はじめての中国 東北三省・「内モンゴル」からモンゴル国へ抜けるまで 中国(人)にあって日本(人)にないもの
2019年5月某日からちょうど3ヶ月間、海外をまわっていました。
行程は
中華人民共和国→モンゴル→ロシア→ポーランド→チェコ→スロバキア→ハンガリー→オーストリア→イタリア→ギリシャ→トルコ
旅に出た理由はひとことで言うと、現地に赴き自分の身体感覚を通して本に書いていないことを学びたいと思ったため。
詳しくは↓
この記事では、1ヵ国目の中華人民共和国からモンゴル国に抜けるまでを描きます。
ルートは、ハルビン→長春→瀋陽→旅順・大連→山海関→北京→フフホト→エレンホト→中モ国境越え
「中共」は中国共産党政府の略です。
1.心のバンジージャンプ 出発
海外放浪の出発日、2019年5月某日。
便は昼12時台出発の関西国際空港→天津空港で乗り継ぎ→ハルビン空港。
余裕をもって朝早く起床。荷物を再三確認し、名古屋の自宅を出る。
朝は思ったより気持ちが落ち着いていたが関空に到着し、いざ中国語の飛び交う搭乗ゲートに並ぶと緊張しだす。
空港スタッフから中国人に間違われながらいよいよ搭乗。
乗務員、乗客見える範囲ではすべてチャイニーズ。
アウェー感とともに高まる緊張。当たり前だがもう戻れない。
離陸した時はバンジージャンプを飛んだ感覚だった。
2.天津空港で受けた中共の洗礼と日本ではまず見ない光景
機内の空気にも慣れ、緊張も和らいできたところで
天津空港到着、乗り継ぎ。
入国カードを書かねばならないのは知っていたが、ハルビン空港で提出すると思っていた自分は書かずにイミグレに突入。
英語で何か言われるが、ガラス越しで聴きとりづらい。
『I don't understand』と言うと露骨に面倒そうな顔をされる。
細かくは覚えていないが、いくつかの質問に答えた後両手指10本の指紋をがっつり取られる。
入国後何度も抱くことになる思い
「これが中共か…」
の最初でした。
天津空港を発ち、ハルビンまで再び空の旅。
北京語で乗務員に声をかけられるもわからないため、英語で訊き返すと周りの乗客がこちらに振り向く。
珍しいのだろうか。
ともあれ20時頃ハルビン空港に到着。
到着のタイミングでなぜか機内にこの曲↓が流れる。
北の都だけあって5月でも結構寒い。
シャトルバスに乗り込み、ターミナルへ移動。しかし何か準備が出来ていないのか、運転手がシャトルバスの扉を開けない。
一部の客がイラつき始める。
運転席と乗客スペースの間の仕切りをドンドンたたいて怒鳴るおっさんが2人。
2人は連れ同士ではない。
冷静なようすで怒鳴り返す運転手。
日本ではまず見ない光景。「デカイ声」はこの国では必修。
10分ほど待った後扉が開き、他の乗客に混ざりターミナルへ。
ここではまだ気付かなかったが、彼らのように自分の意思を押し通そうとしなければ、この地では生きていけないと後々知ることになる。
3.近くて遠い宿への道
関空で預けた自分のバックパックがいつまで経ってもベルトコンベアで流れて来ない。
(いきなりロスバゲか?)
通りすがった女性職員にきいてみる。
英語がほぼ通じない。
容赦のない北京語返し。
彼女の身ぶりから「保管部屋にある」ことがわかり取りに行く。
闇夜に浮かぶ美しいハルビン空港。
ただ空港とそれにつづく道路を除けば、周りはお化け出るんじゃないかってレベルのど田舎。
宿は初日の分だけは日本で予約して決まっているので行き方を調べるだけ。
中共国内は大規模検閲システムGreat Firewallのせいでグーグルマップが使えませんが
オフラインでも使える地図アプリMAPS.MEで自分がまわる予定の区域はあらかじめダウンロード済。
しかし地図上には存在する宿へつづく道が、現実世界で見当たらない。
空港のまわりを一周するも全くわからず。
空港とそれに続く道路以外は、漆黒の闇につつまれているため道を間違えるわけにはいかない。
時間も21時30分を過ぎてるので早くチェックインしたい。
ターミナルの出入口に立ってるセキュリティの兄ちゃんに訊いてみるも英語が通じないし宿への行き方もわからないそう。
建物の外にいた(カワイイ)女性職員に尋ねてみた。
やっぱり英語が通じない。
しかしその場にいた同僚の男性が、英語ができると思しき女性に電話でつないでくれる。
電話口での説明に四苦八苦していたところに、その女性が降りてきた。
愛嬌がある容姿の、丸眼鏡をかけた賢そうな女性。
お互い英語が堪能な訳ではないので、テキストスタイルの翻訳ソフトを使いながらやり取り。
日本語表示を駆使し、なんとかしてくれようとしている姿に感謝の念を抱くと同時に、この国に来て初めて気分が弛緩し笑顔がこぼれた。
ピカチュウの話もした気がするがよく覚えていない。
彼女の計らいで、空港からいくつかの宿に送迎をしているシャトルバスに乗せてもらうことに。
彼女にチップを渡そうとしたが、「運転手にだけ払ってくれれば良い」と。
最初に声をかけたカワイイ女性が記憶の彼方にとぶ程素敵な女性でした。
またまた英語のまったく通じない運転手のシャトルバスに揺られる。
自分の宿の場所は真っ暗でまったくわからない。
ただ地元の人間でなければ絶対にたどり着くことの出来ない場所にあることはわかった。
3つ目?くらいの宿で運転手に降ろされる。
チェックイン。
「生き残った。」
それが宿に入った時の率直な感想です。
↑ようわからん内装の個室
レバーに触れていないにもかかわらず温度が変わるシャワーの正しい浴び方は、僕の知能指数ではわかりませんでした。
個室による異常な安心感から回復を始める心のHP。
覚悟はしてましたが初日はやっぱりタフだった。
翌朝7時30分頃起床。
一応朝食つきで予約したのだが
人の姿がまったくない。
フロントまで行っても食堂らしき所に行っても誰もいない。
客室の扉も大部分が開いている。
ミステリーホラーゲームの中に入ったような気分。
朝9時に(ハルビン)空港行のシャトルバスが迎えに来ると昨晩聞いており、まだ時間があるため宿の外を散策。
↑ビニールハウスの墓場
↑左:ゴミの山 右:がれきの山
↑道教。
外にも人の姿なかったです。
宿に戻ってノンビリ。
9時になり送迎バスに乗って空港へ。
中国初の食事は空港内のバーガーキング。
味はとくに変わりなし。
ちな日本で最後に食べたのはファミチキでした。(おジャンク)
4.空港の武装警察と、バス内で感じる「中国」
昨夜とは違い、空港に入った所で自動小銃を携帯した武装警察 複数名が目を光らせる。
ぱしゃぱしゃカメラ撮影でもしようものなら、即座に拘束されるだろう。
↑待機する武警の車両
中国では治安維持費が国防費を上回っています。
ロシアの警官も怖かったですが、中共の武装警察のほうがたたずまいというかオーラが怖い。
そんな怖い人らがいる所を離れハンバーガーをほお張っている時、隣の飲食店の朝礼が始まった。
めっちゃ普通でした、むしろ日本より軽い(雰囲気は)。
前述の通り空港内はあまり写真撮れないのでこんなところで、市街行きのバスに乗ります。
バスの隣の席には軍人なのか迷彩服を着たイカツイおっさん。
スマホで音楽聴いたりゲームしたり、パートナーとメッセージのやり取りしたりと、やってることは我々と変わりない。
しかし彼が軍人だとしたら、「有事」には容赦なく人民を弾圧する。
こうして書いている今は香港の事が頭をよぎる。
虐殺するのも弾圧するのも悪魔ではなく人だと改めて思い出す。
反対隣に座るのは、高校生くらいの若い兄ちゃん。イヤホンを使わずにスマホでまあまあの音量の音楽をかける。
少し驚いたが、中国では普通の行為だと後々知る。
バスから見える、日本と違い山がちではない果てしなく広がる景色を眺め、清朝太祖ヌルハチらがこの地を駆けたと思うと、スケールの大きさに驚愕する。
5.経済大国という表皮のなかの発展途上国的情景
市街に着きました。
