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【映画レビュー】「君たちはどう生きるか」

いやまぁしかし、毎日暑くって死にそう。こんなに暑い中でも人間は生きていけるのか!生きていかなければならないと言うのか!そう俺は問いたい!てな訳で無事にソフトも発売したので、そろそろ宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の話をしたい。もちろんネタバレ全開で。

〜あらすじ〜

病院の火事により母親を亡くした主人公の眞人。
疎開先で父の再婚相手であり、母親の実の妹でもある夏子に迎えられ、怪しい塔が隣に立つ新居へと移り住む。だがそこに人間の言葉を話す謎の青サギが現れ、眞人は異世界へと誘われていく…。

今作のプロット自体は実にシンプル且つ、古典的なものである。現状に馴染めない少年少女が、異世界へ行き、少しの学びや成長を経て現実に戻ってくる。この物語の構造自体に目新しさは全くなく、「オズの魔法使い」や「不思議の国のアリス」、「ナルニア国物語」などの古典にみられる構造とほぼ同じだ。
この物語構造には本来であれば、異世界の設定や、異世界と現実世界が如何に対応しているのか等の具体的整合性、更には大衆が楽しめる明快なストーリーラインなどを加えなければ、大衆向けの商業的な"表現"としては成立し辛いジャンルでもある。
しかし、本作にはそのような異世界と現実との具体的整合性、大衆的な明快さ、もっと言えば"分かりやすさ"というものは些か欠けているように感じられる。詳細は後述するが、そのような"説明的な大衆性"はそこまで加える必要が無かったとも言える。それでも本作に魅せられる観客が多くいるのは、日本人なら誰もが知る宮崎駿監督その人にとって、非常にパーソナルな映画であるからだろう。

これは本作が公開された後に、「プロフェッショナル/仕事の流儀」の中で明らかにされた事だが、本作の登場キャラクターには明確なモデルが存在する。主人公・眞人は宮崎駿。青サギは鈴木敏夫。そして物語の鍵となる大叔父は高畑勲だ。
本作が自己言及的な映画である事は中盤のとあるカットからも推察する事ができる。異世界へと降りていく眞人の足を眞人自身の目線からとらえ、その足が向かう先には海辺が広がっているというショット。このショットは映画史にその名を刻むフェデリコ・フェリーニ監督の自己言及的映画の傑作「8 1/2」のオープニングの夢のシーンにそっくりである為だ。このように「本作は自己言及的な映画ですよ」という仄めかしはオマージュという形で一応はされている。

グリーフワークやモーニングワークという言葉があるが、この映画は宮崎駿にとってそのような作用を果たすものなのだろう。
グリーフワークには人の数だけその形がある。宮崎駿が愛憎入り混じる複雑な感情を抱き続けた亡き高畑勲への個人的な感情を「映画」という形に昇華(消化とも言えるが)させ、その製作過程全体を喪に服す過程とした。
そんなパーソナルな映画である本作には、大衆が必要とする細かい説明や整合性、前述した"説明的な大衆性"を用意する必要も無ければ、商業性も必要ない。そう考えれば、今作が公開にあたってポスター1枚のみを発表し、以後予告もCMも一切なしという、この規模の大作にしては異例のプロモーションを行った事にも納得がいく。

商業性という言葉はこの映画の中では「悪意」という言葉に置き換えられていると考える。そして、それとは別にインコ大王も"商業主義の化身"であり、その配下にあるインコ達は我々大衆であるように感じられる。
眞人が夢の中で大叔父と会話するシーンでは、積み木を見せた大叔父に対して眞人が「それは木ではありません。墓と同じ石です。悪意があります。」と返す。この悪意を帯びた石というのが商業映画であり、それを大叔父は崩壊寸前のバランスで積み上げてきたのだ。崩壊寸前のバランスというのは、高畑がたとえ公開が危ぶまれようとも映画の質を落とす事を許さなかった事の表現なのだろう。本作において石は映画であり、それを積み重ねたもの=その人のフィルモグラフィーなのだ。

対して、宮崎駿の分身である眞人は最終盤で、大叔父から13個の悪意に染まっていない石を差し出され、「3日に1つ積みなさい」と言われる。しかし眞人は自分の傷を指して、「僕の悪意の印です。その石には触れません。」と言って断ってしまう。これは宮崎自身が何が何でも締め切りに間に合わせて映画を完成させ、公開に間に合わせる、つまりは自分が商業主義に傾いてしまう人間だという自覚が少なからずあったという事だろう。だが、これでは13個の積み木の塔=宮崎駿の13本の監督映画作品が完成しない事になる。

ここで"商業主義の化身"ことインコ大王の登場である。彼は大叔父が自分の帝国の運命を積み木に委ねている事に憤慨し、眞人の13個の石の積み木で塔を建ててしまう。一瞬はバランスを保つ塔だが、やはり見事に積みあがるはずもなく世界は崩壊を始めてしまうのだ。これはジブリと、配給会社を含む様々な関係会社、そして我々大衆の関係性だと読み解ける。宮崎駿の新作を待ちわびる大衆や、映画を届ける配給会社や関係会社によって突き動かされ、ここまで映画を作ってきたけれども、結局のところ完全に後進の育成には失敗し、宮崎駿が年老いた今、この先崩壊していく未来しか残されていないスタジオジブリ=異世界なのだ。

本作は宮崎駿の自己言及的な映画であると上述し、ここまで長々と書いてきたが、正直に言うと自分はあまりジブリ映画に慣れ親しんでいない。子供の頃に観たのは「トトロ」、「千と千尋」、「ポニョ」ぐらいなもので、大人になってからは「もののけ姫」と「風立ちぬ」を鑑賞したのみである。そんな宮崎駿弱者の自分でも今作に夢中になれたのは、シュルレアリスム的な演出や不気味で奇怪なホラー的演出に見事なまでの巧みさがあった為だ。
眠っている眞人が水中から浮き上がってきてそのままベッドに横たわる演出や、青サギと眞人が初めて対話をする池のシーンでの大量の魚とカエルに「おいでくだされ」と異世界に誘われるホラー演出。その後、塔に入ってからのシーンでは、ソファに横たわる亡き母に触れるとダリの絵のようにゆっくりと溶け出す恐怖描写。眞人とキリコとアオサギの会話からカットが変わると、環境音すら消え、静寂の中を一本のバラが落ちてきて陶器のように砕け散る描写。この演出はシュルレアリスム的であるだけでなく、空間演出としても素晴らしい。主人公達の上に何かが居ると観客の注意を向けさせる、さりげないが見事な演出である。
それだけでなく得も言えぬ映画的なドラマの魅力も発揮されており、終盤、時の回廊にて後に眞人の母親となるヒミが眞人に向かって「お前っていい子だなぁ!」と言うシーンには号泣させられてしまった。
シンプルな構造ながらも、このような魅力的なシーンや演出があり、自己言及的な映画の面白さだけにとどまらない巨匠の映画の手腕が遺憾無く発揮された秀作と本作は評価できるのではないか。ここまで魅してくれたのだから、正直「もう一本!」と言いたいところである。