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サイバネティックな形態へ

船が難破し、救命ボートもなくなった。絶対絶命。そんな時ピアノの上板が流れてくる。これに捕まっても十分浮力があるものなら、思いがけない救命具になるが、かといって救命具の最良のデザインがピアノの上板というわけではない。偶然手に入れた昨日の思いつきを与えられた問題に対する唯一の解決策だと信じ込んでいるという点で、私たちは実に多くのピアノの上板にしがみついているのだと思う。

バックミンスター・フラーの名著『 宇宙船地球号操縦マニュアル』はこう始まる。私たち人類はいまだ近視眼的な解決法しか発見しておらず、もっと広範で全体論的な問題解決をしなければならない。例えば海水の淡水化が費用が掛かりすぎるという理由だけで他の選択肢に目移りしてしまうのは熱帯地域居住の課題解決としてナンセンスだ。私たちは専門分化され過ぎていて、もっと多才な視点を持たないと真の意味で人類は進化しないのである。

大抵の場合、人は偉人の名言なるものを見つけたがるが、どうやら僕もその一員のようだ。特に気に入ったフレーズがある。「説得力のある不可能のほうが、説得力のない可能なものより価値がある」。すなわち、論理に基づいて明確に検証された未知なる物と、単純かつ平凡で見るからに作れそうな物とでは前者の方が多くの人を魅了するし、それは新国立競技場のコンペで多くの人が実感しただろう(作るのが簡単とは言ってない)。この文章は建築における自然な形態を考えることによって建築の価値が持つ本性を炙り出そうとする試みであると同時に、建築家に可能な美しさとは何かを考える実験的な文章でもある。

1. 自然を目指すということ

よく動物や植物の中に建築が備えるべき理想的形態があると言われるし、実際にそのように見受けられることも多いが、それは進化のプロセスを軽視した結果論に他ならならず、多くの場合それは異なる。もし生きている自然を利用するのが人類の目的ならその所有者を殺してしまえばいい。だが、鳥のような構造体を作ったから飛行機が存在するのではないし、魚を模して船ができたり、馬を模して車が発明された訳ではない。人間には人間の最適化されたデザインがあり、経済・構造・材料・形態・価値観を統合した新しいビオトープを作らねばならないことは明白だ。

確かにフラードームは殻、ミュンヘン五輪のスタジアムが蜘蛛の巣の類似に見える事はあるが、それは建築設計を進めていく中で最適化されたスタディモデルが実用段階に入った時に類似性が現れただけであり、それは結果的に似通ったに過ぎない。材料を節約することに尽力した結果に生まれた類似的形態がやはり構造として最高の出来栄えだったのである。スチールやケーブルネットは自然界には存在しないが、スケールフリーで同様の構造システムが自然界にも見られたのであり、それらが織りなす最高の形態が同じだったのはある意味当然なのである。つまり、「材料」は考えられ得る生化学的プロセスの枠内で与えられて自然界と人間界とで異なるが、その「形態」は最適化されるのである。材料の節約はエネルギーの節約と同じ意味を持ち、既に現代ではかつての材料やエネルギーの一部だけで同程度の機能と安全性を持った建物を建てられる。

自然を目指した結果ではなく、与えられた「材料」に対して最小のエネルギーで最大の成果を得ようとした結果に自然な形態が見出されるのであり、その逆ではない。建築設計はどこかの時点でスタディを終わりにしなければならない。隈研吾氏の言葉を借りれば、「思考の断絶」なるものをしなけらばならない。つまり、建築とは常に死んだ構造体であり、自然界が持つ動的平衡な構造体は存在しえないのである。自然界に与えられた生きている構造体を模してもそれは死んだ構造体にとっての最適解ではない事が多い。人間の技術は回り道を避けて時間を節約するという目的意識を持った計画をもとにして発達する。自然は一つの全体を持ち、自己調整機能を備えたシステムである。したがって人間の作る技術も一つの全体を形成するように自然と融合されるべきなのである。

2. 硬い構造システム(柱)

