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なぜ本はそんなに大事か

担当本が校了をむかえ、妻子が実家に帰省している時期、ということもあって、軽井沢町内の宿泊施設に泊まりにきました。

油やさん、というところです。

かつて堀辰雄が執筆活動をした中山道、追分宿のお宿。車で5分の距離ですが、周囲は宿場町の雰囲気をうっすら残していて、気分が変わります。

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そんな作家の痕跡を感じる場で、少し"本"について考えてみました。なぜ、デジタル隆盛の時代にあって、古典的なメディア、本をつくることに自分はこだわっているのか。「本は無くならない」と多く人は口を揃えていうけれどそれはなぜなか。その問いに対して、自分の中から言葉を探してみたいと思ったのです。

1・大いなる矛盾が渦巻く現代

その前に、ぐらっと感情を揺り動かされたニュースがあって。

今、コロナの感染拡大が大変なことになっています。オリンピックは強行されましたが、そのしわ寄せを受けているのは、学校の子どもたち。昨年のイベントや行事、旅行の自粛が立て続き、8月19日時点では、県を跨ぐ旅行・部活を控えよ、というお達しまで。ただ一方で行われているのは、パラリンピックの子どもたちを招待しての観覧です。それぞれを見れば、それぞれに理由があるのは想像がつきます。けれど、より高次な社会的な優先順位については、矛盾しているのは明確。

2度とない学校生活という時間を削られているかのような子どもたちの感情を想像し、悲しい気持ちになるとともに、大人たちのこれほど矛盾したメッセージを、子どもがどう受け止めてしまうのか、そのことが気にかかって仕方ありません。

学級委員長のようなマジメな文章が続いてしまいましたが、さらに実害があるのは、政治を批判して悦に入ってしまうこと。DISるだけ、対立を生むだけでは何も解決しないのはここ数年のSNSを見れば明らかです。でも、一体、自分(個人)に何ができるのだろうか。

2・東京のトレンドを離れての変化

自分ができるのは、本をつくること、編集に関わることくらいです。

その仕事の影響力の範囲で、政治や社会を変えることはできません。でも一方で、自分が何をめざして本づくりをするのか、については焦点を見定めることはできます。それは自分のなかに起こす変化だからです…。

僕は、一年半前に東京から軽井沢に引っ越しました。

そのことがおそらくきっかけになって、少しずつ東京での仕事が相対化されるようになりました。テレワークになり、普段、オフィスに行かなくなることで、会社の人とのかかわりが減り、これまでの仕事の雰囲気に交わることがなくなりました。そこで起きた変化は、これまでとは180度異なるものでした。

会社にいる間は、売れる本がつくりたい、本が売れることで読者に益がもたらされる、と本気で信じていました。そのために、毎日、売れている本の数字を分析し、市場の声に耳を澄ませて、売り方・PRの情報もわんさか収集していました。それは、部署のめざしている方向性とも合致していたと思いますが、少なくとも誰かにやらされているのではなく、自分ごととして消化した上で、取り組んでいたことでした。

軽井沢に移住し、テレワークに移行して、だんだんと、その気持ちが薄れていくのに気がつきました。もちろん担当した本が売れれば、うれしいし、新刊を売りたい、という気持ちは(わりと)つよくもっています。僕がつくるような実用書・新書というジャンルはやはり読まれないと価値がない(よりていねいに書くと、学術書のように小部数で読むべき人にしっかり読まれればそれで目的を達する本と違って、偶然の出会いや読まれることで読者の中に起きる変化を期待している類の本)と認識しているので、やはり、多くの人に届くのは価値であり、それは否定すべくもありません。

では、何が変わったのか。

それは、"時間軸"の感覚です。

3・「本が売れる」について考える

ここまで、売れる、売れる、と雑にこの言葉を使ってきましたが、もう少し解像度高く見ていく必要があると思っています。

たとえば、1年間に1000冊売れる本と、1ヶ月に1000冊売れる本。

どちらに価値があるでしょうか。

これまでの僕であれば、後者をめざしていたわけです。そして世の中の商業出版の会社も後者に価値を置くでしょう。でも、1年で1000冊売れるところを、1ヶ月で1000冊に売れるというように、時間軸を縮めてしまうと、一見良いことのように見えて、弊害もあるはずです。短期間で知られる必要があるし、1年後よりも直近ですぐにわかるフレーズが必要になるし、役に立つという効能をより打ち出す必要が出てきます。売り方としても、「いま」人気がある作家やインフルエンサーに依頼や紹介を頼る必要が出てくるでしょう。こうして、売れた著者に10社以上のオファーがたちまち届くようになり、書店の棚は同じ著者の似たテーマが並び、挙げ句の果てにはヘイトまがいの本も多数出版されることになります。

