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豚心臓がヒトに移植できるなら、ヒトはロボットと違いがあるのだろうか。

久しぶりに新聞(フィルターバブルから脱出できる良き媒体です。今となっては)をめくっていると、アメリカにて豚の心臓を人に移植することに成功したというニュースが飛び込んできました。飛び込んで来ざるを得ない見出しでした。

豚の臓器開発企業レヴァイヴィコアによって提供されたこの心臓は、遺伝子を改変することによって、人体内の免疫系で拒絶反応が起こらないようにされているとのこと。そして豚の心臓は人間のそれとサイズも近いのだそうです。

アメリカ一国だけでも心臓移植のウェイティングリストに10万7千人も行列ができており、しかも従来の心臓移植が不適合な患者にも遺伝子編集豚心臓であれば適応可能なのだそうです。すでに昨年10月には豚の腎臓を人に移植することにも成功しています。

互換パーツ工場としての臓器牧場

さて、僕はこの記事を見て、カズオイシグロの『わたしを離さないで』を思い出しました。ちょっとネタバレですが、、、

、、、この作品では、臓器提供を目的としたクローン人間が育成されています。

流石に、臓器提供人間牧場を現実に作ることは現代の(西洋)倫理では憚られますが(ブラックマーケットでの臓器売買はいくらでもあるでしょうが)、これが豚となれば話は変わります。__いや、変わるわけあるか!豚の心臓なんて気味が悪い!__と言う人もいるでしょう。しかし、最愛の人の命がそれで助かるのなら、多くの人が容認するんではないでしょうか。こういった際どいテクノロジーは反対の声を上げにくいところから広がっていくものである。

心臓には人工心臓という装置もあります。しかし人工心臓をつけても、最終的にはドナーからのリアルな心臓の移植を待つことになるようです。ドナーからの移植を待つと言うことは、別の誰かの脳死を望むということでもあります__もちろん、偶然脳死となった人がドナーとなる訳ですから、倫理的に許容されている故に手術が認められています__しかしドナー待ちのウェイティングリストにいる人たちが、どこかの誰かの死を望んでしまうことを避けられるとは限りません。

そんな訳ですから、豚の心臓が移植用にたくさんストックされることで救われる人たちの多いだろうことは想像にかたくありません。一方で、豚を不浄とみなすイスラム教徒は移植の対象にはなりたくないかもしれません。ヴィーガンの人たちも望まないでしょう。仮に食肉となっている豚の副産物であったとしても。いえ、食肉に否定的なら、臓器用畜産も否定的になるとは思いま。すると臓器移植ができる人に格差が生まれるのでしょうか。(ソイミートでの開発を急がねばならない?)

それにしても豚の心臓で人間としての機能が動作するというのは驚きですが、考えてみれば心臓なんてものは血液のポンプであり、そのための筋肉の塊に過ぎないということでしょう。

ロボット人間がサイボーグの夢を見ている

人間なぞ所詮アルゴリズムに過ぎないという考え方もあります。細胞によって組み立てられ、代謝によってエネルギーを作り、ホルモンによって制御して、栄養によってメンテナンスします。あなたの血液に、鉄(Fe)は足りていますか?人々の個性もそれぞれの遺伝子変異や、人生において経験された記憶の色合いによってもたらされるくらいのもので、そんなものもデータを解析すれば簡単にパターン化できるのだと言います。

その場合、深遠な魂など存在しません。心臓、ハートに心、ソウルがあるのだというのなら、豚の心臓が動いている人間は一体なんなのでしょう。そもそも他の人の心臓を入れたら、最終的に生きているのは提供者なのでしょうか、被提供者なのでしょうか。脳死を人の死とする論理は__

臓器の多くが外から移植可能で、血液も輸血できる、義足もあるし義手もある、コンタクトレンズを埋め込める、補聴器、脳内チップ、コンピュータだって外付けヒューマンみたいなもの__電話、メール、SNSは地球の反対側まで届く、宇宙までも届く拡声器__テレパシー__だから、人間というものはある程度交換可能な部品で組み立てられた機械とも言えなくもありません。

飲食をするのも、燃料を補充したりオイルを交換するのに準えられます。当然豚肉を食べることもできます。豚革のコートで皮膚を増強することもできます。

人々はサイボーグ(人と機械のハイブリッドとしての)の夢を見る前から、むしろ最初の最初からロボットと大差ないのかもしれません。車と同じ、パーツの集まり。最近は車もインターネットに接続されて、ある種の意識を得ています。

動物農場の主人は2本足で歩く

ジョージ・オーウェルの『動物農場』では、家畜たちが農場主の人間を追い出して、自ら農場を運営していく様子が描かれています。しかし最終的には動物の中でも最も賢い豚が、他の動物たちを管理し始めるのです。しかも二本足で立ち上がって。人間がしていたように。

我々人間は栽培作物や家畜を支配下に置いたと思っていますが、人間は自らのリソースを割いて、作物や家畜にとっての快適な環境を用意できるように尽力しています。世話をするわけです。まるで奴隷が主人のために働かされるように。だから家畜化されたのは人間であると考えることもできます。最も繁栄しているのは、小麦であり鶏だと。肥え太る主人たる彼らと、痩せこけるヒューマン農民。