形の可能性は無限大である。作用する力については理解されているが、利用できる材料の数には限りがある。 そこで求められるのが、構造体の耐力を向上させるか、あるいは消費される材料を減らすことである。その場合、構造体の形態と質量との間の関係性、その力を伝達する性能についての知識が極めて重要な意味を持つことになる。形態、質量、力は切っても切れない関係にあり、全体としてのその構造体の性質を決定づけているのである。つまり、与えられた条件と用いられた材料に従って使用する材料の量を最小限にできた時、構造体は材料の種類に関わらず最適な形を持っていることが考えられる。

硬い構造システムは「圧縮力」を伝達することができる。それは硬い部材であることが必須であり、柱に関してはあまりに細すぎると自重にさえ耐えられなくなって崩壊するのみである。同じ石材を使うという前提があった時、後期ゴシック教会に見られる柱は物理学的な限界を迎えたと言えよう。それは技術の問題を越えた、最適化された形態を備えているのである。同時期にヨーロッパ諸国で多くの教会が作られた結果、ダーウィンの進化論と同様に多くの形態が自然淘汰されて他の建築種よりも早くその最適化された形態に辿り着いたことは興味深い。また、パルテノン神殿や法隆寺には共通のエンタシスが見られるが、これは当時の人が地域を飛び越えて同様の美学を持ち備えていたのではなく、柱の中間部が最も座屈しやすいがために導かれた構造的な最適解がエンタシスだったのであろう。材料に関わらず共通の構造的特徴だったために、共に最適化された形態が類似性を持ったのだ。ところで、樹木はいわば垂直に伸びるキャンチレバー(片持ち梁)だが、樹木に中間部の膨らみが見られないのは、それが生きた構造体だからであろう。樹木を模倣すれば建築が強固になる訳ではないし、枝の分岐を模倣すればエネルギーが適切に分散される訳ではない。樹木には樹木に求められる条件があるように建築にも建築の条件があり、さらにそれは死んだ宿命を抱えている。

3. 硬い構造システム(柱とスラブ)

梁の形は負荷荷重の大きさとスパンとの比率によって決まる。例えば陸屋根の場合には柱が針のようにスラブを突き抜けてしまう可能性があるため、スラブの力をしっかりと柱に伝えるためには、柱の上部を膨らませてスラブとの表面積を広げることが構造的に有効である。古代ギリシア建築のオーダーではいずれも柱上部の彫刻に目が行くが、そうやって目を惹くこれらの装飾も元来構造的に必要な部位である。余談だが、伊勢神宮にも装飾らしき鰹木や千木が見られるが、鰹木は大棟を抑える役割、千木は破風板が伸びた名残りだと言う。建築における装飾はそれ自体以上に、構造的にルーツがある場合が多いと感じる。

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装飾のように見えるものとして教会の天井や近代のRC建築に多く見られたリブがあるが、これも構造的な要素として重要な役割を果たす。リブは支持点を外に向かって伸ばし、スラブにかかる荷重を平面上で合成するためのガイドであり、それは葉脈のような美しい表情を見せる。 現代のような全面一様な厚さを持つスラブは大きな自重を保つので構造的には不利だが、リブは必要な力の流れを導いているので、スラブよりも材料を節約できるのである。

ところで地球をノンスケールで眺めた時、河川・水脈・道路・亀裂といった典型的な分岐パターンを見ることができる。構造的な視点だけで考えると、力を迂回させないで直接導く方が有利だが、一方で出来るだけ多くの力を束ねて集中した方が材料を節約できる。ここで分岐が建築にとって最適な理由が理解できる。樹木をそのまま模倣しても建築にとっては最適ではないが、建築スケールに合わせた分岐を利用することで、万物共通の構造システムに便乗することができる。

4. 柔らかい構造システム

柔らかい構造体とは例えば吊り橋、テント、エアードームといったものである。これらの構造体は複数の部分で構成されており、糸や皮膜のようにその形が簡単に変化する。負荷に対しては極めて高い耐力性能、剛性を発揮し、形態と負荷とか直接的な関連性を持つ。また、皮膜内部の力は点状ではなく線・面状に導かれ、応力が集中して尖頭状の部分ができるのを回避する。引張力だけが働く構造体は極端に質量が小さく、大スパンの構造には特に適している。大スパンのものに対しては曲げ剛性に対する負荷が変化すると自ら大きく変形し、一点に働く力を小さく抑えられるため、構造体に占める質量消費を減らすことができる。

