われた決勝大会(予選は99年開催と思われます。)に進出したのが、

1.『ASTONISH
99年編で紹介したフィメイルHIPHOPチーム。
CHITOSE“, ”IZUMI“, ”NORI“, ”OKAN“, ”MAKOO“(現、『ARROGANT』)の5人。
 この時は“NORI”不参加。

2.『entrance
※三重を代表するHIPHOPチーム!
98年編99年編での活躍を経て、名古屋シーンでも存在感を示すチームとなっていました。
MO-TA“, ”RYO“, ”TAKAOMI“, ”COZY“の4人。

3.『PLAYS
98年編から紹介している名古屋代表のHIPHOPチーム。
TOMOKAZU“, ”YOSUKE“(現、『Hello Store』代表), ”KUMAZAKI“, ”MASAKI“(のちに『NIGHT RYDERS』), ”TAKAOMAN“, ”OJIRO“の6人。

4.『むくろ
※前述の『PUMPKIN HEADS』と『Isaac』(“NOBUTO”, ”KAPPA”(ともに、のちに『TEAM』))のユニットチーム!

5.『EDITS
95年編から紹介している”華の78年世代“筆頭チーム!
この時は、”WAKKAN“, ”LUPIN“, ”JUNBO“の3人で参戦!

6.『密林
※前述のDANCE DYNAMITEも本選出場したBBOYチーム!
 のちに詳しく記します。

7.『SKOOL
97年編で紹介した当時、豊橋を代表するHIPHOPチーム!
この時は、”YOSHIKI“, ”CHIKAC“, ”MOTO“の3人。

8.『ROSE HIPS
97年編から紹介した“SHIZUKA”, “HIJIRI”の2人組!
この頃には名古屋を代表するガールズHIPHOPチームでした。

9.『エキセントニック
※“テツ”率いるチームであり、 “TOSHI”や“AKIMITSU”(のちに『moNsta』)、
UNFORGETTABLE』の“ノリ”や“ウッチー”も所属していたチームです。
(『UNFORGETTABLE』は ”TATSUYA“(現、”ARROW“)も所属していたチームです。)

10.『EX-ARMY
※”K-TA“, ”HIROYUKI“(ともに『Beeper』), ”TANOKEN“(のちに『PUNCH』, 『DOW BOYZ』), ”KENTA“(『クリオネ』『LOVE KNOT』/のちに『PUNCH』), ”GEN“(のちに『PUNCH』), ”MAA“(のちに『ROCK WILDER』)のスペシャルユニット!
 “MAA”は“TANOKEN”と同郷(香川)の繋がりで特別参加したそうです!

11.『FOOT ILLUSION
98年編99年編でその活躍ぶりを記した “SENBA”, “YASU”のHOUSEチーム。
前回優勝チームとして決勝から参加!

でした。(順不同)
もう当時の名古屋オールスターみたいな感じですね!

そして、JUDGEも、
OHJI”(『JUNGLE』, 『HYDORA』),
BOBBY”(『J.S.B』, 『ZOO』, 『HYDORA』),
SHOJI“(『リズメディア』)
と超豪華でした。


ここで優勝したのが、
エキセントニック』だったそうです!


▲エキセントニック動画



名古屋の大御所たちを抑えての若手の優勝に、
当時は相当ざわめいたそうです!!
そんな『エキセントニック』は、
当時、1番東京系でいわゆる“新しい”SHOWだったそうです◎


そんなこんなで、
エキセントニック』が下克上を果たしたこの回の『DANCE EXPRESS』において、
他の様々なチームにも転換期が訪れます。


例えば、
豊橋の『SKOOL』は、
POP要素をふんだんに盛り込んだHIPHOPで、
この時に”特別賞“を受賞し、
さらにJUDGEの ”BOBBY“からも、
「『SKOOL』が1番良かった。」
とのコメントをもらい、
豊橋から名古屋に下克上をカマせたと相当テンションが上がったそうです。

そして、
さらに活動の幅を広げようとメンバーも増員し、チーム名も改めます。
それが、
Strictly Juice』です。
94年編より紹介してきた豊橋のボス ”SHUICHI“(現、『grand space Quark』代表)により命名されたとのことです。

