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多重時間論(2) 時の不均等さと、未来から過去に流れる時間などについて(旧暦10月2日)

新暦10月29日 旧暦10月2日

「今年は例年より10日くらい遅い」

と、近所の人が話していましたが。29日のはずの今日がまだ19日にしかなっていないというわけでは当然ありません。

人間の暦は均等に流れるシステマティックな時間を生み出しましたが、自然の時間は常にまっすぐ均一というわけではないのです。

今とは、写真のモミジがこのような色をしている時です、と書くつもりで庭にあるモミジの写真を取っておくつもりが、忘れて日が暮れてしまいました。なので、日暮れの写真を撮りました。あとで書きますが、いつだって現在にしかいれないのです。モミジはというと、まだほとんど緑です。

新暦における去年の今頃はもっと赤みがかっていたと思いますから、近所の人がいう通り10日くらい遅いのでしょう。去年の今頃は雑木林が綺麗に紅葉していたのを覚えています。

カレンダーが均一な時間を刻む横で、梅が咲く時、梅雨入りの時、彼岸花が咲く時、初霜が降りる時、など、自然には自然の時間が流れているのです。

栗の花が散る頃になると梅雨に入ると言われるように、自然の営みは一つのカレンダーです。植物はもちろん、虫や動物、天気などが季節の移りを知らせてくれます。

官公庁や学校では6月1日から10月1日までを夏服というように、人間のカレンダーに則って決めていますが、暑さ寒さの移りをより正確に知っているのは生態系の皆さんです。

5月の中旬から例年より暑い年もあれば、6月の中旬まで寒い年もあるでしょう。人間のカレンダーがそれを指し示すことはできませんが、その時咲いている花や飛んでいる虫を見れば、そんなことは一目瞭然かもしれません。

だから、昨年は何月の何日に何々の種を蒔いてうまくいったけど、今年は同じ日に蒔いたのにうまくいかなかった、のようなことが起きるわけです。

人間の作った新暦や旧暦などと、自然のダイナミズムによって表されている時間感覚の両方に親しんで、相互に翻訳をかけると、複数の世界が同時に流れているのを感じられてきます。

時間の流れは過去→未来?それとも未来→過去?

これまで時間が流れている、という表現を使ってきましたが、時間というものはどっちに流れているのでしょうか。

過去から未来でしょうか。

未来から過去でしょうか。

現代人の多くは前者のように、過去から未来に流れていると考えているのかなと思います。

そんなの当たり前でしょう、だって時計の針は過去から未来に向かって動いているじゃないか、と聞こえて来そうです。

しかしそれは時計というものに慣れ切ってしまっているからそう思うのかもしれません。歴史とともに文明が進歩を遂げて来たことも、過去から未来へ進むという感覚を作り出しているように思います。

しかし、過去は「過ぎ去る」、未来は「未だ来ず」と書きますから、時間とは未来から現在に向かって来て、過去へと流れさるという見方もできます。

僕は時間をこのように捉えていますが、どちらの見方を採用しても良いと思いますし、時と場合によって適切な方を選べたら尚良いのではないかと考えています。

過去から未来に流れる時間は、急いでついていかないと置いてかれるような感じがありますから、技術革新の目覚ましい昨今では、人々を不安に駆り立てるような要素もあると思います。

しかし未来から過去に時間は流れると見た途端に、あなたはあなたの今いる所で焦らず確実に取り組んで行けば良いとわかります。今を生きていれば、確実に未来が訪れるのです。

一方で、時には尻に火をつけて、時間に追われるがままに、いや、追いこすように仕事や学業などに取り組まないといけないこともありますから、そんな時は時間の流れるベクトルを未来に向けて見ても良いかもしれません。そして時計の針の動きに管理されるがままに、気合いで乗り切ってしまうのです。

結局は未来も過去も全て現在でしかない

未来だ、過去だ、と語って来ましたが、僕たちは現在以外の時制にいることはできません。

未来は現在に向かっては来ますが、それが現在になった刹那、すぐさま過去として過ぎ去ってしまいます。

ちょっと先の未来は、あっという間にちょっと前の過去になります。

未来が来たって、たどり着いた途端に現在だし、過去が過去のものとわかるのも僕たちが現在にいるからに他なりません。

すなわち、過去も未来も現在のうちに内包されているわけです。

僕の時間感覚としては、過去は学びとして現在に活かされているもので、未来とは現在(と現在としての過去=学び)が作っていくものです。

向こう一年を勉強に明け暮れるか、スポーツに熱中するか、はたまた遊び呆けるかで、数年後の未来は全く別のものになりますから、未来というのは少なからず選び取れるものであるはずです。

過去は未来を映し出す

歴史から学ぶとはよく言いますが、過去の結果とは、それより前の過去が作り出した未来の姿です(100年前の取り組みが、90年前の結果を作ったという意味)。

すなわち、歴史は過去に起きた未来の姿であり、そこを紐解くことによって、今現在がどのような未来を切り拓いていけるかの物差しになるのです。

新品の洋服と古着が目の前にあった時、古着は過去を蓄積したものと見ることもできますが、新品の洋服が未来にどのような姿になるかを写したものと見ることもできます。

このように未来の姿は現在のいたるところにあるし、振り返って見ることだってできるのです。

忘れてはいけないのは、過去を顧みて、未来を展望できるのも、僕たちが今を生きているからこそです。

過去にとらわれてクヨクヨしても起きたことは覆せませんし、未来を心配しすぎても起きてみないとわかりません。

このように過去や未来にとらわれて、現在から離れてしまっては、過去と未来からも乖離してしまいます。

なぜなら、過去を活かせるのは現在においてだけですし、現在における行為が未来を作っていくからです。

こうして見てみると、時間というものは本当に多様な見方ができるものです。

複数の時間の存在を理解してそれを同時に生きることは、複数の世界を行き来できることだと思いますし、そうすることで局面ごとに自身にとって有利な世界から物事を捉えることができると僕は思っています。

時は金なりと言いますし、1日は誰にとっても24時間と平等です。

1日の長さはかえられませんが、その捉え方を変えることで、より有益に時間を使うことができると思います。

そうすれば相対的に1日が長くなったようなものですし、その長さが行くところまで行けば、僕たちはもはや不老不死にすらなれるのかもしれません。

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