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酒と泪と男の背後のアスワンツェツェ蠅

■こうして文章を書く生活を続けていると、長編小説を書ける人というのは本当にすごいなと思う。僕など、こんなたかだか1000文字少しの文章を書いているだけで文章中の主張の整合性が取れなくなったりするのに、それが例えば300ページの小説などということになれば、一体どんなことになってしまうだろうか。実際書いてみないとわからないこともたくさんあるだろうし、案外書けてしまったりもするかもしれない。これも少し、書いてみようかな。これは、では、毎日1行以上書いていくということにしよう。

 今はこの1000文字書いているものの他に、今度とある文学誌に寄稿することになったのでそれ用に書いているものもある。そっちは字数制限など特に設けておらず、まだどんなテーマで書くことになるのかさえ知らないので、今書いているこれよりも若干内容にパンチを効かせたものを、何かの引っかかりになればと思い毎日書いている。従ってそれらにこれから書き始めるであろう小説を合わせたら毎日3本の原稿を何かしら書いていることになる。

 なんだかんだで1ヶ月以上毎日欠かさずこの文章を書いており、もうすぐのべ10万文字行きそうなところであるが、やはり一番大変なのは何を書くべきか思いつかないときだ。「何を書くべきか思いつかない時は書くべきことが思いつかないということを書け」ということを、もうすでに何度か書いているような気がする。とにかく手さえ動いていればその日のオリジナリティはその日の無意識を通じて自然と出力されるという考え方だが、これは一理あるように思う。この文章には内容の縛りは設けてないので、今日は何となく日記じゃないスタイルにしようと思いこうして日記以外のものを書いているが、実際書いているとどうしてもその日その時どう感じているかということが文章に浮き出てきてしまう。そういう意味では、日記ではないものを、とか、逆に、やはりここは日記を、などということを考えるのはあまり意味がないのかもしれない。とにかく毎日書くと決めた以上、その文章が毎日性とでもいうものを帯びてくるのは当然であろう。

 僕が知りたいのは、文章を書くことによって自分自身に現れる変化だ。自分の中に何かうまくいっていないと思われることがある時、その問題を文章に転写して、文章を書くということから、その問題を突破していく。継続するということの目的は、泉の水量を減らす原因となっている岩を破壊するためにまず一回泉を枯渇させるというところにある。だからこそ僕は毎日のように湧き出てくる水をこうして文章に変換して外に吐き出しているのだ。

 全てにおいてそうだが、「できない」というときにこそ、やれる方法を見つけ出さなくてはならない。そのタイミングこそが進化の時だと僕は思っている。痛みや苦しみを避けながら目的を達成することによって、人は無理のない体の動かし方を身につける。やったことのない動きをしようとするときにはいつでも、苦痛は生じるものだ。毎日継続していれば特にそうだろう。その痛みが、逆説的に正しいやり方を教えてくれる。そうして自分の体と向き合うことで、人は徐々に強さと柔軟さを獲得していくのだと思う。

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