メンバーは、”CHIKAC”, ”MOTO”, ”YOSHIKI”, ”KAITO”, ”SHO-TA”, ”NORI”(現、”NICCO”/『BIONICMAN』代表)でした。
のちに、“AKIO”も加入します。

豊橋を代表するHIPHOPチームが産まれるキッカケとなりました。
このチームは、後に記すビッグビートやブレイクビーツを好んで使うスタイルのチームとなっていきます。


そして、
entrance』も、
メンバーの“RYO“が、JUDGEの“SHOJI”にスカウトされ、翌日に即上京します!
当時、メジャーデビューをしていた『KRUD』(“SHOJI“プロデュース)のサポートダンサーなどで活動するようになります。


数ヶ月後には、
後を追うように“MO-TA”も上京をします。
そのために、『entrance』はこの年、一時解散をすることとなります。

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▲entrance解散イベントでの集合写真
(最前列:左から、TAKAOMI, MO-TA, RYO, COZY)

その後、
COZY”(現、『DELI DELI』代表)はNYへと旅立ち、
TAKAOMI”(現、『(株)エントランス』代表取締役)は、
KATSU”(『Beeper』)と活動を共にするようになり
名古屋での活動が増えた為に、“KATSU“が展開するアパレルショップ『BEAT AROUND』に半住み込み生活を始めるようになります。


さらに、
ROSE HIPS』も“SHOJI”に見出され、
東京のトップダンサーが集まるイベント『青山ナイト』に出演したり、
PNB NATION』オフィシャルダンサーモデル、『ダイエットコーク』、『メイベリンNY』のマスカラ『初代ウォータープルーフ』などのCMプロモーションに参加したりと、
名古屋にいながら、東京での仕事を増やすなど、
活動の幅を大きく拡げていきます。

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▲ROSE HIPS
(左から、SHIZUKA, HIJIRI)

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▲HIRO(『ZOO』/『EXILE』)とSHIZUKA
(東京での活動がとても多かったそうです。)

そんな、
次に繋がる影響力のあるイベントでした。


新勢力と新たな動き

そして、
影響の大きいダンスイベントと言えば、
JAPAN DANCE DELIGHT(以下、JDD)』
というのはこの時代も変わりませんでした。

2000年の『JDD vol.7』に中部地区から予選を通過したのが、
PUMPKIN HEADS』, 『密林
の2チームでした!

PUMPKIN HEADS』は2年連続のFINALISTですね!
さらに、
96年編より紹介している『来い!』でも、
99年の『来い!vol.5』で優勝を果たしており、
メンバー全員が所属する『激辛リベンジ』でも、
DANCE DYNAMITE』に1999年優勝、2000年準優勝を果たすなど、
コンテストに無類の強さを見せていました!


そして、
密林』も、99年の結成を皮切りに、
DANCE DYNAMITE』, 『DANCE EXPRESS
と立て続けに決勝進出を果たしており、
遂に『JDD』でもFINALISTになります。
名実ともに名古屋トップダンサーの仲間入りですね。

さらに、
この年『密林』のリーダー”SHOJIN“は、
個人でも活躍を見せます。

まずは、
98年編で紹介したダンステレビ番組『RAVE2001』において、
ソロダンサーとして全国大会に出場!
見事、“MVD”を受賞します。
(名古屋ダンサーとしては、98年の “NAOKI”(『Beeper』/現、“SEAMO”)以来の快挙でした。)

さらに、
プレイヤーとしてのみならず、その後のシーンに影響を与える新イベントを開催します。

それが、
名古屋武踏会』でした。
第一回目は『BRONX NIGHT』と抱き合わせで開催されました。

当時、
一世を風靡していた大阪のBBOYチーム『BRONX』が全国各地で開催していた『BRONX NIGHT』が、
名古屋では『CLUB OZON』で開催されました。

DEF』, 『COOL B-DO』(『花井伸二』, “YUKARI”(『BITTER BOX SISTERS』)らのユニット), 『3D CREW』, そして、『BRONX』と、
大阪のトップダンサーたちが、
一挙に名古屋で揃い踏みしたとんでもないイベントでした。

そして、
名古屋武踏会』はこのような豪華な”SHOW CASE“の側面だけでなく、
DANCE CONTEST“、”DANCE BATTLE“のコンテンツも積極的に行なっていきます。

ちなみに第一回目のコンテスト優勝チームは、
TIROL』でした!