そしてこの度、豚が世界の頂点に躍り出ようとしているのでしょうか。豚は人間の胃袋だけでなく、ハートも鷲掴みにしてしまいました。豚が霊長となるのです。

しかし霊長もやはり大変なところがあるのは、我々人間が通ってきた歴史を見ても明らかです。現在、各地で豚熱が流行しているようで、宮城県では7000頭の豚の殺処分が行われました。

豚には豚のワクチンがあります。子豚は特にワクチンの効果が薄いようなので、接種を強化していくのだそうです。

豚のパンデミックは日本だけに限りません。これは全世界同時多発的に起きているんです。


私たちに食べ物と臓器と(まるで救世主の肉のようではないか!)、もしやもすれば生きる意味をも与えてくれる主人が大変困っています。主人の体に似せるどころか、主人の体そのものを私たちの体とさせてもらっている、その主人が。

柵の中で生きている豚が、人間より優位な立場にあるとは思いたくないかもしれません。仮にアニマルウェルフェアの概念を十二分に満たした飼育法であったとしても、豚には人間のような自由がないではないかと。それでは人間ほど幸福ではありえないと。しかし、人間はアニマルウェルフェアの観点から、例えば猫が病気にならないように家の外に出さないようにし、去勢をし、キャットフードをあげて、それが猫にとっての幸せだと言っているわけです。__もちろん、無去勢で野外でフリーにさせているといくらでも繁殖するので、殺処分をしなくては立ち行かなくなり、それは猫にとって不幸であるから、室内に留めなくてはならないということでありましょうが
__とにかく、豚のように食べるのは憚られ、家族の一員として扱われることが__西洋的概念では__当然のこととなっている猫は外に自由に出ることはできず、それは豚とあまり変わりません。猫が幸せだといのなら、豚も幸せでないと、愛玩動物の概念が破綻してしまいます。

人間ロボットとロボット人間

さて、それでは人間はどうしていくのでしょうね。僕たちの生活の多くはすでにサイバースペースで行われており、その割合はこれからも減ることはないと思われます。メタバース世界で全てが完結する日も遠くないのかもしれません。リアル世界は豚の覇権ですから、人間は架空世界で架空の覇権を取れば良いのかもしれません。幸い、よく発達した、愚かな脳みそを持っているのが人間です。

しかし、意識がインターネット上に完全にアップロードされない限りは、体が残ります。生身の肉体が。その維持のために豚を必要とし、ワーカホリックに豚のお世話をするのでしょう。豚は栄養源であり臓器源でありますから、彼ら主人をサイボーグ化するわけには限界があります。サイボーグ化できるのは豚でなくて人間の方です。

豚の心臓で、寿命を伸ばすというのは、言わば能力の増強です。そのうち、老朽化したパーツの交換としての移植から、高性能パーツを装着してアップデートするような方向に向かうのかもしれません。体内にチップを埋め込んでいる人もいますから既に始まっています。

再びカズオ・イシグロですが、『クララとお日さま』では、能力を増強した人間よりロボットの方が人間味があったりするんです。ロボットはプログラムの程度によっては、不完全な間抜けキャラに仕立てることもできますからね(アルゴリズムを制するものが、世界を制する)。一方、増強された人間は、人間離れしていくのです。ロボットは人間にもなれるし、人間はロボットにもなれるのかもしれませんね。

そして、パーツがいくらでも代替可能なら、最初から人間が代替可能ってことなるんでしょうかね。モノ化していくと言いますか。すでにフォロワー数やいいね数などの数値で人間が評価されています。オンライン英会話教師は星の数で評価されます。Air bnbの評価の如く、人の働きが評価されます。これが信用経済なんだそうです。評価が良ければ信用できます。いいねや星の数が頼りです。良いレビューの商品をAmazonで買い、食べログで評判の良お店に足を運ぶように、人も判断されている時代です。要は人は信用ならないんです。レビューなしには。

ヒトはモノ化しました。モノの言うことは信用ならないので、周囲の評価が必要なのかもしれません。

最初から人間はロボット的なところがあるんだから、別にいいのかもしれません。事実、この恐るべき信用社会の中に人々は順応して生活しています。でもそれは、慣習に囚われ、既成事実を疑わず、それこそ機械的に、モノ的に生きている側面があるからだとも言えるでしょう。変化は疲れます。故に多くの人は変化を嫌うように見えます。結果、悪しき既得権益までも、一般市民たちが守ってしまっているように見受けられます。

結局、誰もが望むべきものがあるとすれば、より良き世界です。(なんと曖昧模糊な!)

社会に溢れる問題をに目をつむらず、変化を恐れず、解決の糸口を模索していく。その前提にさえ立っていれば、人間がロボットに置き換わろうが、体の大半が豚や他の動物の組織に入れ替わろうが、意識が体を離れてインターネットを駆け巡ろうが、大した問題ではないのかもしれません。そしてその前提があるところには、ある種の霊性といったものは残されているんじゃないかと思います。それが人のものであろうが、豚のものであろうが。

(人間なんて卒業してしまってサイボーグでも半身半獣になってみても?。そもそも論、仏とは人にあらず。宗教が目指したところは、人間を飛び出したところです。自然を超越したところ。不自然。自然発生的な欲に抗うところ。世界と交わる細胞間隙を霊性が漂っているのか、いないのか。)


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