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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第5回〕
伊東静雄

■今も多くのファンに愛される詩人

日本語の独特な響きを華麗に駆使した作風で、今なお熱心なファンが多い詩人・伊東静雄は、明治39年12月10日に長崎県諫早市で生まれた。

佐賀高等学校(現、佐賀大学)を卒業したあと、京都帝国大学文学部国文科に進学した。在学中の昭和3年、懸賞に応募した映画脚本「美しき朋輩達」が1等を獲得して映画化されたため、そのまま脚本家を目指すかと思われた。だが、卒業後は教員になり、住吉中学校(現、住吉高等学校)に勤める。教師生活の傍らで執筆活動は続け、昭和7年に同人誌「呂」を創刊している。「呂」を離れてからは、別の同人誌「コギト」に専念した。

昭和10年、初めて刊行した詩集「わがひとに与ふる哀歌」が第2回文芸汎論賞を受賞。これを萩原朔太郎が「日本にまだ1人、詩人が残っていた」と激賞したことで、詩人・伊東静雄の名が世間に知れ渡ることとなった。

■空襲で多くを失う

伊東の先輩後輩には、多くの著名人がいる。文学部教授の朝永三十郎は旧制大村中学の先輩であり、昭和40年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の父親である。ほかには大村中学の先輩に文芸評論家の福田清人、同学年には近代文学専攻の国文学者で早稲田大学文学部教授となった川副国基、古典中国文学者で國學院大學文学部教授となった蒲池歓一がいる。小説家の庄野潤三と、平成20年にノーベル化学賞を受賞した下村脩は、住吉中学で教員をやっていた頃の教え子である。

文芸汎論賞を受賞した後、昭和15年には第二詩集「夏花」、18年には第三詩集「春のいそぎ」、22年には第四詩集「反響」を発表している。

このように紹介すると、伊東は詩人として順風満帆な人生を歩んだ印象を受けるが、戦時中には住み家と貴重な蔵書に加え、かけがえのない文学の友を空襲で失っている。

伊東静雄文学碑

■生涯、教員として生きる

昭和21年、伊東は北余部に粗末な家を見つけて移り住んだ。その頃、友人にあてた手紙にこのように書いている。

「私はこのごろ田舎に一軒家を見つけて移り住み、安楽な気持ちで1年ぶりに自由な生活ができて、喜んでいるところです」

北余部の地には牧歌的な風景が広がっており、伊東はそこに故郷である諫早の面影を見ていたのかもしれない。第四詩集「反響」は、このような環境の中で生まれたといわれる。

「反響」を出版した翌年の昭和23年、学制改革に伴い、大阪府立阿倍野高等学校に転勤。その翌年、肺結核を発病してしまう。これが伊東の命を縮めることになる。国立大阪病院長野分院に入院して闘病生活を送っていたが、昭和28年3月12日、大喀血による衰弱の末にわずか46年の生涯を閉じた。

現在、伊東の命日に近い3月末の日曜日は「菜の花忌」とされた。

諫早市の伊東静雄顕彰委員会が設立した伊東静雄賞には、毎年1000編を超える応募があるという。

●伊東静雄文学碑:アクセス/阪堺電気軌道上町線「東天下茶屋」駅下車徒歩4分。阿倍野区松虫通二丁目、松虫ポケットパーク内

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