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▲TIROL

TIROL』は、
95年編から紹介していた、元『カルビークッパ』の”KEI“と、
その妹の”SETSUKO“の姉妹チームであり、
当時、定評あるダンス力の高さで様々なコンテストで優勝、入賞をしていました。


その後も、『名古屋武踏会』は定期的に開催されますが、
特にバトルとしては、『名古屋武踏会』のみならず、
名古屋小武踏会』と称した、
BREAK“, ”POP“, ”LOCK“, ”FREESTYLE“など、ジャンル別バトルも開催します。

すべて合わせると合計50回をも超えるほど開催され、
当時のOLD SKOOLダンサーにとっては、
出逢いと修行の場として、
名古屋ダンスシーンに大きな影響を与えるイベントとなります。


伝説のパーティーpart.2


このように、
新しいイベントも盛り上がりますが、
名古屋クラブシーンでは、
97年編で紹介した”KATSU“オーガナイズの『Check It Out』が、
名古屋ダンスシーンの楔(くさび)としてしっかりと開催されていました。

さらに、
99年編で紹介した”SENBA“, ”MICHI“の初代『MOVE UP』コンビが主催した良質イベントがこの年も開催されます。

SENBA“主催の『MELTING POT』、
MICHI“主催の『FORCE&[ha:n]party part.2
どちらもシーン史に残るイベントとなります。

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▲MELTING POT 2000 フライヤー

MELTING POT』は、この年は”SENBA“&”MASAKI”(『C-HAIS』)のダブルオーガナイズとなっていますね。

そして、昨年に続き豪華CASTですね。

静岡レジェンドの『ALL DEGREE』も、
大阪&名古屋の大型チーム『RAJAH BROOKS』も、
金沢の『NATIVE SOURCE』も、
昨年に引き続き登場します!

もちろん、
ASTONISH』, 『C-HAIS』, 『TEASE.
と名古屋の看板チームも出演します!

HOUSEは、
FOOT ILLUSION』, 『UNIVERSE
そして、
DANCE DYNAMITE ’00』にもGUEST出演した“HIRO”(『DANCE FUSION』, のちに『ALMA』)がスペシャルユニットで登場します。

この時の『UNIVERSE』は、
MOVE UP』の“MICHI”, “JUNYA”、
そして『PINOCCHIO』の“KENJI“に、
JUNKO“(“NORICO“(現、『BT STUDIO』代表)の妹)も参加しています。


そして、
注目すべき新チームが、
DEGIL FIRE』です!

この頃、
東京では既に“BOBBY”(『ZOO』, 『J.S.B』, 『HYDORA』)がヨーロッパからBreakbeatsやBIG BEATを持ち込み、
その音楽での踊りをスタイルとして昇華させており、
98〜99年にはレジェンドチーム『DIGITAL JUNKEEZ』も結成され、
日本中で大ブレイクしていました。

名古屋でもそのスタイルをいち早く取り入れたのが、
KATSU”(『Beeper』)であり、
Beeper』の“KAZUNORI”,
entrance』の“TAKAOMI”と、
新チーム『DEGIL FIRE』を結成します!

のちに、
NYから帰国した“COZY”(『entrance』)や、 “YO!HEY!”も加入し、
名古屋のシーンで大きく活躍することとなります。


そして、
99年編でもその伝説ぶりを伝えた
[ha:n]party』も昨年同様夏に開催されます!

