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戦後教育を斬る!!(憲法夜話2)②

ルソーの絶望

フランス革命の理論的根拠を作ったことで有名なルソーは、当時のフランスを見て絶望すること甚だしかった。

教育なきところに、デモクラシーは生まれない

そのことを知っていたからである。

ルソーは「大衆が暗黒と貧困とにのたうっている一方、一にぎりの強者富者が権勢と富との絶頂にいる」(福田欽一『近代の政治思想』岩波新書 145頁)フランスの現状を批判し、平等な市民(citoyen)が主人公となる社会の到来を夢見た。

彼が考えたのは、人民集会による直接民主制である。

イギリスにはすでに議会制度がこの時代、かなり発達していたが、ルソーは「英国人は自分たちを自由であると思っているが、自由なのは投票の時だけであって、あとは奴隷と同じじゃないか」と言ってこき下ろしたほどだった。

ルソーは代議制はまやかしで、直接民主制こそが理想だと考えた。

ところが現実を振り返ってみると、フランス庶民は「自己にとって何が善か滅多にわきまえず、多くの場合自分が何を望んでいるかを知らない」(福田『政治学史』東京大学出版会 432頁)こんな愚かな大衆が政治に参加すれば、途方もない混乱が起きるのは火を見るより明らかだ。

こうルソーは絶望したのである。

社会主義や共産主義が手ひどい失敗を見せた今日にあっては、デモクラシーこそ最高の政治形態であると広く思われるようになった。

だが、歴史をひもとけば、デモクラシーはむしろ「最低の政治」と思われていた時期のほうが長いのである。

デモクラシー批判は、古代ギリシャのプラトンやアリストテレスにまで遡ることができる。

古代アテネでは「民主制(demokratia)」が行われていた。

20歳以上に人民は誰もが民会に参加して、ポリスの行政は抽選で選ばれた人民が行っていた。

無論、この当時のアテネには奴隷がいたわけだから、今日で言うデモクラシー(近代民主主義)とは違うわけだが、このアテネの民主政治を厳しく批判したのがプラトンであり、アリストテレスであった。

というのも、アテネの人々は自分たちのポリス(都市国家)をさかんに自慢しているけれども、はたしてそうなのか?

もちろん、王政や貴族政にもいい点もあれば悪い点もある。

だが、民主政治の怖いところは、愚かな民衆がその場の雰囲気や、口のうまい煽動者に乗せられてしまうと、やすやすと衆愚政治に堕すところである。

実際、アテネの歴史を見ても、そういうことがしばしばあったではないかというわけだ。

そこで、プラトンなどは理想の政治形態として「哲人王による支配」を唱えた。

すなわち、深い教養と哲学を持った最も優れた人物が支配するポリスのみが正義を実現できる。

これ以外の形態、たとえば民主政の政治では、いつまで経っても理想の政治など行えないというのが、プラトンの考えであったわけだ。

ワシントンを国王に推戴したアメリカ人

アメリカ独立宣言を起草したジェファソンは、ロック思想の信奉者であり、デモクラシーの価値をよく知っている人物であった。

だが、その彼にしても、どうしてもぬぐいきれない不安が一つだけあった。

というのは、アメリカの民主主義がはたして正常に機能するかという問題である。

たしかに、アメリカの植民地は輝かしい理想を掲げて独立した。

だが、その理想も人民のレベルが低ければただちに衆愚政治になってしまうのは目に見えているではないか。

いや、衆愚政治になるぐらいなら、まだましだ。

独裁者は、大衆の歓呼に包まれて登場する。

その代表例が、かのシーザーである。

ジュリアス・シーザーがローマの支配者になれたのは、結局のところ、民衆が彼を英雄として歓迎したからだった。

でなければ、いかにシーザーが軍人として優れていたとしても、ローマの支配者にはなり得なかった。

つまり、ローマの共和政こそがシーザーの産みの親だったのである。

アメリカが独立した時代、まだナポレオン・ボナパルトは現れていなかったが、ナポレオンが「共和国の皇帝」になれたのもまったく同じである。

民主主義は一歩間違えれば、衆愚政治になり、ひいては独裁者を産み出しかねない。

事実、建国当初のアメリカもそうした危険はあった。

というのも、独立戦争の英雄であったジョージ・ワシントンに「アメリカの初代国王になってくれ」とか「独裁官になってくれ」という声が少なからずあったからである。

もし、このときワシントンにシーザーやナポレオンのような野望があれば、アメリカの歴史は大きく変わっていただろう。

何しろ、ワシントンの武勇か赫赫たるものがあった。

寄せ集めの独立軍がイギリス軍に勝てたのは、ワシントンという稀有の指導者があったからに他ならない。

だから、彼さえ望めば、すぐにシーザーになることもできたはずである。

だが、幸いにしてワシントンには、そうした野望がなかった。

部下たちの国王に推戴しようという動きを押し止め、彼は「自分は軍司令官として任命されただけだから」と言って、戦争が終わるとさっさと辞表を書いて故郷に戻って行ったのである。

アメリカの民主主義が順調に発展していったのは、ワシントンという卓越した人物を初代の大統領に選んだことが実に大きいと言わざるを得ない。

というのも、1789年、実に万票を得て初代大統領に就任したワシントンに対する国民の支持は、ひじょうに高かった。

彼が望めば、終身大統領にだってなれたに違いない。

だが、彼は二期目の最後の年に自ら「告別演説」(フェアウェル・アドレス)を行って、次の選挙に立候補する気がないことを宣言した。

これが先例となって、アメリカでは「大統領は二期まで」という不文律が出来た。

これはのちに憲法修正第22条として明文化されることになるのだが(1951年成立)、今までアメリカにはシーザーが生まれなかった理由の一つとして、ワシントンという名政治家を最初に持てたということが大きいのである。

つづく

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※ この記事は日々一生懸命に教育と格闘している現場の教師の皆さんをディスるものではありません。

【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)

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