伊藤博文が安重根に暗殺された街、ハルビン。なかなか都会です。
しばらく歩くと、様々な「発展途上国的」光景が目に入る。
↑歩道上に放置された、夢じゃなくてゴミの詰まったバス
↑散乱ゴミ
↑平日昼間から路上で博打に興じる人びと
何のゲームかはわかりませんが、トランプを卓上で思い切り叩きつけていました。
↑「不動産投資」の賜物だろうか、コンクリートむき出しのビル群
ハルビンは「北の都」と聞いていたが、イメージとはだいぶ違った。
6.ロシア人が造った街 ハルビン
ハルビンにはロシアを思わせる光景がいたる所にあります。
↑ロシア民謡「カチューシャ」の北京語?版
↓本家「カチューシャ」
なぜロシア色が街の中にあるかというと
1894年の日清戦争で勝利をおさめた日本に対し、ロシア・フランス・ドイツは「三国干渉」を行い
ロシアは満洲里から沿海州 ハルビンから旅順・大連にいたる東清鉄道敷設権を獲得。
その敷設権を違法拡大して、ロシア人が都市建設を始めたのがハルビンだから。
ロシアは強い国とは対等に付き合うが、弱いおよび弱った国に対しては火事場泥棒をはたらく上、まともに話に取り合わない。
北方領土問題を見ればわかる通り、それは今も昔も変わらない。
7.列に割りこむ人々のバリエーション
次の街、長春に向かうため高速鉄道の切符を購入する。
以前住んでいた家のオーナーさんいわく
『15年前に中国に行った時は、切符を買う窓口に四方から人が群がり、全然自分の番がまわって来なかった』
と聞いていたので身構えていましたが、窓口に向かうと「列」という概念はしっかりありました。
ただやはり割込みはしてくる。
割込みするのは夫婦や家族などの一般ピーポーだけでなく、身分カードを見せて『俺はこういう者だ』と(大声で)言っていると思われる怒らせたらヤバそうなオッサンなど
どの都市の切符売り場でも割り込まれないことはなかったです。
ちな割り込みを許すととたまーに後ろから怒鳴られる。
さて割り込まれながら窓口まで到着。
中国語のまったく出来ない僕。
コピーして日本から持って来た「地球の歩き方」のページを参考にして書いた、目的地や希望出発日時などを記入したメモ書きを提示する。
パスポートを見せる。
金を払う。
パスポート 切符 釣銭を投げ返される。
拍子抜けするほどあっさり買えた。
荷物をX線検査装置に通し、ターミナルへ。
一日中歩き回りかなり疲れていたが、この時は
「寝たら何されるかわからないから絶対寝ない」
と思っていたので、気合とスマホの液晶の光を使いながら瞼にウエイトトレーニングさせてました。
出発時間が近づきゲートが開いたのでホームに降りる。
ホームで電車を待っていると若い兄ちゃんに北京語で話しかけられる。
自分は北京語がわからないので
『I'm not Chinese』
と返すとなぜか睨まれる。
その後少しして列車が到着、車内は日本の新幹線に近い印象。座り心地良し。
この日初めての安らぎ。
(駅構内や列車の写真は撮ってないです。拘束されるのが怖いので)
8.長春のハキダメ宿とヤマトホテル
ハルビンから何時間か列車に揺られ、21時過ぎごろ長春に到着。
ホームは地下だったので地上につづく階段まで歩く。その途中おばさんに声をかけられる。
こちらが北京語を話せない&英語がまったく通じないので、コミュニケーションはノリと筆談で行う。
どうやら宿の客引きのようだ。
値段交渉したあげく断り地上へ。
きらびやか。
Googleはじめ欧米のインターネットサービスや予約サイトは使えないので、宿は着いた先で自力で探す形。
ホテルに泊まろうと思ったが、さっきの客引きがどんな宿に連れていくのかが気になる。
もう一度地下に戻ってみた。
客を捕まえたのか、あのおばさんはいない。
しかし新たにそれっぽい女が。若いのか歳いってるのかよくわからない。
案の定声をかけてきた。
俺に言葉が通じないとわかると退こうとする。
日本人の自分が言うのも変だが、そんなことで退くようでは大陸では生き残れないんじゃないか。
引き止めて『泊まる所を探している』とジェスチャーで伝えたところ、案内するという。
1人では絶対に歩きたくない雰囲気の通りを彼女の後ろについて歩く。
5分ほど歩いて宿に着くとそこは、『うお…』と思わず声が出てしまうほどのハキダメ感。
なぜか宿泊客は全員坊主頭でパンツ1枚。
宿の入口(夜だが電気ゼロ)やトイレなどは、撮影しようと思ったが見せたら皆引いてしまうと思って撮らなかった。
(今にして思えばモザイクかけてでも掲載するために撮っておけば良かった。)
↑トイレの壁にあった男性向けの広告
ちなみに駅のトイレとかも基本的に汚いです。
↑部屋は想像してた程ではなかった。寝れることは寝れる。
案内してくれた女性が『パスポートを渡してくれ』と言われる。
渡しはするがその場は離れない。
彼女はPCに客の個人情報を入力していたものの、俺が外国人だからか、情報入力を上手く進められないようだ。
「民族」の項目はリストから選ぶのだが、「日本人」は中華人民共和国の少数民族ではないため当然リストにはない。
そこに別の若い姉ちゃんが来た。
パチモノのGUCCI(ロゴの部分が「69」)のキャップを被っている。
顔ちょっとカワイイ。
彼女のスマホの待受画面は、子どもと(たぶん)旦那と3人で写っている笑顔の写真だった。
厳しい環境でも家族愛の形は変わらずか。
『パスポートを写真で撮って送りたい』という趣旨のことを言ってきたため拒否。
何ともなりそうになく結局『ここには泊められない』と。
時刻は22時30分をまわっている。
(今からこの危なそうな通りで探すのか…。)
テンションが下がっていたところ、そのちょっとカワイイ子が「知ってるホテル」まで連れて行ってくれるという。
(↑表現が怪しいですね)
駅前の通りに戻り、ホテルまで案内され礼を言って放流される。
そしてその案内された先が実は…旧ヤマトホテル。
ヤマトホテルとは、1907~1945年の間 南満洲鉄道沿線都市を中心に展開していた高級ホテルブランド。
ヤマトホテルを経営していた南満洲鉄道会社(満鉄)は敗戦により解体されたが、いくつかのホテルは名前を変えて現在も営業中。
そのひとつ、旧長春(新京)ヤマトホテルに案内された。
俺が日本人だからここへ連れて来てくれたのだろうか。
初日に空港で助けてくれた女性といい今回といい、ここでの女運は悪くないようだ。(内モンゴルに向かう列車内でも1食ご馳走になる)
↑大和旅館旧?
読みづらくてすみません。
やっぱりきらびやか。
何かの縁と思いここに泊まろうとしましたが
入口上の電光掲示板に共産党礼賛のメッセージ(発音はわからないが漢字から意味はわかる)が流れ、入りたくなくなる。
結局駅前の別のホテルに泊まることにした。
ぐっすり眠り、翌朝起床。朝食バイキングへ。
↑味しねえ。
↑部屋の窓から眺める長春駅
この後向かったのは、旧満洲国皇帝(溥儀)の宮殿を復元した博物館、満洲国皇宮博物院。
この施設の展示やそれについての所感はこちら↓(知識の記述が長くなる時は別記事にしています)
↑そこに向かう道中。個人商店めちゃくちゃ多い。彼らのバイタリティあってこその街並み。
1863年に来日したスイス人エメェ・アンベールいわく
『シナ人は伝統的な技術に満足し、すべての進歩に無関心であるが、銀行にも高利貸しにも、大きい取引から最下級の古物商に至るまで、素晴らしい商才に長けている』
同じく幕末に来日したデンマーク人エドゥアルド・スエンソンいわく
『(チャイニーズの)その狡智、計算高さ、商売上手において日本人などは足元にも及ばない。
けれども日本人はこうした性質の不在を、正直と率直、疲れを知らぬ我慢強さで補っている』
まったく現代と同じ印象。
これだけテクノロジーとグローバル化が進んで異文化間の物理的・心理的距離が近くなっても、文化の基盤はそう簡単に変わらない。
9.中国人にあって日本人にないメンタリティ