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▲FORCE&[ha:n]party pt.2 フライヤー


HIPHOP DJは、
二代目『P.D UNITS』の“DJ KENTA
PLAYS』の“KUMAZAKI
C-HAIS』の“TOMOKAZU
そして、
HOUSE DJは、
SENBA”と“JUNYA”の『MOVE UP』コンビ!
JUNYA”は、この年のDJは“JUNYA2000”として活動していたみたいですね◎
ミレニアムですね(^^)

そして、
MCは『Beeper』の”NAOKI“改め、”シーモネーター“ですね!
(マイクを握り始めた頃は、”mc n.t“という時代もあったそうです。)

DJもMCもダンサー関係者で揃えられる時代になってきたということですね。


そして、
DANCE CASTの、
ALL DEGREE』, 『DEGIL FIRE』, 『TEASE.』, 『C-HAIS』は、
MELTING POT』と一緒ですね!
大きなイベントには欠かせないメンツということですね!

さらに、
MOVE DOWN』とは、
MOVE UP』の“SENBA”, “AG”, “TAKAO”の3人のことであり、
この時はオールHIPHOPでSHOWします!
二代目『P.D UNITS』は、“TAKE”と“KOU”の2人で“DJ TOMOKAZU”のPLAYでかけられた “bird“の名曲に乗せて独創的なSHOWをかまします。

そして、
東京から『MASTER THERAPY』も登場します。
その中で、やはり目玉は昨年同様、
Feet Stylers』!!

昨年のメンバーに加え、
JUNKO“, ”NAO“(現、”NAO CHA CHA CHA“/『SO DEEP』)も参加しました!

改めて、
DANCE FUSION』:“SHAN’S“, ”HIRO“, ”NORICO“、
PINOCCHIO』:“PINO”, “KENJI
SO DEEP』:”NAO
Ain Salah』:”KAZUE
JIG』:“TAKE”, “TSUKASA
nappy headz』:“HISA”, “TOSHIYA
GLASS HOPPER』:“TATSUO”, “ITSUJI
ESSENCE OF LiFE』:“TONE”, “ウッチー
UNIVERSE』:“MICHI”, “JUNYA”, “YASU”(現、”DELAYAS“), ”ANN“, ”JUNKO
FOOT ILLUSION』:”SENBA“, ”YASU
(抜けている人がいたらすみません。)

昨年に続いての圧巻のSHOWだったそうです!
映像で見ても、最後のソロ回しが特にすごいです!

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▲FORCE&[ha:n]party pt.2 レポート
(大阪の雑誌『SO KOOL』にもレポートが掲載されるほどの盛り上がりだったそうです。)


2年連続で日本トップクラスのハウスダンサーたちが、
音楽とダンスをシェアする為に名古屋に集まるって本当に素敵な繋がりですね!

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▲超豪華な集合写真


そして、
もうひとつの目玉がイベント名にも組み込まれている『FORCE』です!!

もうお察しの方もいると思いますが、
FORCE』についても記していきたいと思います。


名古屋KIDSダンスの総本山の誕生


プロローグ編より紹介し続けている”KITOH”が、
98年編で紹介した『studio OSSU!』の中心から退き、
この年、自らのダンススタジオ、
FORCE DANCE STUDIO
を名古屋市天白区にオープンさせます!!

KITOH”は、
MICHI”, “SENBA”と96年編から紹介した『MAIN FLOOR』を主催しており、
昨年の『[ha:n]party』も“MICHI”をサポートするカタチで共催していました。

そこで、pt.2となる今年は『FORCE DANCE STUDIO』をオープンさせた年として、
イベント名にも『FORCE&[ha:n]party pt.2』と組み込んでいますね。


そして、インストラクター達と “KITOH“で、
FORCE』というユニットSHOWをします!
この時に“KITOH”が最後にMJスタイルで出てくるソロで会場は大盛り上がりします◎

そうした仲間たちに支えられ、
FORCE DANCE STUDIO
はどんどんと生徒を増やしていきます。
その中で、他のダンススタジオと圧倒的に違ったことが、
「KIDSダンサーが多い。」
ということでした。

当時はKIDSダンサーはまだまだ少なく、
91年編から紹介している“MIKI“(『ネイヴクイーン』, 『植物物語』, 『YO!YO!』)、
94年編の『OOCHIE COOCHIE』、
96年編の『二子山ブラザーズ』、
99年編の『S.P.CREW
など、子どもながらにカマすダンサーやチームも時折いましたが、
ダンススタジオ”単位で次々とクオリティの高いKIDSダンサーを輩出したのは、
FORCE DANCE STUDIO
が初めてと言って過言ではないと思います。

そんなFORCEの第一期生で出てきたのが、
なっちゃん”と“ももちゃん“で結成した『SUMMER PEACH』でした!

