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【ポンポコ製菓顛末記】                   #8 人間関係は“ま”ぬけがいい

 他人の価値観を認めない、“職場の困ったさん”は何処にでもいる。正論かざすのは良いが、ほどほど感が必要だ。“変わらない気質パターン”第2弾は「正義中毒」だ。

ユー アー クレージー!!

  
 昨今はSNSばやりで一億総正義中毒。皆さん、評論家と化して、まっとうなご意見をあちこちでのたまわっている。一つ一つを聞けば、御尤もなことが多いので、「はいはい、なるほどね」とただ聞いているうちはよいのだが、これに実行が伴ってくると話は別だ。
 
 特に仕事で意見を交わし、業務に移すとなると、カネも時間も費やすことになるので、「なるほどね」と見過ごすわけにはいかない。何事も自身の価値観を正論として、他人の意見、価値観を認めない人がいる。いちいち間違ってはいないので、他の見方もあると再考を促すのに途方もない労力を要する、所謂”職場の困ったさん“は、読者の職場にもいないだろうか?
 
 ポンポコ製菓では売上を上げるために、得意先別予算管理システムを営業部門に導入することとなった。経営企画部と営業部で協力してシステム設計を行い、私の部下のマネジャーがリーダーとなって開発を進めた。マネジャーは非常に頭の良い部下であったが、正論をかざして譲らないのがたまに傷であった。

 マネジャーは、全得意先に全商品を予算化して進捗管理するので、そのためのハード・ソフトを用意するというのだ。理屈は確かにそうなのだが、現実的には全得意先が全商品を扱うわけではない。得意先にも大手、通常と大小の差がある。商品も売れ筋、そうでない商品の差がある。それを全部一律に扱っては予算化対象の処理件数も処理容量も膨大なものになってしまう。

 常識的に全得意先全商品対象などというあり得ない条件はサッサと捨てて、主力得意先・主力商品とその他というような組み合わせの現実的な落としどころをそれこそ感性で見極めるものだ。まさしく、前回#7で述べた、ありえないオプション排除である。

 しかし、マネジャーは頑として譲らず、”正しいものは正しい!!"と主張してそのとおり開発してしまった。当時のITテクノロジーは現在ほど進んでいないので、案の定オーバーキャパとなってしまい、一昼夜稼働しても処理が終わらない、役立たずのシステムとなってしまった。結局、本稼働をみることもなくお蔵入りとなり、発想は良いのに無駄な投資となった。
 
 これは社内の無駄な仕事のほんの一例だが、これが講じて社外との取引となると、“しょうがないな”で、済まされなくなる(社内でも本来は許されないのだが)。
 
 ポンポコ製菓は自社商品でなく他社、それも海外商品も輸入して国内販売している。ある世界的に著名な商品を何十年も輸入販売して国内でも有名になっていた。

 ある時その商品の賞味期限を”2000年〇月“のところを輸入元が誤って”20000年〇月“と印刷してしまった。もちろん品質的には何ら問題なく、単なる賞味期限のミスプリントである。たかが数十円の商品の賞味期限を何万年も保証するわけはないので、誰が見ても単純ミスだというのは解るはずだ。

 対応に困った小売は当社に処置を預けた。常識的な対応としては、誤りを告知し、商品的に問題ないが、もし、それでは納得できないお客様がいらしたら個別対応するのが、落としどころであろう。

 ところが、お客様の反応を恐れた当社はあろうことか、販売済か否かを問わず、対象品は全品自主回収、手間ひまコストは全て当社もちという暴挙にでた。本社の会議室に特設受付センターを設け、対応を数日間、本社社員が朝から晩まで応じた。別会議室には回収された商品の段ボールが山積となった。回収商品は当然ながらすべて除却である。その対応コストは膨大なものとなった。

 間違っていると言えば間違っている、それは販売元の責任だと言えばそのとおりである。だからといって、全国の全商品全回収全処分というのはやりすぎであろう。ありえない選択だ。

さらに、これには続きがある。
 
 この対処を輸入元には相談せずに当社の独断で行った。独断ならば当社でそのコストを負担すればよいものの、なんと輸入元に後日事後報告し、損害賠償を当たり前のように要求したのだ。

 もちろんミスプリントしたことについては先方は誤った。しかし、全品回収したこと、そのコストを真面目に要求することについて当初は笑っていた。先方は初めジョークと思ったのだ。しかし、当社が本気だと解ると書類を投げ捨て、吐き捨てるように言った。

“ユー アー クレージー!!

交渉は何か月も揉めたが、先方には最終的に納得してもらった。
 

自分も他人も異なる正義、異なる正解を言っているだけ


 
 こういった何でも理想どおり、完璧主義の“職場の困ったさん”の根底には、他人の価値観を認めない、「自分は正しい、正義」、「他の意見は間違っている、悪」といった思考パターンから来ていると思う。そもそも正義、悪、などというものは神様でもない限り解らない。正しい、誤り、などいう判断も、それこそ万有引力のような原理原則の科学でもない限り下せない、のにである。
 
 科学と言えば、本当の識者、学者は科学では解ることよりも解らないことが多いことを解っている。凡人は解らないことが多いことを解らず、解らないことは重要でないと自負している。これは中世の教会の権力者の思考だ。

 この他人を認めない、自分、自分たちは何でも分かっているという、思考パターンは傲慢の温床となる。ともすると、“智”がある人が陥りやすいが、中世の教会の横暴を科学が気付かせてくれた。同時に科学で解明できないことの多さも気付かせてくれたのだ。だから、他人の意見を理解、寛容することを欧米では子ども教育の最重要としているらしい。欧米の議員は反対意見に対しても「君の意見に私は賛成できない。但し、君が反対意見を主張することを何としてでも私は守る」という逸話を聞いた。
 
 かように、自分も他人も異なる正義、異なる正解を言っているだけで、誰も悪とも誤りとも思っていないし、言えないのだ。自分がそう思うなら相手も同じだ。
 だから、私は意見がぶつかるときは相手に話している。「あなたの主張は解りました。だけど私の意見を“まちがっている”と言わないでください。“ま”を取って、“ちがっている”と思ってください」とお願いしている。
 
 世の中、解っていない、間違っているなと思うことが誰にもある反面、もっと優れている人もゴマンといる。要は下も多いが、上には上がいるのだ。
他人とのコミュニケーション、その先の人間関係をトゲトゲしくしないためにも、この姿勢を是非お薦めする。

 “ま”を取りましょう。

ポリコレ



 さて、他人を認めないという意識は傲慢の温床となるが、一方で、だからと言って他人を気にする、他人に迷惑かけなければ良い、我慢する、というのは卑屈の温床となる。次回はその話をご紹介しよう。



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