満洲国皇宮博物院を出てしばらく歩いていると、警察車両+人だかりという野次馬根性をくすぐる情景が。自分も人だかりの一部に。
中心を見ると、中年女性同士が怒鳴りあっている。
どうやら露店商のおばさんと、露店の台にの角に頭をぶつけて泣いている娘の母親の対立。
台が崩れたなどではなく、たまたま女の子の頭の高さに位置していただけ。
しょーもない と思うようなことかも知れませんが、お互いすごい剣幕で一歩もゆずりません。
彼女たちは相手に対してだけ主張している訳ではない。
周りにいる我々聴衆にも間接的に「私のほうが正しい!」と主張している。
中共政府のプロパガンダと同じ。しかしやり方としては正しい。
日本人はあまり得意ではないが、この第三者(中立国)に対して上手くメッセージを発信すれば、相手に意見をぶつけるだけの場合より有利にことを進められる。
2人はパトカーに乗せられたので、最終的にどうなったかはわからない。
主張の強さという意味も含め、相手の声が大きい場合こちらの声もそれに呼応して大きくする必要がある。第三者を意識して。
多くの日本人のように普段から大声を出さないのは悪くないと思うが、「出せない」は個人としても国としてもまずい。
↑「中国にあって日本にないメンタリティ」で言えば、このブレーキのなさ(人、車ともに)もそう。
日本人のように受け身で大人しくしていてはこの地では
何も進まない
何も得られない
ルールを守らないのは、皆が守ってない中で自分だけ守っていては損をするから。
嘘をつく、自己主張が強いも同じ理由。
皆がしている中で自分だけがしないとなるとサバイバル出来ない。
それが今まで勉強した知識と経験を照らし合わせたうえでの私の解釈です。
長所と短所は表裏一体なので、日本より良いと思った形で出ている場合もある。(もちろん長所短所、良い悪いは主観です)
こちらは内モンゴル自治区での一幕↓
彼女たちのように広場で踊る人々(おもに中高年女性)を各地で目にしました。
↑この記事いわく
「…踊り方、…音楽などは自由で…音に合わせて心のままに手足を動かせば良い」
「60代女性『平日はご近所さんたちと広場ダンスを踊るので孤独を感じない』」
「『楽しみながら病気の予防にもなり、医療費の負担が軽減できると認識している』参加者も多数に上ったという。」
日本人高齢者だとおそらく
『この歳までダンスやったことないし…』
『変な人がいたら困るし…』
『病院に行って安い金払えば誰かと話せる』
↑のいずれかの心理状態に陥りグループがなかなか成立しない。
保守的・完璧主義・人見知り・人目を気にする・嫌なものを嫌と言えない。
これらの日本人的特徴は、いきすぎるとQOLの面ではかなりマイナスです。
また中国人は、商売目的以外でもよく話しかけてくる。
声をかける側もかけられる側も、自分の身は自分で守れる(言葉で)ことが条件ではありますが、個人的には日本より良い点だと思いました。
10.瀋陽の肉肉しい回族ストリート
割り込まれながら高速鉄道の切符を購入し、瀋陽へ移動。
駅に着くと、独特の風貌をしたハスキーボイスの女性に宿の客引きをされる。
『我不会説中文』(私は中国語が話せません)
と言ったが、話すスピードが変わらないどころかジェスチャーすら交えない。
こちらに合わせる気はゼロ。
値段を訊くと、ハルビンで泊まった宿とほぼ同じ価格。それを踏まえ、シャワーがあるかどうか筆談で確認。
泊めてもらうことにした。
『まあこんなもんか』
というクオリティの宿。
中国は精神的疲労度が高いので、正直個室でトイレがまともなら何でも良い。
一夜明けて宿をたち、昼間から公園で博打(麻雀など)に興じる老人たちを目にしながら通りを歩いていると、目に入ったのがこちら↓
回族のストリート。
回族とは、言語や形質は漢族と同じだがイスラム教を信仰する人々。これは入るしかない。
おお…
なんと肉肉しい。
「肉肉しい」
この言葉がこれほどぴったり来る通りはおそらく日本には存在しない。
丁度お腹が空いていたので回族料理を味わうことに。
↑複数人で食べる時は丸テーブルに大皿の中華スタイルのようだ。
↑店内。一瞬どの国にいるかわからなくなる。
↑ぶっちゃけ豚使ってないだけでメニューそんなに変わらなかった。
↑「葱爆羊肉」
体育会系の学生が喜びそうな味と量でした。体育会系でも学生でもありませんが好きな味で大喜び。
中華料理は名前に調理法が明示されています。
「炒(チャオ)」は短時間でサッと火を通す
「爆(バオ)」はさらに熱い油や熱湯で瞬時に火を通す
「炸(ジャー)」は揚げ物、などといった形で。
メニューに写真がなかったとしても、これがわかっているとハズレを引く確率は下がります。
お店の人(女性)の娘さんは大阪に住んでいるそう。筆談でのやり取りだったが、反転した平仮名を書いててかわいかった。
↑右の店の看板にある「清真」とはイスラムのこと。
昼12時前だったので、ここの人々が正午の礼拝(サラート)をするか確かめるため通りに留まったが
誰もやらない。
当然アザーン(礼拝を呼びかけるアナウンス)もない。その代わりになぜか「白鳥の湖」が流れていた。シュール。
この後行った瀋陽故宮についてはこちら↓
例のごとく何度も割り込まれながら切符を買う。改札くぐってターミナルへ。
↑スタッフのお姉さん。2店舗とも彼女が対応する。
勤務中兼リラックス中。
出発時間が来て、列車に乗り込み大連へ向かう。
11.大連・旅順 国内放映でも漢字字幕が必須なわけ
↑切符を買う窓口で「大連」と伝えたが、どういうわけか「大連北」駅行の券を渡されたためここで停まる(泊まる)。
ダウンロードしたMAPS.MEの地図に掲載されている宿を目指して歩く。
時間はもう22時をまわっており駅裏は人通りもまばら。
ナンパと同様ゆっくり歩いていると狙われるので道に迷っていても速く歩く。
そしてホテルIN。
起床して朝食バイキングのコーナーに行くと、字幕表示の中国ドラマが放送されていた。
その字幕は英語ではなく漢字。
表意文字である漢字は、異なる言語を話す人々の共通語・マーケットランゲージとしてもともと発展した。
発音より見て理解できるかが重要で、漢字を扱えれば交易ネットワークに参加できる。
洛陽盆地には漢字を使う集団があちこちに生まれた。
集団ごとに違っていた発音は、前221年に大陸を統一した秦の始皇帝が「ひとつの漢字につき読みはひとつ」と定めるものの。
出身ごとの発音のクセは残り、もともとの話し言葉は話し言葉として残るので、音だけ聞いても多くの人々にとっては意味がわからない。
つまり漢字は書いて読むコミュニケーションツールで、20世紀まで話し言葉としての共通語
(普通話=プートンホワ。中国語圏外の人間が学ぶ『中国語』は一般的にこれ)
がなかったのはこのため。
わざわざ漢字の字幕を入れるということは、今でも標準語である北京語を聴いて理解できない層がいるということです。
「中国と中国人」の関係を「日本と日本人」の関係と同じように見ていては、何もわかりません。
朝食代金を支払う時、フロントにカードキーを置き忘れ。それに気付かずフロント女性の
『Do you want to check-out today?』
に『Yes』と答えてしまい、荷物の大部分が部屋に残ったままチェックアウト手続きされたことに後で気付く。
焦りながら英語+筆談で荷物をとり戻し、地下鉄でいざ旅順駅へ。こういうイレギュラーで心拍数が上がるも旅の醍醐味。
都市間の移動で高速鉄道に乗る際、必ず荷物をX線検査装置に通すのだが、地下鉄でも同様だった。
慣れればどうってことないが日本から来て間もないと息苦しさはぬぐえない。
旅順駅に着く。駅から降りると
『日本人ですか?』
とタクシーの運転手に話しかけられる。
203高地など日露戦争ゆかりの地を1日かけてまわってくれるという。そりゃありがたい。
気になるお値段は?