そこから、
幼稚園児、小学生低学年から『FORCE DANCE STUDIO』でダンスを学んで育ったダンサーが次々と輩出されます。

本当に例を出したら枚挙にいとまが無いほどですし、
今なお、優秀なKIDSダンサーを輩出し続けているのが、
FORCE DANCE STUDIO』であり、
誕生は、この2000年でした。


2000年に動いた様々な山

他にもこの2000年にスタートを切ったものがたくさんあります。

まずは、
98年編で紹介した『KOU family LIVE』を成功させた“KOU“(『P.D UNITS』/現、『studio CAVE』代表)は、
自身の”ストリートダンス最強説“をより強固にし、
HIPHOP“のまま”アート“の世界に殴りこみをかけようと、
KOU familyの中でも、さらに熱いメンバーを選抜し、
CAKRA DANCE COMPANY
を設立します!
当時、”KOU“は28歳。
脂が乗ってきた頃でしょうが、当時としてはベテランという見方が多かったかもしれません。

MOTSU“(『NASTY』), ”KAZ“(『カルビークッパ』/のちに『10GAME』), ”KANI“(『イカスタシー』), ”NON“(『イカスタシー』), ”GORO“, ”AI”, “KRACK”, “YUTAKA
が初期メンバーでした。

その後、『CAKRA(チャクラ)』は、
メンバー編成/増員も行いながら、愛知にとどまらず、
韓国/インドネシア/ノルウェーを始め、
数々の国際舞台に招聘され、多くのフェスティバルで様々な賞を受賞するなど、
世界的な舞踏団体として活躍します。

▲CAKRA DANCE COMPANY(推定:2006年時)


そして、
98年編で紹介した『TOP UP PRODUCTION』に、
93年編から紹介している“JUNJUN”(現、『(有)トップアッププロダクション』代表)が合流したのもこの年でした。
このことをキッカケに、
翌年以降、『pineapple studio』オープン、『SUPERBAD』始動など、
名古屋のシーンを大きく巻き込む動きが始まります。
これについてはまた次編詳しく記します。


また、
99 年編で、シンガーとしての活動にも触れた”K-TA“(『Beeper』/現、『Sun-X Dance&Vocal School』代表)は、
club OZON』&"KATSU“&“MASAKI“で仕掛けたプロジェクトにて、
シンガー“Ryu-B“としての活動を本格化させます。

そこで、
Ryu-B“のバックダンサーを務めたのが、
KATSU“(『Beeper』, 『DEGIL FIRE』)
TAKAOMI“(『entrance』,『DEGIL FIRE』),
MASAKI“(『C-HAIS』, のちに『NIGHT RYDERS』),
MIYA”(のちに”AKEEM“/『Beeper』, 『C-HAIS』), ”RYO“(『entrance』)
でした。
(“MIYA”と“RYO”はこの年のうちに上京。)

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▲Ryu-B&バックダンサーでTV出演時

このプロジェクトが後に年々大きな出来事へと発展していきますが、
これについても、また次編以降で記します。


東京でカマすレペゼン東海のカリスマ

さらに、
この年結成されたのが、前述の『Bush Babeez!!』でした。

B-LAND』解散後、
他のメンバーは名古屋に戻るも、
RYO-Z”はすぐに再上京します。

そして、
CLUB CITTA’』で開催される東京最大級のイベント『青山ナイト』へのオファーをきっかけに、
当時上京していた
MO-TA”, “RYO”(ともに『entrance』), “AKEEM”(『Beeper』, 『C-HAIS』)
とともに、
Bush Babeez!!』を結成します!

