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母と戦争



母は昭和6年-1931年の生まれ。
第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争は、1941~1945年。
母が10才から14才、だいたい小学校高学年~女学校の2年ぐらいの時が戦時中だったわけだ。
そんな母から伝え聞いたごく特別でもなくたわいもない戦時中と戦後の話をちょっと書いてみようと思う・・・。

当時、母が住んでいたのは、長崎から少し離れた諫早という町。
それでも爆撃や機銃掃射は怖かった、という話は聞いている。畑で機銃掃射にあい、とても怖かったという体験や、夜に空襲警報が鳴ると防空壕に入らねばならなくて、でもひどく眠くて、このまま寝ていたいと思った、という話等々。
食料は少なくイモのツル等も食べたとか、とにかくお腹が空いていた、という話も聞かされた。それでも田舎で食べ物のとれる場所がまわりにあったり、母の父(私の祖父)が農林関係の役人で、猟師に弾薬等を都合してあげていた背景から、お礼に肉等をもらった話もあったので、かなり恵まれた環境だったのだと思う。
家庭によっては食べ物がなくて、学校でお弁当を隠して食べていた人がいた、なんて話も聞いたことがある。

さて、そんな母の女学校時代、ほぼ戦時中なので、あまりちゃんとした授業等は受けられなかったようだった。
敵性言語の英語の授業。6才上の母の姉(叔母)はかろうじて少し教わっていたらしいが、母の時代はもちろんなかった。
学問よりは、米兵が来たら突き刺す為の竹やりの練習やら、教育勅語の暗唱等(何度も私は聞かされた)、ほとんど学問らしい事をした話は聞いていないが、勉強嫌いの母にとっては、逆に好都合だったのかもしれない。
その代わりに農業や工場の手伝い等に駆り出されていたようで、肥料用の馬糞拾いをさせられ、道に落ちたてのホカホカの奴を持って行ったら怒られたとか、イモばかり食べていたので作業場に向かう道で、オナラがプスプス出た、なんて笑い話ばかり話していた。
工場では飛行機製作の手伝いもしていたらしい。母の記憶では"雷電"を製作してとか。
しかし、たとえ下働きとはいえ、機械音痴な母のような人が製作に関わった飛行機の機体は、出来が悪かったに違いなく、戦争末期、特攻する前に堕ちる機体が多かったという話も納得できる。

長崎にいたとなると、やはり原爆を連想せざるを得ない、
幸いな事に母の行っていた工場は空港のあった大村の方だったのか(はっきり覚えていない)無事だったし、母の家や親戚のほとんどが住んでいた諫早にはそれほど大きな被害はなかったようだ。
ご存知の方も多いと思うが、長崎は周りを山で囲われた盆地だったお蔭で、平地だった広島ほど爆発の影響が大きく広がらなかったそうだ。
だが6歳上の母の姉は、長崎市内の工場の手伝いに行っていたようで、直接原爆にはあわなかったものの、その影響があったという事で、その後、原爆手帳をもらっていたりもした。
原爆の落ちた日、祖父は誰かの車にちゃっかり乗せてもらい、命からがら家に戻って来て、大きな爆弾が落ちたと家族に話していたそうだ。祖父がその日、どこにいたかは聞いていない。逃げ帰ってきたという事は、爆発が見て取れる場所だったのだと思うが・・・祖父は原爆手帳等が整備される前に亡くなってしまっていたので、詳細はわからないままだ。

そして終戦。
その後、女学校を終えた母は、つてを頼って長崎医大の事務職に就職する。
その母が入った時、他の仲間と一緒に当時入院されていた上司の先生の所にご挨拶に行ったという。
その先生は永井隆教授。彼は放射線科の教授として、自身も被爆しながら、多くの患者を世話し続け、当時は体を悪くしており、長崎医大に入院していたという。
そんな先生の話は映画になり、朝ドラの主人公ともなった古関裕而 さん作曲の「長崎の鐘」という歌にもなって、歌の好きな母はよく家でその歌を歌っていた。
当時の母たちは「今度入った新人です」と紹介してもらい、その時に先生から本を頂いたそうだ。サイン入りのその本を私も見せてもらったけれど、今は残念ながら行方不明になってしまっている・・・いつか発掘できればいいのだけれど。
そんな風に長崎やその近隣では、被爆者やその犠牲者はは普通によくある事で、私はごく普通にそんな話を聞かされて育った。