『500元』
日本円にして約9000円。
1日つきっきりならそんなもんだろうと思い、お願いする。ただ今考えれば一度は値切るべきだった。
定価のない買い物で値切りは必須。
持ち合わせが少ないので銀行のATMに寄ってもらう。
その銀行の出入口で警備をしていた?公安の兄ちゃんから日本人ということで興味を持たれる。
『コンニチワ』『スミマセン』『アリガトウゴザイマス』
笑顔で言うてくる。
片言の英語で『連絡先(WeChatだったか?)交換しよう』と言ってくるが、さすがに会って間もない公安の人間とそれは出来ない。
ちなみに先に言っておくと、自分が日本人であることによる差別は、中華人民共和国で一度も受けていない。(「あんまり嬉しくないんだろうな」というリアクションをされたのは一度だけあった)
12.日露戦争ゆかりの地 水師営会見所 203高地ほか
水師営会見所と武士道についてはこちら↓
水師営会見所を後にし、例のタクシードライバーに会見所から203高地まで運んでもらう。
やっぱりというか何というか、空いている道だと普通に100km/h近くスピードを出す。
クラクションもガンガン鳴らす。
今回の旅では北京から北の街しか訪れていないので、南の方はわからないが、クラクションの音はどの街でもよく聞こえる。
幹線道路だとずっと鳴り響いている所もあるくらい。
日本だと前の車が青信号でも進まない時や緊急の時にしか使いませんが、こちらでは色んな意味のクラクションがあります。
「進め」
「どけ」
「(死角から出る時)ここにいるぞ」
「(峠などを走っている時、反対方向から来るかもしれない車に対して)
もうちょっとしたらコーナーに入るぞ」
「出てくるなよ」
など。
鳴らした方が早くてわかりやすい(そして安全?な)ので、彼らはすぐに鳴らします。
運転する機会があればご注意を。
203高地は、ざっくりいうと、港湾部が一望できる重要地点なので、日露戦争において争奪戦となった丘陵。
これは非常に激しい戦いで多くの戦死者が発生、第七師団15000人の兵力が5日間で約3000人にまで減少した。
着きました。なんだか想像と違う。
ドライバーの彼は、私がここをまわっている間にもうひと走りして来るという。
さすがに商売上手。
ということで「入園」する。
思ってたのと違う。
家族や恋人とピクニックにでも来たい場所。実際そういう人もいました。
あと日本人の年配の方達も何組か見えた。
日中友好をモチーフにした桜のモニュメント。
↓横から見た図
フラワーパークを抜けていざ戦場へ。
ロシア語表記もあり。ロシア人も訪れるようです。
違うキノコ食ってそうなマリオ。
渦巻のニュアンスがよくわからない。
↑もちろんここでもプロパガンダ。
「…旧日本軍国主義の頭である乃木希典は…日本軍の亡霊を供養するために、
戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で
10.3メートル高さの[爾霊山]記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。」
我々は騙されてるらしいです。
こんな感じで現在は半分がフラワーパーク。
「今は、この爾霊三(山?)はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」
グイグイくる。
↑これがその爾霊山(にれいさん)記念タワー。
プロパガンダのためか知らんがなんだかんだで残してる。
頂上に上っていく途中でロシアのアイスが売っており、身体を冷やすために購入。
日本のものとの違いは、アイスの中にプラスチックの欠片が入っていたことぐらい。
↑ロシア式150ミリキャノン砲。カップル写ってますが、見晴らし良いので完全に若い子たちのデートスポットになってましたね。
↑重砲兵用観測所。
↑日本式250ミリ榴弾砲。
↑ロシア軍陣地指揮所。
日露双方大量に血の流れた激戦をなかなかイメージ出来ない、のどかな場所になっていた。
しかしそれでも203高地は、1990年代前半までは中国海軍の軍事施設に含まれており、外国人の立ち入りは許されていなかった。
現在の状態だけを見て能天気に物事を判断してはいけないと改めて思いました。
13.韓国人だらけの旅順刑務所(反日人物収監施設)
駐車場に戻ると運ちゃんが待っていたのでまた運んでもらう。次に向かうのは旅順刑務所。
ここは、おもに満洲やコリアの反日的な人物を収監した施設。
ということでハングルも併記。
↑展示の中にはもちろんこの人も。
伊藤博文を襲撃し殺害した、韓国の「国民的英雄」安重根。
彼の処刑はこの施設で執行されました。
↑これらの作品はすべて彼が書いたもの。
漢詩と書について詳しい人に評価をお願いしたいです。
ちなみに写真3枚目の「為國献身軍人本文」は、日本人の監視担当者に頼まれて書いたもの。
↑ここに安重根は収監されていたようです。
↑抗日武装組織、韓人愛国団。
ボスの金九は、大韓民国初代大統領 李承晩と対立し1949年に暗殺されている。
本当にわかりやすいコンセプトですね。
だから頭に入りやすいのでしょうが。
↑死刑執行室(絞首刑)
↑孫文。
↑日本人の真面目さがよく出てる遵守事項。
↑拷問部屋
↑仏壇
館内をまわっていると、いたる所に韓国人。やはり安重根関連の所には多かった。
自分は日本人に見られていないようだったので、特に嫌な思いはしていない。
中国人も、高校生か大学生か忘れたが、制服着て集団で来てた。これも「教育」の一環か。
観覧後施設から出ると、待たせていたドライバーに
『Slowly』
と言われる。急いだぞ。
北京語が出来れば彼とも色々話をしたかった。どこまで本当のことを話してくれるかはわからんが。
14.ロシアと関わりの深い地、旅順・大連
旅順刑務所を出た後は、旅順港へ向かう。
旅順港は軍港として重要な位置にあり、もともとは清朝の北洋艦隊の基地だったが、日清戦争の後行われた三国干渉によりロシア海軍の管理下に。
日露戦争後は日本海軍の管理下に移り、1945年にソ連軍のそれを経たのち、1955年中共に譲渡された。
日露戦争にて朝鮮半島周辺の制海権をおさえるために、ここを舞台に戦われた激戦が旅順攻囲戦。
立ち入ることが出来ない区域に軍艦らしきものが浮かんでいたが、危険だと思い撮影はしなかった。
↑僕じゃないです。
これは貴重な眺め。見ての通り釣りスポットにもなっている。
ドライバーのおっちゃんは、山頂から港を望める白玉山にも連れて行ってくれた。
戦場を見下ろす贅沢な眺め。
ここ白玉山には、日露戦争後 東郷平八郎と乃木希典の発案で建てられた戦没者追悼の塔があります。
日本人は元寇襲来の時も、日本人と元軍の戦没者を分け隔てなく追悼した。
死ねば仏(神)となるのが日本人の死生観。
当時は「表忠塔」という名前でしたが、中華人民共和国になってからは「白玉山塔」と呼ばれている。そのまんま。
名前を間違えている。
トーゴーヒラタローって誰だ。ノギマレノリって誰だ。
これがその「白玉山塔」
伝わりづらいかもしれませんが、かなり大きいです。
旅順港が初めて軍港として使われたのは、明朝の洪武帝の時だそう。
歴史に限ったことではないが、背景がわかると今見えてるもの以外のことにも思いを馳せることが出来る。
感慨にふけった後、運ちゃんに最初に拾われた旅順駅まで運んでもらう。
お礼を言うとともに500元を渡す。旅順刑務所は当初自分の予定に入っていなかったためさらにチップを30元追加。
びっくりした様子で、初めて本当に嬉しそうな顔をした。
『(日本語で)ありがとう』
ほとんど言葉が通じないから残念だったが、長いこと一緒にいたから話出来ればもっと面白かったな。
これからも日本人を乗せてたくさん稼いでくれ。
今回タクシー(非白タク)を使った感想は、スピードこそかなり出すが乗り心地は悪くない。
こちらは北京語話せない、運転手は英語が話せないという状況だったものの、翻訳ソフトを駆使し北京語⇔日本語で上手くやりとり出来た。
相手が意思疎通しっかりしようとしてるのはでかい。
日本人を乗せ慣れているというのもあるだろうが。
今回は比較的優良なドライバーに当たったと思われる。
山海関で乗ったタクシーのドライバーはまあまあひどかった。(後述)
中国を訪れる際、タクシーを使わないと決めている場合は大声ではっきり断り続けてください。
1回『NO』と言われただけで引き下がるような、ひ弱なメンタルは彼らは持ち合わせていません。
運ちゃんと別れた後、旅順駅から大連駅まで地下鉄で向かいます。
車内にアナウンスが流れる。その言語は北京語、英語、日本語、ロシア語、韓国語。
ここには色んな所から観光客が訪れるようだ。
大連の説明を少し。
ロシアは日清戦争後の三国干渉で、旅順大連を含む関東州の租借権を清から獲得。
関東州の関は、万里の長城の東端 「山海関」の関。
山海関の東だから関東州。
ちなみに日本の関東は「関所の東」という意味です。
大連はかつて三山などと呼ばれていたが、租借権を得たロシアはこの地を東清鉄道の終着駅に設定。
ロシア語で「遠い」を意味するダルニーと名付け都市建設を始めた。
日露戦争で勝利と租借権を獲得した日本が、ダルニーに漢字をあてたのが「大連」。
つまり大連はハルビンと同じくロシア人が造った街。
ヨーロッパテイストのきらびやかな建築群。
なかなかの大都会。
いつものごとく宿を探し、安らぎの個室へ。
思い入れある場所をまわり、それがタクシーでの移動だったことに加え、行列中必ず割り込まれる高速鉄道の切符購入もなかったため、この時点では精神的充足度が入国以来最高の1日だった。
ふとシャワールームの鏡を見て、痩せていることに気付く。
1日2食下手すりゃ1食&軽食の時もあったこと+心労が原因か。
↑3日前
↑当日
ゆっくり休んで翌日、いつものように割りこまれながら高速鉄道の切符を購入。
大連駅のターミナルへ。
ヨーヨーをしている小さい人影が見えたので、子どもかと思い近付いてみたら、腕にタトゥーの入ったいい大人だった。
これの青、小学生の頃親に買ってもらったなあ。5000円以上する「高級品」だった記憶。
出発時刻となり、山海関に向かう列車に乗る。
↑車窓から望む景色。見渡す限りの大平原。山がちの日本の風景に慣れている自分にとっては衝撃だった。
Chinaの歴史では戦乱が起こった時、日本とはまったく比較にならぬほど桁違いの数の人間が死ぬ。
たとえば前漢王朝(前206~後8)末期には5700万人台とされていた人口が、新王朝(9~23)の動乱を経て後漢王朝(24~220)の57年には2100万人にまで減少。
そののち再び5000万人台まで回復するものの、三国志時代の終わりを告げる晋の統一時(280年)には1600万人まで減っている。