吊り橋に関しては、どれだけ死荷重を抑えて十分な支持能力と安定性を得られるかが重要になってくる。ワイヤーの負荷容量はたわみが大きくなるほど増加し、たわみが小さくなるほど減少する。すなわち、平らに張るほど構造的消費(塔の高さ、ワイヤー長さ、自重)は小さくなるが、平らに張るためには相当な許容負荷を持ち備える新しいワイヤーの開発が不可欠になるというジレンマがある。吊り橋の形態はその条件の中で導かれた平衡状態が時代と共に顕在化していると言えそうだ。

再び装飾と構造の関係性の話になるが、日本や中国に多く見られる反り屋根の起源もまた自然な形態によって大成された物だと言える。よく言われる説明として、「天に大きなエネルギー源があり、それを中国では天に返すように反りが強く、日本ではエネルギーを大地に還元するような反りにして五穀豊穣を祈った」と言われたり、「天の神様がフーっと息を吹きかけるように陸屋根を大地に押し付けた結果の空気抵抗によって反り屋根が完成した」というように様々あるが、どうやらこういった神話的言説も構造的制約に起因していると言える。すなわち、線材(竹、木)を梁と梁の間に渡した時の材料のたわみが反りとして様式化したという歴史である。これも吊り橋と同様に部材の許容負荷はたわみによって関係付けられるので、その形態は吊り橋と類似性を持つことになり、その意味で丹下健三氏の設計した代々木体育館は日本の古建築に対するオマージュが十分過ぎる程に完成されている。

5. 形態の本質へ

硬い樹木は柔らかく成長する。内側は徐々に固化して外側は柔らかい儂(のう)のままである。そしてこれは生物界では典型的なようである。つまり、細胞分裂と膨張によって行われる細胞の成長も内部の柔らかい液体と外部の硬い皮膜との平衡状態によって成立し、自然界ではこの2種類の平衡状態こそがその形態を決定付けていると言える。樹木や細胞がどれも円型断面や球体をしている理由もここに起因し、それは意外にもコカ・コーラなどの炭酸飲料が入れられる容器にも同じことが言える。炭酸飲料が持つ高い内圧とそれを力学的に逃がそうとする安定的な形態がコカ・コーラの外観だからである。

建築の形態はコカ・コーラのように内圧と外部の殻によって決められる訳ではない。なぜなら多くの人が願う美しい形態は多くの制約によって実現を妨げられ、建築の形態にとって最も大きな影響を持つ要素は経済だからある。これはどれだけ建築家が持論をブチかまそうと無意味である。形態はもはや構造にではなく経済によって合理性を保つ時代に突入したのであり、かつてゴシック教会がそうしたように、その制約にとっての最適解を導かなければならず、その結果として現代には多くのミース型の建築が地表面を覆いつくしている。それは構造と経済、時には人の願望が1つになって大成された平衡状態にある。

ポリティカル・コレクトネスとして形成された一般的な考え方として、ただひたすらに都市そのものを否定するものがある。まるで都市など無ければ世界はもっと平和で地球とも調和できたはずだという見方だ。だが、都市が文明にもたらした好影響はどう考えても無視できるものではない。都市が経済、教育、発明、医療といった基本的な技術の向上と環境破壊、犯罪率、貧困率の減少に功を奏した歴史は揺らがないからだ。だが確かに都市が織りなす形態が完全に成功された状態ではなく、いまだに最適解を追い続けている設計段階にあることは間違いない。その都市が抱える人口が地方に分散するよりはマシだが、都市は環境問題に対する適切な形態を見つけ出せていない。私たちはもっと先の、まだ見ぬ都市形態を考える必要がある。

6. 全体の構築へ

サイバネテックスという学問がある。いわばそれは、物事は進んでいく中で情報収集をしながらフィードバックし続けるという理論である。簡単に言えば、全ては「通信と制御」の平衡状態であり、船乗りが北極星だけを見て進むのではなく、波の立ち方や周りの島々、太陽や風の向きといった情報を分析しながら少しずつ方向を変えながら目的地に向かっているという話だ。バックミンスター・フラーもこの学問に通じているが、この学問は建築/都市を考えていく上で避けては通れない。