戦後、そんな戦争の大きな傷が残る一方で、大きな港町でもある長崎にはたくさんのアメリカ兵らもやってきていたという。
竹槍で刺す事はさすがにしなくとも、当初はそんな異国の兵隊らをこわごわと人々は見守っていたらしい。
だが母の実家はそんな中、信じられない行動をとっていた。
日本の家庭が見たいと言ってきた米兵らを、うちの祖母は迎え入れたというのだ。
私にはほとんど祖母の記憶はないが、親戚たちの話だと、彼女は真面目で堅実なタイプだったという。なのに年若い娘が2人もいるというのに、そんな思い切った行動をとったのか不思議だ。
面倒見がいいのは間違いないようで、戦時中は実家の遠い軍人らを家に迎え入れ、食事等をさせたりもしていた。実はその中に我が父もいたのだが、その話はまた別でするとして・・・。
ともかくよほど断れない方からの紹介だったのか、母の家には2人の若いアメリカ兵が訪れる事になった。

二人の名前はダンバーとシスコ。一人はちょっと黒髪のいい男だった、と嬉しそうに母はよく思い出を語ってくれた。シスコはどうやらサンフランシスコの出身だったらしい。
かろうじて英語を習った事のある叔母が頑張って通訳をしていたのだろうが、まったく英語等話せない祖父は身振りを交えながら「パイプ、ツー」と伝え、米兵らにパイプではなくタバコをねだっていたそうだ。
もちろん母たちもお菓子等も土産にもらっていたようだ、当時はさぞ嬉しい事にちがいない。
どちらかわからないが、一人は叔母を気に入り、お嫁さんに欲しいと申し込んだらしいが、さすがに祖母は丁重にお断りしたらしい。ただの冗談だったかもしれないが、もしかしたら海外に親戚が出来るチャンスだっただけに、ちょっと残念な気もする。

そんな戦後の穏やかな付き合いが、ある日突然終わりとなった。
ある日、いきなりアメリカのMP(憲兵隊)のジープに乗って、その米兵の一人が予定もなく母の家にやってきた。
その時、叔母は不在だったようで、カタコトの日本語と英語で彼はなんとか母らに別れを告げにきたと伝えたという。
情勢がかわり、彼らは急に朝鮮半島に行かなくてはならなくなったと。
本当は時間がなかったのだけど、世話になった一家に別れを告げる為、MPに頼み込み、車に乗せてもらって来たのだ、と。
「エムピー、イソゲイソゲ!」指でスタコラ歩く真似を示しながら、母たちにすぐに戻らなければならない事を伝え、彼ら二人の写真2枚だけを残して去っていったそうだ。
くわしい年は聞いていないが、どうやら1946らしい。
これが私が母から聞いた、戦争にまつわる最後の話だ。
そしてその後二人からの連絡はない・・・

この下の写真は、その時に母が受け取ったもので今でも我が家にある。
裏に彼らからのメッセージが書いてあった
欠けてしまっているが日付がある ?-15-46 1946年の事のようだ

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ーいつもの蛇足ー
「Dance with Woves」という有名な映画がある。

第二次世界大戦とは何ら関係ない話だが、主人公の名がダンバー、愛馬の名前がシスコだった。
名前はたまたま偶然の一致だろうけれど、この映画を見るたび、私は会った事もない2人のアメリカ人の事を思い出す。
実は原作者は当初、カリフォルニアのロスに住み、私の大好きなViggo Mortensenの為に書いた作品だったとか、結局はケビン・コスナーが演じてアカデミー賞を受賞したが、Viggoは自ら旅行で長崎ではないが広島の原爆記念館にも足を運んだりもしてくれている人だ。何か不思議な縁も感じる。

カリフォルニアから極東の母の家を訪れた二人のアメリカ人が、その後、朝鮮戦争で亡くならず、その後の人生を元気に生きてくれた事をただ願うだけだ。


そのほかの
昭和な家族のものがたり
→ https://note.com/u_ni/m/mde58b7139724

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