その理由の一つとして、Chinaは平原がとても大きく、戦乱になった時人が逃げ切れず大量死するというものがある。
地理決定論ではないが、風土がそこに住む人々に重大な影響を与えていることを念頭に旅をするとより楽しめる。
15.山海関 カルチャーショックタクシーでまわる万里の長城
高速鉄道で山海関駅に到着。
なかなか趣のある駅舎。
出てすぐの所に駐車場があり、そこを通る道しか表に出るルートがわからなかったので通過しようとすると、タクシードライバー(非白タク)が声をかけてくる。
断っても断ってもすごくしつこい。
が今にして思えば自分の断り方が弱かった。おそらく彼らにとっては断られてる内に入っていない。
日本人が色んな所で狙われる理由はここで察した。
ちなみに↑の写真の右下に写ってる青い服着たおっちゃんがそのドライバー。
地図を広げ、『万里の長城(九門口)、天下第一関まで案内する』という。
天下第一関とは、万里の長城の東端にして東から数えて最初の関所であった場所。
悪くない。値段を尋ねるが聴き取れない。
メモに書いてもらうも字が汚すぎて読めなかった。『乗れ乗れ』とジェスチャーされ「白タクじゃないしまあ良いか」で乗車してしまう。
旅で色々覚えた今の自分は思う。
ちゃんと確認せーや。値切りせーや。
旅順で乗ったタクシーのドライバーは悪くなかったが、今回の乗車体験はなかなかのカルチャーショック。
猛スピード&クラクションをガンガン鳴らすのは当然のこととして、客を乗せてるにも拘わらずペッペペッペと窓からタンを吐く。
鼻くそをほじる。
爪めっちゃ黒い。
邪魔な車に怒鳴り散らす。
そしてドライバーの体臭がまあまあきつい。
当然英語はまったく通じない。
駅からかなり遠くまで離れていたが、乗車賃を確認していないこともあって「どこで降ろされるかわからない」と一応覚悟した。
海外放浪中何度も経験することになる、この種の先が見えないストレスによるドキドキ。
これが自分を大きくしてくれるのは旅の早い段階でわかった。
…会話のないまま九門口に到着。
203高地に運んでもらった時と同じく、僕がまわっている間にひと走りしてくるという。
ってことで入城。
↑功徳無量
↑東西南北を守る、四天王の多聞天 広目天
↑持目天と増長天
万里の長城は、言わずもがな北方異民族の侵入を防ぐためのもので、現存の大部分は明代に作られた。
よって長城より北に位置する東北三省は、400年ほど前まで「異民族の土地」でした。
↑九門口。「禁止遊泳」(写真左下)って。ここで泳ごうとする奴がいるのか…
↑けっこうな急勾配。止まらずに上ると太腿にきます。
↑注意書きのイラストがコミカル。でも気を付けないと本当に滑ります。
↑落書きすんなちゃ。
作られた理由を考えて訪れると感慨深いです。
九門口から出てくるとドライバーが待っていたので、天下第一関まで運んでもらう。
僕が写真を撮っていると、せかしてくるドライバー。何やこいつ。
そしてせかす割にミニ肉まん5個おごってくれるという謎。
山海関駅まで戻り、乗車賃を訊く。
『300元』
約5400円。高いんだか安いんだかよくわからないが、幸いなことに結局法外な値段ではなかった。
別れ際、僕のパスポートがチラっと見えたのかドライバーが『それ見せてくれ』と言ってくる。
そして見せると
『リーベン‼(日本)』
と驚いたリアクション。(嫌がっている感じではない)
どこの人間だと思ったんだろう。
16.商売上手のチャイニーズガール 日本人に足りないもの
金を払った後、まだ夕方だったので北京行の便に乗ろうと思ったが、窓口で訊いたところもうこの日の席はないという。
宿を探すことにしたが、あいにくのどしゃ降り。折り畳み傘をさすが、腰から下にはあまり意味がない。
重いバックパックを背負って大雨の中、長距離を歩く。ボーイスカウト時代を思い出した。
車にハネを飛ばされないよう気を付けながら、暗い中未整備の泥だらけの歩道を歩く。
幹線道路沿いに歩いていると小さいホテルを発見!入ってみる。
フロントに座っていた男性に声をかけるも、やっぱり英語は通じないので筆談&ジェスチャーでやり取り。
『ボスが来るから待っててくれ』と。ありがたいことにタオルを貸してもらい、拭ける所を拭く。
待ってる間その男性とコミュニケーションを図るが、翻訳ソフト越しなのでスムーズに進まない。もどかしい。
人との対話は、AIが発達しても出来るだけFace to Faceで直接したい。翻訳こんにゃく一生分くれ。
そう悶々としている間に女ボス到着。
『外国人はここには泊められない』という。
マジかよ…。ここ以外に宿らしきものは周辺にまったくなかった。
MAPS.MEの地図でもホテルは5km以上離れた所にしかない。タクシーを呼んで貰うか、万里の長城&ここまででかなり疲れてるが歩くしかないか。
と思っていると、女ボスと一緒に来た若い女性が
『車で10分くらいの距離にあるリッチモンドホテルまで送るよ。』と言う。
こりゃありがたい。がこの言葉には続きがある。
『30元でね』
約540円。ちゃっかりしてんなあ。だが爽やかにやられて自分はむしろ好感を持った。
個人的には、たまにいる『タダでやってもらって当たり前』と思ってる日本人のほうが嫌い。
承諾すると『取引成立ね♪』といった感じで彼女はフィンガースナップ。リッチモンドまで送ってもらう。
ついでにフロント係へ自分の説明もしてくれた。お礼と謝礼を贈り別れを告げる。そしてチェックインし入室。
部屋がでかい。ベッドがふたつ。
バックパッカーの俺にこんなスペース要らん。なんでわからない&この部屋で良いか訊いてこない…いや、空いてる小さい部屋が無かったのか。
いずれにしろ確認しない伝えない自分が悪い。
「察し」を相手に求めるのは日本以外では完全に甘え。
そんな学びを得つつ眠りに落ちた1日でした。
朝起きると、前日とはうって変わって快晴、晴れてさえいれば長距離を歩くことに問題はない。
むしろ10年前トラックに潰された事故以来、指の機能が落ちている左足のリハビリがてら積極的に歩きたいと思っていたので、徒歩で山海関駅まで戻ることに。
北京に向かう電車は、値段と時間帯の都合上14:59発(21:07着)を選んだ。
↑待ち時間に食事。
大きい荷物を背負って歩いていると、客引きやボッタクラーだけでなく普通の男女もよく話しかけてくるのは日本より良い所だと思う。逆に悪い所は…
17.中共の洗礼パート2 in 高速鉄道
いつものように割り込まれながら切符を買う。
が今回だけは少し様子が違う。一部の人間は、そのままホームには通されずアナログな荷物検査を受ける。
どうやら首都北京方面に行く者にだけそうしているようだ。自分も開けさせられた。
仕方ない。あの政府だから。
高速鉄道は毎回指定席。切符に示された席まで行くと、おばさんが3席分とって寝転がってスマホをいじっている。
向かいの席にはその旦那が同じようにして3席分使っている。
(日本ではまず見ない光景だな)と思いながら声をかけ、どいてもらう。
首都である北京へ向かう列車はやはり混む路線なのか、人が多い。そして皆声がでかい。
そして今までの他の交通機関でもそうだったが、大半の人がイヤホンをせずにまあまあの音量でドラマや音楽を試聴したりゲームをする。
だから寝ようにも寝られない。賑やかな中で6時間ちょっとのあいだ、満洲国についての電子書籍を読んだりボーっとしたりである。
何時頃かは忘れたが、ちょうど日が暮れるタイミングで列車が停まる。しばらく動かない。北京の2駅くらい前だった気がする。
時間空くなら何か買いに行こうかなと思った矢先、黒いユニフォームを着た公安の男たちがズカズカと7~8人乗り込んできた。
そして乗客ひとりひとりのバッグを開けさせ中身をチェックしていく。当然自分の所にも来る。バッグを開けると顔を近づけて中をジロジロ見る。去る。
しばらくするともう一組来て同じことをされた。正直言ってかなり不快。これまでこの国でずっと感じてきた息苦しさがさらに高まった。
21時台、北京駅に到着。
駅前にはもちろん人が多かったが、中共の政治的中心だけあって武装警察も多く配備されている。
拘束が怖いので武警が写らないように気を付けて撮った。
腹が減っていたので、中国で何度か目にしていたチェーンのラーメン屋?に入る。
美国→米国
加州→カリフォルニア州
面→麺
店名からしてずっと気になってた。
適当に辛そうなの頼む。日本円で1000円くらい↓
見た目より全然美味しくない。この味でこの値段でチェーン展開出来るなら、この地域のラーメンはあまり口に合わなそうだ。
キュウリが一番美味かった。そのキュウリよりも5元(約90円)で買ったチーズパンのほうが美味かった。
飯を食い終わった後は宿探し。もう22時を過ぎているのでさっさと決めたい。しつこい客引き達を追い払いながら、目に入った宿に入り泊まれるか尋ねる。
『外国人はダメ』と断られたので、その隣のちょっと大きめのホテルに入ると
一部屋だけ空いているが、一番大きい部屋だという。
値段は369元(約6700円)。高くはないが、山海関の時みたいに自分が使わないスペースに余分な金は払いたくない。
フロント女性に『あと何軒かまわってみて、泊まる所がなかったらまた戻ってくる』と告げホテルを出る。
18.北京の娼婦とハニートラップ大国
すると、俺について来てたのか追い払った客引きのひとりが待っている。
ビッグスクーターに乗っていて、風貌はザたっちをずる賢くした感じ。
『ね、部屋なかったでしょ?』と言ってくる(翻訳ソフトで英語⇔日本語)。
自分『ああなかったね(嘘)』
たっち『中国人ならともかく、この時間に外国人が予約なしで泊まれる部屋はほとんど無いよ。389元の部屋がある。これが外国人が泊まれる最安価格。』
さっきのホテルが一番大きい部屋で369元だったので、嘘なのはわかってる。
しかしこちらとしても部屋は早く決めたい。値段交渉をする。
自分『300元なら泊まっても良い』
たっち『話聞いてた?外国人が泊まれるのはここが一番安いんだよ。あのでかいホテルを見て。あそこは日本人も泊まれるけど、一泊800元』
自分『NO、300元』
たっち『そんなこと言ってたら泊まれる所本当になくなるよ。日本人はリッチではないのですか?』
自分『300元。無理なら消えてくれ』(内心ドキドキ)
今だったらもっと安い値段提示してもっと強く出るが、あの時はこれくらいしか出来なかった。
たっち『わかった。300元で案内するよ』
ホッとしつつ、たっちのビッグスクーターの後ろに乗る。
良し、とりあえず寝れる所は確保した。と思ったが甘かった。
ちょっと走ってすぐ、先程たっちが「一泊800元」と言っていたバカでかいホテルの前で停まる。
ここに入るのか?
