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「健全な負債感」について考える

とある本を読んで、スッと腹に落ちる言葉があった。それは、「健全な負債感」という言葉。

『ゆっくり、いそげ』という本に出てきた言葉で、西国分寺のユニークなカフェ・クルミドコーヒーの店主・影山知明さんの著書の中でのことである。

元マッキンゼーにて資本主義のど真ん中で仕事をしてきた人が、その真逆をいくような、カフェを運営している。ミュージックセキュリティーズという(ちょっと懐かしい)クラウドファンディングの走りのような会社も手掛けられていて、お金や価値や経済についての洞察が深い方(本を読んだ印象)だ。(「カフェからはじめる人を手段化しない経済」、というサブタイトルがまたなんともそそられるじゃないですか…)

僕自身、日々感じるのが、移住をして、畑やりたい、農業やりたい、と妄想するたびにぶち当たる「お金にならないよね」という壁。グローバル経済よろしく、顔の見えない大量生産で同じものをつくり、コストを下げて、不特定多数に安売りする。あるいは、ITや金融など在庫を持たない、場所に縛られない「何か」で広く繋がっていく。「顔が見える」は気持ち良くて、受け取りやすいけど、お金にならないのだ…。そんな読者の思い込みを、ていねいにほぐしながら、新しい経済の可能性について提示してくれるのが、本書だった。

その中で、ひとつキーワードになるのが、「健全な負債感」

人は、「消費者的な人格」と共に、「受贈者的な人格」も持ち合わせていて、クルミドコーヒーでは意識的に、後者のスイッチを押してあげるようにするのだそうだ。

「ああ、いいものを受け取っちゃったな」

「何かお返ししなきゃな」

という気持ちになってもらって、「その人を次の贈り主にする」のだそうだ。

自分の消費活動を思い返しても、これは思い至るところが多い。

コンビニやマックのドライブスルーで、少しでもお釣りが出てくるのが遅いとイライラして、相手の顔さえみない。逆に、地元の八百屋が買い物のついでに「これまけとくよ、おひとつどうぞ」と手土産でもみたせてくれたならば、「あぁなんていい店だ、また行かなきゃ」という気持ちになる。なんなら、挨拶や笑顔を欠かさない濃密なコミュニケーションを心がける。

何が違うのか。

そこには、お金で回収されない感情、多く受け取ったのでお返しをしなきゃ、という感情が湧いている。

「交換を不等価にすることが、大事なのだ」と、本の中では言われている。

そこに至った経緯は、書籍を参照いただきたいのだが(とても納得感がある)、こうしてクルミドコーヒーは健全な負債感に頼ることで、経営をスタートさせているという。

お店をつくるときに、「贈る」「応援する」気持ちのこもったお金を受け取り、「ありがたい」という健全な負債感をエネルギー源としてお店を経営する、
見えにくい「大きなシステム」の中にお金を投じるのではなく、日々の生活に近い身近な循環の中でそれを生かすことができれば、それは豊さや安心感となってあなたのところに返ってくることだろう。

日本の多くが、チェーン店化、フランチャイズ化して、それを便利だけどどこかおもしろくない、何か違うんじゃないか、と感じている人にとって、「交換の原則を変える」というクルミドコーヒーの試み(とその反響)はとても勇気づけられるものではないだろうか。

軽井沢で、畑やりたい、書店やりたい、ブックイベントやりたい…などなど妄想しているけれど、どうせやるのであれば、絶対に損しない儲かる仕組みを死ぬほど考えるのではなくて、資本主義を乗り越えるような活動につながっていけばいいな、と、そう考えている。

そのために、本とは、ぴったりの商材ではないだろうか。人の想いを乗せるのに、これほど適したパッケージを僕は知らない。

地方や、小ロットの限界を、そのまま「やらない理由」にすり替えてしまうのではなく、顔が見えるからこそ、ひたすらギブする。そして相手を次の送り主にする。そのことで、金銭を介さない不等価なコミュニケーションが生まれるかもしれない。

先日、お知り合いに言われた言葉を思い出す。

「白菜はかならず受け取れ」

そこで遠慮して、お互いにいや〜なムードが漂うよりも、思いっきり感謝の言葉を伝えて、次の人へ、その感謝をつないでいこう。できるだけ、市場を介さずにつながっていこう。

そんな心地よさが、確信に変わる1冊でした。

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