以来、
東京という国内の最前線シーンのトップチームとして、
15年以上カマし続けます。
特に拠点を置いた池袋は、“Bushの街”として牛耳るほどだったと聞きます。

メンバー編成も何度もありましたが、
これまでにこのヒストリーに登場してきた、
NOB“(『ALL DEGREE』, のちに『RAG POUND』):静岡県沼津市出身
K-TA”(『Beeper』, のちに『HB』/現、『Sun-X Danae & Vocal School』):名古屋市出身
O.B.A”(現、“DJ OBA”):愛知県新城市出身
YO-SKE“(『HEADZ』, のちに『DOW BOYZ』/現、『X-LAB』代表):名古屋市出身
など、
東海出身のメンバーが多かったこともあり、
東京のみならず、名古屋でもカリスマ的な人気を誇っていました。

他にも、
SHIGE“(『S+AKS』):静岡県沼津市出身
MASAYA”(『KAMIKAZE CROWN』):愛知県瀬戸市出身
KO-SKE“(『GUELLILA GORRILA』):東京都出身
KIN“(現、『(株)One play』所属):三重県出身

などなど、
やはりほとんどが東海出身メンバーであり、
さらには実力、人気ともにトップクラスのダンサーが『Bush Babeez!!』メンバーとして活動していました。


次世代のミレニアムスタート


そして、
次世代も次々と動き出します。

結成チームでいえば、
98年編で紹介した “UNBELIEVABLE”の“AYUMI”(現、“AYUMI JAPAN“)は、
この年に、自分のレッスン生であった ”TAE“(現、”タエコバドゥ“)、”MAYU“とともに、
ARROGANT』を結成します!
このチームも、名古屋クラブシーンに欠かせないチームとして活躍し、
のちに”MAYU”は抜けますが、
その後、”MAKOO“(『ASTONISH』, 『龍五娘』)や、”MARIKO”(『BLAID』)が加入し、
現在も活躍を続けています。

他にも、
ダンスの専門学校に進学した “AKO”(のちに『龍五娘』, 『A’s』)と“YAMA”の同級生コンビでこの年に結成されたのが、
enokeen』でした。
当時、名古屋には少なかった“オリジナルロッカーズ”スタイルのLOCKチームであり、
若手有望株として一気に注目を集めました。

また、この頃に、
NORICO”(『BT STUDIO』)のストリートレッスンで知り合い、
お互いのNYでのダンス留学後に意気投合したのが、“YOSHIN”と“タエ”であり、
ハウスチーム『TとYの方程式』が結成されます。(結成は翌年)

そして、
岐阜では、97年編で紹介した“UNO”が、
実の妹と姉妹チーム『UNO』を結成します。
当時、DJ&Rapper&Dancerからなるクルー『ヒートウェーブ』で、
名古屋の『CLUB JB’s』でレギュラーイベントなどを持っていた“UNO“は、
地元の『CLUB BLOCK』でもイベント主催するなど、
ダンスコミュニティを超えたクラブシーンで精力的に活動していました。

同じく岐阜にて、
99年編でも少し紹介した “MORIATSU”(現、“MORIARCH”/『BIOBLOOD』)も、
大学の同級生だった“KATOKEN“, ”RYO“と、
Natural High』という”HIPHOP“チームを結成します。
99年編で紹介したイベント『Natural High』にたまたま遊びに行き、
3色のイベントT-shirtを買っていたことからこの名前にしたそうです笑
繋がりますね〜

さらに、
同じ岐阜で芽吹いたのが、
海無組』でした。(命名は2001 年)
高校生ダンサーだった『フーギーズ』の“MARIKO”(現、“MARGALIC”/『CAKRA DANCE COMPANY』), “YORIKO”, “MIYO”, “MAYA”と、
フードファイター』の“MARIKO”, “SAORI”(のちに『SATSUKI』), “YUKA”(現、『arya free』代表)が、
合体したチームであり、
そのフレッシュなパワーで岐阜を中心に活動しつつ、
徐々に名古屋のコンテストでも結果を出すようになります。