心の中の警戒センサーが音を出し始める。
ホテルに入り、たっちについて行く。フロントは通過しなかった。もちろん経路はしっかり覚えておく。
連れてこられたのは、同じ建物内にはあるものの、表から見えるホテルとは別の運営と思われる場所。フロント係らしきジャケットの若い男に金を払う。
すると、『部屋に案内するから靴はここで脱いで置いていってくれ』と言われる。
怪しい。脱ぐには脱いだが靴は持っていく。
そうして連れて来られた部屋の扉には、廊下からのぞける大きい窓が付いており、びっくりしたのが鍵がない。
案内役のニヤケ顔オヤジを問いただすも、ヘラヘラして部屋を出ていく。
もう金は払ってしまったし、もう23時をまわっているから外も外で出たくない。
「どうしようか」と、扉の近くに置かれたベッドに横になって考えていると、 ガチャ と扉の開く音が頭上でする。
寝転がりながら音の方向に目をやると、赤いドレスとそこからのぞく女の脚。
『はぁ⁉』
↑中国で一番大きい声を出した瞬間。
彼女の手にはローションらしきものなど一式。容姿を一言で表すなら、「大陸の娼婦」顔(そのまんま)。
さっきのニヤケオヤジ『マッサージマッサージ♪ユーライクマッサージ♪』
「吸う」ジェスチャーをしながら色々言ってくる女とオヤジに対して自分はNO!を連呼。
女『Only $300!』
($300払うなら○○○人がいい)なんて不純なことを考えながら『 I don't need it! I wanna only sleep』と返す。
ぶっちゃけ相手が好みのタイプだったらむちゃくちゃ葛藤したと思います。そうだったとしても、ここまでの経緯を考えると断るしかない。
女は露骨に文句ありげな顔でブツクサと何かを言う。
ニヤケオヤジ『OK,OK,グッナイ!』
この部屋が妙に怪しい雰囲気だった理由がわかった。
↑2人が去った後に撮影。(雑な)孔雀の壁紙と「悦」の字の入ったシーツ。
思いっきり「売春禁止」と書かれた扉。
元自衛官の後輩に聞いた話では、自衛隊の幹部クラスが中国で泊まる時に、ホテルで女性によるマッサージをよく勧められるという。
そのサービスを受けて、裸同然の男女の写真を撮られ脅される恐れがあるとわかっているので絶対に断るそうだが。
この国はハニートラップ大国で、日本で有名なものだと2004年の上海総領事館員自殺事件。
日本領事館員の男性(既婚)が、2003年当時交際していた20歳の女性。彼女が連絡係となり、中共当局に脅迫され自殺に追い込まれている。
中国のカラオケには、日本式の歌うだけの店とオネエチャンがつく店とある。
彼女はカラオケ店で働くホステスで、同じカラオケ店に何度も通っていた海上自衛官が、2006年に持ち出し禁止の内部情報を持ち出し、無断で何度も中国に渡航している。
「ハニー」の毒牙にかかった可能性が高い。
2008年オリンピック開催中の北京に訪れた、当時英ロンドン副市長だったイアン・クレメント氏も、五輪開会式後のパーティーで知り合った女性とワンナイト。
朝目が覚めると彼女はおらず部屋には機密書類が散乱、彼のスマホからは重要データが「何者か」にダウンロードされていた。
3年前の記事ですが↓
記事の通り、米軍の元陸軍将校からも情報を抜いている。
米中新冷戦の局面を迎えた中共が、この手段を活用しないわけがない。
ちなみにスパイと発覚していない限り、彼女たちは外国にも渡って来れますので。
悲しいことですが、立場によっては中国人女性との交際には非常に慎重になるべきです。
話を戻します。
もう23時30分をまわっていたため、外へ出て他の宿を探すという選択肢はない。しかし扉に鍵が付いていないのでこのまま能天気に寝るわけにもいかない。
2人が部屋から去った後も廊下からは常に男女の話し声がする。さっきの事があるので、いつ誰が入ってくるかわからない。
でも体は休めたい。
まず扉の窓を、手持ちのビニール袋でふさぐ。
扉を開けられた時寝ていたとしても、そのことに気付きやすいように、袋の中には小銭を入れて開閉時袋が落ちやすいようにしておく。
当然電気はつけたまま。
ベッドの上でバックパックを壁に立てかけ、それを背もたれにして足を伸ばす。
ウトウトしながらも緊張は解かない。体感としてはとてつもなく遅く時間が流れる。
大きい音がしたらすぐ覚醒出来るように備えたまどろみ状態でいると
深夜2:30頃、扉を誰かがノックする。
寝ていないことを示すため、すぐに起き扉を開けると、フロント係だったジャケットの男がいる。
僕が顔を見せると、『OK,OK』という感じで去っていく。
寝てたらどうなっていたのだろうか。
……
男が去った後も廊下の話し声は一向に消えない。
しかしさすがに横になりつつ起きていることが限界に達したのか、20分ほど記憶が飛ぶ。
3:30、4:00を過ぎてもまだ話し声がする。
4:30、5:00…まだかまだかと待っていると段々静かになってきたので
廊下に誰もいないか、いても人が少ない状況を見込んで部屋を出る。
足音をなるべく立てない早歩きというニンジャスキルを使い、応接室らしき部屋でフライドチキンにかぶりつくニヤケオヤジを横目に脱出。
この日の北京は、ほぼ眠っていないトランス状態でまわることになった。
中華人民共和国の首都、北京。
行列への割り込みやしつこい客引き。
プロパガンダや密告奨励の広告。
インターネットがまともに使えない。
公共のトイレが不潔。
など様々な理由により心労がたまって来ており、それに前の晩の睡眠時間20分という悪条件が重なったことで
1日身体を休めて改めてゆっくりまわるより、一刻も早くこの国を脱出したい欲求にかられ始める。
ここから
「北京は首都だしもう一度来れば良い(ただし次は中国人の友人と)。」
が所与の前提となる。
天安門広場についてはこちら↓
天安門をくぐった先。なぜかバスケットボールコート。
この近くでおばさん同士が怒鳴りながらシバキ合ってた。
明~清朝にかけての宮殿、紫禁城。でかい。
でもただでさえ並ぶの大嫌いなのに、寝てない中こんな行列にひとりで並びたくなかったので今回はパス。
紫禁城を後にし、少し歩いたところでローソンが目に入ったので、フライドチキンを食べてみる。
日本のやつより好きな味。
19.北京までと明らかに違う「内モンゴル」の都フフホト
頤和園をまわった後、次はいよいよ内モンゴル自治区へ。
頤和園についてとなぜモンゴルが南北(「内外」)に分かれたかはこちら↓
時間が来たので、夜行列車に乗る。
あと少しでこの国を抜けれると思うと気持ちが軽い。
周りを見てみると、北京までの乗客とは明らかに違う。モンゴル系と思われる顔や服装の人が一気に多くなった。
(とはいえ半分以上は漢人顔だが)
手荷物も皆多い。出稼ぎか観光で北京に来てたのだろうか。
実はモンゴル人の数自体は、モンゴル国より「内モンゴル」のほうが多い。
前者では総人口で300万人強なのに対し、後者はモンゴル族だけで500万人近くいるとされる。
ちなみに内モンゴル自治区の人口は2600万人強で、80%が漢族。やはり現代のマジョリティは漢人になっている。
『日本人』と自己紹介すると、向かいのモンゴル族らしきおばさんには肉まんをもらい
通路をはさんで隣に座っていた漢人っぽい女の子には『大学生ですか?』と日本語で訊かれる。
基本的にヨーロッパ抜けるまでstudentと間違えられ続けた。25歳前後に見られるのは良いが、20歳と言われるとさすがに喜べない。
夜が明けて車外の景色が見える。見渡すかぎりの牧草地。
↑かつて全域が遊牧地だっただけあって、今でも家畜の群れが走っている(わかりにくいですね)。
まだ出国していないがフライングで違う国に入った気分。それほど乗客も窓から見る景色もこれまでとは違った。
そうこうしている内に内モンゴル自治区の都フフホトに到着、しかしここは北京までの街とは明らかに違う。
ここから看板にモンゴル文字が表記されるようになります。
