見出し画像

一歩踏み出すときの魔法の言葉

2021年を迎えました。

軽井沢に移住してから1年近くが経とうとしています。その間、自分の中に、大きな変化がありました。

その変化とは何か。自分がいかに「消費者マインド」で生きてきたか、という気づき。そして徐々に湧いてきた「つくる」ことへの押さえきれない憧れ…。

この投稿は、移住に向けて動き出している人はもちろん、職場環境や仕事の肩書きなど、変化の渦中にある人に、どこか少しでも共鳴するものがあればと思い、書き残したものです。

1・なんでも外注、が人生を惰性にしていた

東京に住んでいた頃は、自分でも気づかぬうちに、「効率化」「生産性」の虜になっていました。

掃除、食事、洗濯(クリーニング)、挙げ句の果てには育児…。

すべてを外注し、自分の生活の一部をお金に換えることで、貴重な貴重な余暇(時間)を買う。情報を集めては、その効率化のうまさを競い合っているかのような生活が、東京での生活でした。

当時は、そこになんの疑問も持っていませんでした。

いや、疑問がないどころか、それが正しいやり方であると盲信していたのです。

どこか、自分たちだけはババを引かないように、上手に、綱渡りをしていたような感覚でした。

当時、シルバー人材というご高齢の方に室内掃除を外注していたのですが、その制度自体は全く否定すべきものではなく、高齢の方にお仕事の機会を提供して、子どもとも仲良くなってもらい、自分たちも(休日の家事から開放されて)楽できる。三方よしだと思っていたのです。

ただ、少し引いたところから見ると、それは、第3者のマッチングとお金を介在してこそ成り立つ、表層的なコミュニケーションでもありました。

ただ、繰り返すようですが、そこに疑問は抱かなかったし、そのシステムを否定するわけでもない。ただ、子育てや教育にもそれを当てはめていくと、なんだか窮屈な気がしてきたのです。

将来、損をしないために…効率化のために…と左脳だけで考えていくと、子どもの教育は低年齢化し、受験のための受験になり、「いかにシステムをハックするか」という発想に近づいてしまう

ワンクリックでウーバーが食事を運んでくれる、

それを当たり前のように子どもが喜ぶ、

「便利だ」という理由だけで、ギグワークエコノミーに無意識に加担している。見えないふりをしていていいのか。

その違和感から逃れたい、競争やマウンティングとはちがう文脈で子どもの成長を眺めたい。いま振り返ると、移住と入学を決めた背景にはそんなことがあったような気がします。

そして、移住した軽井沢で9ヶ月を過ごした最近。東京では味わうことができなかった、カルチャーショックを味わうことになりました。

2・軽井沢の人はなんでもつくるよね

「学校づくり」にかかわりたい、という自分の想いもあって、可能な範囲で学校の活動には顔を出していました。スタッフの方や保護者の方々と少しずつ知り合うようになります。すると、そこで感じるのが、

「なんでもつくるよね」

ということ。

たとえば、ウッドデッキやテーブル、本棚のような家具に代表されるDIY。パンやお菓子や食べ物。それをつくるためのお米や野菜などの食材。おもちゃや飾りや手芸などなど自然由来の造形物…。

学校が「つくる」を中心に置いていることと、無関係ではないと思うのですが、発想の中心が「買う」ではなく、まず「つくる」ことにある。

突然ですが、軽井沢のイメージってどんなものでしょうか?

観光地? 別荘地? 避暑地?

日本一の避暑地のイメージがつよいせいか、お金持ちの集まるエリア=消費欲の旺盛な場所、という偏見がありませんか?

もちろん、別荘文化を体現されるような方々との交流があるわけではないので、これはあくまで移住1年目の平均的な世帯の受けた印象なのですが、「ここの人たちは、消費ではなく、自分たちでどうにかしよう、ということを選択肢の最初にもっていて、それが生活を豊かにするコツのようなものではないか」と感じるのです。

どういうことでしょうか。

市場でお金を払って調達することは、簡単で便利なことです。お金を多く払えば、より性能の良いものが手に入るのでしょう。

ただ、一方で、お金で買わずに「つくる」ことで、自分が本当に欲しいものが手に入るかもしれません。それは、添加物の一切ない食べ物かもしれないし、我が子に世界でひとつの机かもしれない。その工程でわかることもたくさんある。それはおそらく、お金で買っていては得られなかったものでしょう。どこかの誰かがつくったものに、いい悪い、と寸評する評価者になるのではなく、積極的にみずからプレイヤーとなる。

そして、ここが一番大事な気がするのですが、つくるためには、自分の欲しいが顕在化していないといけないのです。

もちろん、ご本人たちは、単純におもしろいから、という理由でことにあたっているのかもしれませんが…。

ただ、お金が平均よりはある人たち(という言い方が適当かはさておき)が、消費よりもつくることを大切にしているのは、とても示唆的で、尚且つ、それが自分たちの東京での「効率化生活」とまるで真逆にあるようで、刺激を受けてしまったのです。

3・本をつくっているのか?商品をつくっているのか?

自分の本業である本づくりに引き付けて鑑みてみると、最近の自分の仕事が本当に「つくる」にフォーカスできていたのか、と自問せずにはいられません。

ノルマをこなすために? あるいはマーケティング的に売れるから? 

それらが本づくりの最上位にきているとしたら、危うい状態ではないだろうかと思うのです。なぜなら、そんな左脳偏重な本を大量生産してしまっては、世に言われる出版不況に加速させてしまうだけだからです。

本をつくる、という工程の最上流に

「欲しい」×「世の中にない」

の掛け算があってこそ、本はつくられるべきだし、限られた書店のスペースに並べられる意義があるのだと、(これはもちろん自戒を込めて)思います。

本が売れないからこそ、マーケティング優位になる状況、その判断は痛いほどよくわかります。ただ、個人としてどうやってその誘惑に争っていけるかと問うとき、「つくる」を人生のど真ん中に置く、という生き方にヒントがあるように思うのです。

4・「つくる」をもっと極めたい

さて、では個人にどんなアクションが起こせるのでしょうか。

これはもう、わかりきった自明のことを書くしかありません。

「やってみなければわからない」

昨年、住む場所を変えて、自分の身におきた心境の変化、これはまさにやってみなければわからなことばかりでした。動けば、悩みだと思っていたことは悩みでないとわかり、また別の問題が頭をもたげてきました。

なので、現時点では、こう結論づけることができます。

自分の人生に置いて、消費生活を脱し、「つくる」にググッと重心をかけた、そのさきにいったいなにが待っているのか?

それは、やってみなければ、わからない・・・・笑

まずチャレンジするのは、自分の編集スキルを拡張させる、ということ。

狭義の編集(本づくり)だけに特化せず、課題や社会・地域でのコンテンツづくりにかかわっていきたい。

そのために、拡張編集的な意味を込めつつちいさなレーベルをネーミングしました。

レーベルは、"軽井沢出版"。

たとえば、これまでかかわってきた「風の本棚」の活動なども、この一環でかかわっていきたいと思います。

本業があるので、実験的なものになるかもしれません。が、まずはやってみる。

ここまで引っ張ってしまってすみません。タイトルの真意は伝わったでしょうか。もし、やるか・やらないか、で迷っている方がいたら、同志として超スモールな一歩を踏み出してみませんか?

世の中のすべては、やってみなければわからない。

この記事は「投げ銭」記事です。サポートいただいたお金は、家庭菜園で野菜をつくる費用に投じていきます。畑を大きくして、みなさんに配れるようにするのが夢です。