現代は近視眼的な解決しかしておらず、都市に溢れる多くの建築はピアノの上板に他ならないように見えるし、実際にそのような形態をしている。その理由の1つとして建築が効率性を求め過ぎていることがあり、これはメタボに悩む人々にとっては大いに頷ける内容かもしれない。19世紀のイギリス人が考えた理論に「ジェボンズのパラドックス」というのがある。もしあなたがメタボに悩むのであれば、低カロリークッキーを食べればいい。だが、それが低カロリーという事実を知ってしまう事で、今まで以上のクッキーを食べ始め、気が付くと以前よりも体重が増えていたなんてこともある。つまり、効率性を上げることが全体として効率を下げることに繋がるという逆説的な理論である。まるで蒸気機関車のエネルギー効率を上げた結果に機関車の総数が増えて石炭消費量が増えてしまったように、現代都市も1つ1つの建築の効率性向上が都市全体の効率を下げているのである。これは「全体」や「サイバネテックス」を考える上では非常に重要である。なぜなら、個々の性能が全体の性能に結びついていない事実は現代の反映だからである。

これまで技術は人間と社会の戦い、そして自然に対する社会的な戦いに用いる武器であった。そうして人類は自然の中に生存し、自然を自らのために利用し、技術は日々着実にアップデートされてきた。時には非常に限定された領域で極めて高度の発達を見せるものがあり、人はピラミッドを作り、空を飛び、月を歩くこともできるが、いまだに人類全体としての問題を解決することができないでいる。

7. 美しさへ

建築は美しくあるべきと人は言うが、残念ながら美しいことと善良であることは一緒ではない。 建築は金持ちや貴族だけではなく貧しい人や経済的弱者、子供や高齢者にとっても善良なものであることが必要で、後者にとって善良であろうとすると、大抵は美しさを失った平凡な建築になる。本来の善良な建築とは、愛に根ざし、技術的なだけではなく官能的なものでもある。享楽や贅沢に対する願望が非常に大きな精神的かつ物質的貧困に向かい合っている現代。建築とは一体どんなものか、善良なものか、平和を意味するものか、愛を知っているものか。

半世紀前では、建築に与えられた全ての使命が満たされれば、美しさが自動的にやってくると考えられ、それは宗教のように世界中に広がっていた。度を越えた究極的な美しさが達成されることもあったが、善良な美しさは極めて稀であり、代わりに大量にやってきたのはむしろ醜さの方で、ゾッとするような街が発生した。そういった時代の建築が生まれた時には形、機能、時間、真実、空間に関する1つの哲学があり、それは後にモダニズムと呼ばれた。そして今分かることは、モダニズムは夢と距離を置いてきた事と、モダニズムではない別の建築種が存在することである。私たちは建築を自然に対する武器としてだけではなく、その美しさを持って可能になる心のユートピアのような癒しを求めていたのである。

山奥の錆びたトタン小屋の方が、自然に不慣れな都会人が持つ一軒家より自然である事がよく起こる。私たちがこれから考えなければならないのは人間の総合的な行為が最終的に自然そのものである建築の姿であり、都市の外観である。自然のように見える、自然を感じさせる雰囲気の建築は全て偽装パッケージであり、サイバネティックな意味で自然な建築などまだ存在しない。美しさを求めれば善良さが舞い降りる考えは既に無理だと分かった。ならば、サイバネティックな意味での美しさ、システム的に自然と人間と社会とが同時に1つの全体を構築する明日を考える他ないし、実際それ以外に道はない。今すぐピアノの上板を捨て去り、より広範で分野横断的で、より大きなビジョンを目指した時に初めてピアノの本当の美しさを知ることができ、おそらくそれは調和した音楽を奏で始めるだろう。

(参考文献)
・岩村和夫訳 フライオットー他、鹿島出版社、「自然な構造体」、1986年(初版)
・芦沢高志訳 バックミンスターフラー、筑摩書房、「宇宙船地球号 操縦マニュアル」、2014年(第十版)
・山形浩生訳 エドワードグレイザー、NTT出版、「都市は人類最高の発明である」、2015年(第三版)

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