本場(?)モンゴル国では、冷戦期東側陣営だったことに加え
モンゴル帝国時代を「タタール(モンゴル遊牧民)の軛」といって、ロシアが黒歴史扱いしている影響でソ連崩壊手前までロシアが使用しているキリル文字が使用されていました。
↑キリル文字
その影響もあってか、日本でモンゴルからの留学生に訊いてみたところ
『(モンゴル文字は)一応読めるけど、すごく読みにくい』
といいます。
実際モンゴルの街の看板や標識、レストランのメニューなどは今でもほとんどキリル文字。
↑こんな感じ in ウランバートル
↑こちらはフフホト駅構内の壁に描かれた絵。好き。
外に出ると北京までと比べてだいぶ寒くなってる。5月だが日本で言ったら11月下旬くらいの気温。「モンゴル」の入口に入った感覚。
↑ほぼ実践出来てないスローガン。いや彼ら中共が定義する「自由 平等 公正」なのかあれが。
列車に乗って窓から景色を見ている時は、「こんな果てしない牧草地帯に街があるのか?」と正直思っていたが、着いてみると結構都会。
↑マクドもKFCも注意書きもモンゴル語を併記。内モンゴル自治区は北京語とモンゴル語が公用語だから。
明らかにこれまで訪れた街とは違った。
公園に入ると、二胡の音色がどこからか聞こえてきた。
とても美しい。うっすら聞こえる耳にさわるアナウンスは公安のもの。
公園を散策してる間にもよおしてきたためトイレへ。
話には聞いていたがヒデェ。見た人を不快にしかさせないと思ったので写真は撮っていない。
ドアがあるだけまだマシなのだが、個室には汚物まみれのきったない溝があるだけ。気になる方は「中国 トイレ」でご検索ください。
日本にいながらカルチャーショックを受けることが出来ます。
20.チベット仏教寺院 五塔寺。日本のそれとはまったく違う仏教芸術
モンゴル人に最も信仰されている宗教はチベット仏教。
南(内)モンゴルでもそれは同じ。
↑こちらは慈灯寺の金剛座舎利宝塔、通称「五塔寺」。
18世紀前半、清朝第5代皇帝雍正帝の頃に建てられた仏塔で、内部にはダライ・ラマ3世ことソェナムギャツォの遺骨が安置されている。
↑ダライ・ラマ3世
「3世」とはいうものの、「ダライ・ラマ」はモンゴル高原の有力者アルタン・ハーンが、1578年ソェナムギャツォに与えた称号なので実質初代である。
3世とされた理由は、彼が転生活仏(過去の偉大な仏道修行者の化身としてこの世に姿を現したとされる僧)として既に前世が2代あったため。
ちなみに4世はアルタン・ハーンの曾孫。
境内に入り、日本の仏教寺院との違いに胸が高まる。
↑東西南北を守る四天王だと思われる。
↑素朴な仏塔。モンゴル国、ロシア連邦ブリヤート共和国にも同じ形のものがあった。
↑日本にはない色使いのセンス。
↑ヤギがかわいい。車輪は「車輪が回るように仏道が広まる」などを意味する仏教の象徴。
↑モンゴル文字は縦書きで記すもの。ある程度上下のスペース必須。
↑仏教ツーリズムで訪れる西洋人がいるのか、英文もしっかり併記。日本人はあまり来ないと思われる。
↑チベットはラサの、歴代ダライ・ラマの居城ポタラ宮。在位中の14世は政治的事情から国外に亡命したため、現在は博物館として使用されている。
↑ゲルク派(ダライ・ラマの宗派)の開祖ツォンカパ(1357-1419)
↑モンゴル高原最大の有力者だった信心深いアルタン・ハーン。もちろんチンギス・ハーンの男系子孫。
↑ダライラマ4世(アルタン・ハーンの曾孫)。
↑この大黒天めっちゃ好き。
↑この躍動感。同じ仏像でも日本のそれとはコンセプトやマインドの違いが出ていて面白い。
↑仏具。日本と同じ物もある。例↓
↑後醍醐天皇が手にする金剛杵。
↑僕にとっては興奮する天井。
↑ツォンカパ PART2 やっぱり躍動感が好き。
↑慈灯寺。元朝以来の影響だろうか、本場チベットと違い建築様式はChinaっぽい。
↑表情がはっきりしている。
↑めっっちゃ好き。
↑以下同文。
半分China半分モンゴルにいるような不思議な感覚。
異国の仏教をさらに堪能するため次の寺院におかわりしに行く。
21.制服を着たチンピラ「城管」
五塔寺を出て少し歩くと…
城管。
城管とは、正式には「城市管理行政執法局」といい公安とは別の警察組織で、粗暴な振る舞いが多いとして有名。
公務員です。愚連隊ではありません。
ニューヨークに本部を置く新唐人TVが制作したこちらの動画もご参考に↓
制服を着たチンピラとも言われる城管は人民からかなり恨みを買っているようで、2014年には浙江省で城管がらみの大きい暴動が起きています。
金槌で市民を殴った城管を通行人が取り囲む→城管たち車内に逃げ込む→市民が車をひっくり返す→特殊警察が到着、城管5人を逮捕するも沈静化せず。
最終的には取り囲む人数が数千にまで膨れ上がり、手錠をかけられ逮捕されていた5人の城管は袋叩きにあい「意識不明の重体」。
暴行された城管の写真から判断するに、恐らく亡くなった可能性が高い。
中文の記事はこちら↓いきなり血みどろの写真が出てくるので要注意
http://jasmineplaces.blogspot.com/2014/04/116.html
実物の城管も見たがやはり怖く、日本にいたら893かと思うような人相だった。
22.モンゴル人からKOREANに間違えられる率
腹が減ったので昼飯。
↑葱爆羊肉。回族エリアで食べて気に入ってしまった。
隣のテーブルの男性客に『Korean?』と訊かれる。
『No, Japanese』と返すと、彼は『I'm a Mongolian』だそう。
後の話になるが、モンゴルではかなりの比率でコリアンに間違えられた。
モンゴルは韓国と経済的結びつきが強く、レストランに入っても韓国ドラマが流れたりしている。
ロシアではモンゴル人やカザフ人によく間違えられた。どこの国の人間に間違われるかで、その地と関係の強い国がわかる。
色黒で髭が長かったためか、トルコでは一度だけアラブ人に間違われる(しかも女性イスラム教徒に話しかけられる)という貴重な体験をした。
23.日本人とモンゴル人の宗教観の違い
1585年建立のダライラマ3世・4世の法座、延寿(シレート・ジョー)寺に向かう。
↑チケット売り場で爆睡するおばさん(達)。
素通りも出来たが起こして買う。この行為で僕が日本人だとバレただろう。
↑この旅何回目かわからない四天王。
↑素朴な印象。
↑仏教のシンボルである車輪と、ヤギ。
↑寺院を囲むマニ車。マントラを唱えながらこれを手で回転させると願いが叶うという。回しまくった。
↑すごい豪運を引き寄せてくれそう。
↑参拝者から丸見えな所にあるのがもの悲しい。
四天王像の前にもあった黄色のクッション。これは参拝時に膝をつくためのものです。
20代前半と思しきオシャレな格好をした男女が、ここで何度もひざまずくスタイルの参拝をしている姿を目撃。おそらくモンゴル系。
日本人との宗教観の違いを思い知った。
宗教観やマインド、セキュリティのゆるさなど、日本および日本人が特殊であることを日本にいると忘れてしまうが
テクノロジーも国際情勢も激しく変化するこれからの時代、その自覚がないのは非常に危険な事と思える。
↑寺院の前にある鮮やかな旗の群は「タルチョー」といって、チベット仏教における祈りの五色旗。
青・白・赤・緑・黄で順番は決まっており、それぞれが五大(天・風・火・水・地)を表している。
↑青・白・赤・緑・黄。
↑壁画もその配色。というか壁画に限らず全般的にこの配色で、それが普段目にする日本の仏教寺院との違いとして印象に残る。
↑現世利益は人民元でなくビットコインで差し上げて。
素人である自分の写真が下手で伝わらないのは当然だが、寺院にしろ教会にしろモスクにしろ、堂内に流れるあの「聖なる空気」はやはり行かなければわからない。
24.フフホトの起源と、モンゴルとチベット仏教が深い関係になったわけ
ちらっと名前が出てきたアルタン・ハーン。
名前からお察しの通り、フビライ・ハーンなどの○○ハーンは一部の僭称者を除いてすべてチンギス・ハーンの男系子孫。