これはある意味では、致し方ない戦略でもあります。書店では、1日200冊が新刊として配本され、1週間で見切られる本、段ボールを開けられることもなく返品される本もあります。いわゆる「初速」としてわかりやすく売れていかないと、1年後どころか数ヶ月後に、読者の目に止まることもないのです。目的から逆算していくと、1ヶ月(短期間)に売上を集める、というのは実にわかりやすい。

…と、僕は以前はそう思っていました。

でもちょっと違うんじゃないか。

そう思うようになったきっかけとなるエピソードが二つ。

一つは、野草との出会いです。植物かよ、というツッコミはさておき、ここから一気にリタイヤ後の生活のようになってしまいますが、軽井沢に住み始めて、野草にグッと興味を持ち始めました。きっかけは購入した土地に絶滅危惧種が自生していたということからなのですが(この話はまた書きます)名前を覚え、散歩中に気づきが出てくると、その多様さ、奥深さにどんどん興味を惹かれてしまいます。妻からは、「また植物の話…?」と呆れられるくらい。

そんな人の心を掴む野草の生態ですが、タネを植えてから、花をつけるまでには、実に7〜8年もかかるものがあるそうなのです。買ってきて、すぐに鮮やかな花を咲かせる一年草は庭を彩るのにぴったりです。でも、それはなんだか華々しく売れて、すぐに消費されてしまうベストセラーのようにも思えてしまいます。10年前の本なのに、当時さほど話題になったわけでもないのに、いろんなところでちょこちょこと話題になり、気付けば数万部をじっくりと何年もかけて育っているロングセラー、それは山野草と重なるように思えてきたのです。

4・未来の読者への想像力

そして、もう一つ、先だって、とある出版社の創業者兼社長の方からこんな言葉を聞かされました。

「未来の読者に向けて作っている」

なんだか、直感的に、いいな、と思ったのです。未来に読むかもしれない読者に向けてまで作れる。それだけの射程と想像力を兼ね備えた本のあり方。

たしかに。そりゃ、ロングセラーになって、何年も何十年も読まれればいいし、そのために目先の売上を必死にとりに行ってるんじゃないの?

という心の声も聞こえてきます。

ただ一方で思うのは、本のつくり方、その取り組みとして、一年草と多年草は違うと思うのです。多年草をめざして、一年草は作れないというか。そこはどうしても相反するものではないか。

分断がいとも簡単に作られてしまう時代において、本の果たす役割は大きいなと思います。本のつよみは、なんといっても時間軸なのです。過去2000年の人の言葉を現代に生きながらにして味わうことができるのは、本だからこそです。それを情報として「〇〇がこんなことを言った、らしい」と受け取ることは、デジタルアーカイブがあれば今後100年、1000年、できるかもしれません。でも、読書とは、何百ページもの紙幅を使ってたった一つのテーマを読者とともに立ち上げさせる行為であり、作家と読者の共同作業。読者の数だけの、何かが残る。それを1000年単位の時間軸で交信できてしまうのです。想像力を持ち得た人類の、今も残る大きな発明の一つ、と言っても過言ではない、と思います。

であるならば、過去から受け取るのと同様に、未来に対しても想像力をはたらかせ、願いを投げていかないといけない、そんな気がしています。

じゃあ、そのために具体的にどう動くのか。

まずは多年草のような本づくりのために、土を耕し、タネを植えます。次にできるのは、どっしりと待つこと。熟成させること。肥料を上げすぎないこと。目の前のものに相対しながら、そこに未来を透かしてみること。そうなんです。これは、作り方やメソッドの話ではなく、向き合い方、自分の在り方の問題なのです。

それに気づいたことで、自分がつくる本がどう変わってくるのか、不安な気持ちとともに、少し楽しみな気持ちももっています。

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