そして、岐阜に近い江南市で、
昨年(99年)ダンススタジオ『dancing base Zenith』をオープンさせていたのが、
DOPE FRESH』の“TARO”であり、
場所は、91年編で紹介した江南ダンサーの練習場所のメッカ『江南文化会館』の上だったそうです!
ステキな繋がりですね。
今は岐阜にも開校しており、岐阜ダンスシーンに必要不可欠なスタジオとなっています。

そして、
この年に地元静岡から進学で名古屋に来たのが、
DJ MATSU“(現、『SOUL CITY TOKAI』主宰)でした。
静岡時代からDJをしていた為、名古屋に拠点を移してすぐに、
ノリ・ダ・ファンキーシビレサス“(現、『nobody knows+』)一派の仲間とDJ活動します。
そして、大学の先輩”GOTCH“の紹介で、
プロローグ編より登場している”SHUNJI”(『The Message』)と知り合い、
当時、"SHUNJI“が店長を務めていた『プールバー』でもDJをするようになります。

ちなみに、ここでバイトをしていたのが、
ユウジ“(『青空』), ”BBOY YASU“, ”BBOY GANE“(ともに、のちに『NEXT SCHOOL』), ”YUTTA“(のちに『The Message』)などであり、
のちに名古屋シーンを牽引する同世代が次々と繋がっていきます。


そんな中、
この年にダンスを始めた人ももちろんたくさんいます。

HOUSE界では、
高校を卒業した“KENTA”(のちに『N.O』, 『TRUST』/現、『PINOCCHIO』)が、
KENJI”(『PINOCCHIO』)のレッスン生として踊り始め、
レッスン生5人で『ワインリスト』というチームで活動を始めます。


また、
豊田でダンサーとして産声をあげたのが、
ヒロト“(現、”Hilototti“/『Hilotes』代表)でした。
彼はそれまでは金山駅のロータリーでギター片手にミスチルを歌っていた素人シンガー兼サッカー少年でしたが、
クラブで観た『青空』のSHOWに触発され、
一気にダンスの世界へと入り込みます。

そのまま高校時代は、
SUPERMAN(スペルマン)』というチームを組み、豊田で細々と活動していましたが、
これが、のちに全国を揺るがすダンサーが歩き始めた瞬間でした。


そして、
HIRO“(現、”SUGI-J“, ”MC ROKUDENASHI“, ”Toofiyman“)も、
自身の兄”SUGI“(『HEADZ』, 『EDITS』,のちに『PUNCH』, 『NIGHT RYDERS』/現、鉄板料理『らくだ』店長)のストリートレッスンによりダンスを始めており、
兄の繋がりで『C-HAIS』メンバーにもかわいがられながら、
ダンスの基礎を積み上げていました。

※こぼれ話
杉浦3兄弟として、“SUGI”, “Coko-1”(現、“CONiY”), “SUGI-J”がダンスシーンでは有名ですが、
実は1番上にダンスをしていない長男(現、『杉浦材木』社長)がおり、
本当は杉浦4兄弟です!


この”ヒロト“と”HIRO“(現、“SUGI-J“)は、
97年編から紹介している”AIKO”や、
99年編で紹介した”AYA“とともに、
のちに、
名古屋発のトップアーティスト
HOME MADE 家族』(96年結成、99年改名)
の専属バックダンサーとしても活動することとなります。

このように、
2000年という節目に、ありとあらゆることが動き始めていました。
もう、挙げ出したらキリがないですね。


1999年〜2000年のこの頃が、
名古屋NEW SKOOL第3世代が徐々に世に出だした頃と言えるでしょう。

あまりに膨大な量となってきましたが、
人それぞれに歴史があり、ドラマがありますね。
小さな点と点が繋がりながら、
気がつけば大きな線となっていたりするものです。

次回、2001年。
21世紀待った無しです。
さらに世代交代が進んでいくこととなります。

まとめ

20世紀最後の年として、次の21世紀に向けて様々なことが動き出したのみならず、
これまでの枝分かれだけではなく、新たな場所からの新勢力も次々と生まれだした時代だった。

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