1368年に元朝が漢地を失いモンゴル高原に退却すると、草原では元朝の後裔とフビライ家に恨みを持つ四大部族との抗争が始まる。
激しい抗争の後1510年にダヤン(大元)・ハーンがモンゴルを再統一。
元朝ゆかりの諸部族は、彼の息子たちを娘婿にとり、生まれた男子を次の部族長とした。
その代、つまりダヤン・ハーンの孫の代で最も力があったのがアルタン・ハーン。
彼の先鋒隊であったハルハ部族が、住地を今のモンゴル国に広げたのはこの頃。ハルハは現在モンゴル国民の8割を占めている。
「青い城」を意味するフフホトは、アルタン・ハーンの庇護下に入った 明の逃亡兵や農民や白蓮教徒が築いたChina式の城が起源。
前述したように、1578年信心深いアルタン・ハーンは、チベット仏教四大宗派のひとつ ゲルク派の高僧ソェナムギャツォと青海で会見し、彼にダライ・ラマの称号を贈る。
ダライはモンゴル語で大海のことで、智恵が海のように広いという意味。
チベット仏教は元朝時代にもモンゴル人に知られていたが、モンゴル人全員がチベット仏教徒になったのは
アルタン・ハーンが仏教に帰依したあとのこと。
ダライ・ラマ3世が亡くなった後、ゲルク派の一部急進勢力はライバル他宗派より多くの領主を施主にするべくアルタン・ハーンの曾孫をダライ・ラマ4世に認定。
こうしてモンゴルとチベットの関係は密接なものになっていった。
↑ウランバートルのチベット仏教寺院(ガンダン寺)
25.内モンゴルで体験する新疆フード
チベット仏教寺院を離れしばらく歩くと、イスラミックな建築が。
中にはホテルや飲食店、モスクも入っているようだ。
この建物のすぐ近くに新疆フードを提供しているお店を発見。
主人も従業員も風貌からして恐らくウイグル人。心なしか暗い顔に見えた。客との対応で笑顔は一切ない。
新疆ウイグルの政治状況が脳裏をよぎる。
買ったのはこれ。固く焼いたパンのようなもの。値段は5元(約90円)。
バターのような風味が少しする程度で、味は少し寂しいが値段とサイズを考えれば悪くない。
ウイグルに思いを馳せ複雑な気分のまま食べ終わって、フフホトの駅を目指して歩く。
↑モスクだったらしいが、中に入ったら完全に雑貨屋になっていた。
↑肉肉しい。ヴィーガンが見たら何て言うのだろうか。
Chinaとモンゴル・チベット・ウイグルの混ざり合う地、フフホト。
個人的には今回中国でまわった街の中ではここが一番好き。
26.国境の街エレンホトで感じた衛生観念の違い
再び夜行列車で国境の街エレンホトへ向かう。
フフホトに来た時よりさらに乗客がモンゴル顔になる。そして若い男の見た目がいかつい。
窓の外に見える景色はまさに辺境。
よくこんな所に街作ったなという印象だったが、フフホトではないが思ったより都会だった。
ちょっと汚い話をします。
朝方で尿意がもよおしてきたため、降車して目に入った公衆トイレに向かう。
ひとつだけ空いていた個室に入ると前の使用者の残していったものが。水洗ではないので流せない。
さすがにここではしたくないので、他の個室が空くまで待とうと外に出ると、入れ替わりで男性が入室。
…しばらく出てこない。
どうやら上に重ねているようだ。
訪れる前から知っていたが、衛生観念は日本と中国ではかなりの隔たりがある。
↑こんなわかりやすい標識見たことがない。
27.異文化混濁の不思議な街 初体験 バスでの中モ国境越え
↑フフホトで見られる看板はモンゴル文字と中文の併記だったが、エレンホトでは前述したキリル文字も加えられる。
この日に国境を越える予定だったのでバックパックを背負ったまま歩いていると、四駆に乗った髭づらの男たちから声をかけられる。
『Hey! Mongolia!?』
話を聞くと、彼らもモンゴルに入るらしい。
だがそれが本当かどうか確かめようがないし、本当だったとしてももし彼らが怪しい連中で出入国審査で面倒なことになったら困る。ということで断った。
その後も散策していると、キリル文字だらけのストリートを発見。
↑過積載にもほどがあるだろ。
↑ちょっと怖かったが、お腹空いてたのでここに入ることに。Монгол хоол(モンゴル料理)
従業員はみな女性で顔つきからおそらくモンゴル系。すごく不思議だ。本当にどこの国にいるかわからなくなる。
↑メニュー。漢字の表記は一切なし。頼んだのは写真一枚目の下から二番目のうどん。
味はかなり薄い。麺はコシがあって好きだが、浸かってるスープはモンゴル風ミルクティー。
日本人からするとかなり不思議な味。個人的にはうまくない。だが今まで味わったことのない異国感で満足。
うどんだけでは足りずまだ何か口に入れたかったので、いかにもローカルなファーストフード店にお邪魔する。
↑チーズ入りチキンを注文。まあ悪くない
掃除してたらもっと良かったが。
食べ終わった後、国境越えるにはどこへ向かえばいいか店主の奥さんっぽい人に尋ねる。
!!英語ペラペラだ。国境の街まで来てはじめてしっかり意思疎通できる人に出会った。
この人もモンゴル系だと思われるのだが、日中韓の美人とはまた違った顔立ちの美女。
ウランバートルに入って美人が多いと感じた自分は、結構好きな系統らしい。
はじめてしっかり英語が通じる・丁寧に段取りを教えてくれる・美女の3コンボで『惚れてまうやろ』化しかけるも、冷静さを取り戻し越境バスが発着するターミナルに向かう。
バスターミナルの前でダフ屋か客引きかよくわからないのが何人かいる。
『北京に行きたいのか?』
逆ですわ。カバン開けられるからあんまり行きたくないし。
荷物をX線検査装置に通した後でチケットを購入。
時間がきたので大型バスに乗車。理由はよくわからんが、走ってる間バス内のスピーカーからピーピー音が鳴ってて不気味。
途中ホテルに停車し、団体観光客らしき土産を抱えた大勢のモンゴル人が乗り込んでくる。
ザミンウード(モンゴル側の国境の街)からウランバートルに向かう列車の中でも、中国帰りのモンゴル人と思われる女性たちと一緒のコンパートメントになった。
彼らはよく中モを往来するのだろうか。
↑バスから撮影。モンゴル国でもそうだったが、砂ぼこりを気にしていては運転など出来ない地帯なのでこうなってる車が多い。
↑国境ゲート到着まで。
↑自動車で国境越えする人ら。島国の人間にはピンと来ない感覚。
↑チャリで越えようとする猛者も。しかしチャリでの国境越えはダメらしく、僕が乗ってる大型バスに自転車を乗せ本人も乗車してきた。
自分の隣に座ったので色々話を聞いてみると、彼Nickは26歳のニュージーランド人で仕事を辞め自転車旅行中。北京スタートでウランバートルまで行くという。
『日本と中国は食べ物も言語も全然違うよね。飯は両方うまいけど』なんて話をしていると、公安の黒い制服を着た男がバスに乗り込んできて乗客のパスポートをチェックしていく。
なかなかの威圧感。
チェックが終わると乗客はバスから降りて出国審査の建物に入る。
出国スタンプを押してもらい外に出たらしばらく待ってまたバスに乗る。もちろんNickも自転車とともに再乗降。
Nick『ヨーロッパだったら国境なんてすぐ越えれるのに。It's strange.』
同じ陸づたいでもこっちはちょっと事情が違うよ。
今度はモンゴル側の軍人がバスに乗ってきて乗客のパスポートをチェックする。
語弊を承知で言うなら彼の風貌は「人を殺しててもおかしくない」。
チェックが終わったらバスを降りて、入国審査の建物に入る。
入国スタンプを押してもらったら、同建物内で人民元をモンゴル通貨トゥグルグに両替する。
↑トゥグルグ。モンゴル人にとってチンギス・ハーンは英雄中の英雄。
入国審査施設を出て、ウランバートルでの再会をNickと約束。お互い別々のモンゴル旅を開始する。
モンゴル編(仮)につづく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?