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「ああベツレヘムよ」の文語訳は天才の所業

今年も街は早くもクリスマスの様相。
キリスト教会の人間がようやくクリスマス集会の讃美歌を決めるかどうかという頃だというのに。
(今年も本番当日しか練習できない我々……)
(↓↓去年の記事↓↓)

今日は日本語の讃美歌―いや、文語体で訳された讃美歌の話をしたいと思います。


文語訳がはなつ宝玉の輝き

近年、口語訳の讃美歌が教会で歌われることが多くなってきましたが、
文語訳には独特の美しさがあります。
中でも抜群の完成度だと私が確信しているのが「ああベツレヘムよ」
その創意工夫の一端をご紹介します。
 
※かなり宗教的な内容(時事的な話も少しだけ)
※神とかはちょっと、という方はネコと和解してください↓↓

 
この讃美歌が日本に入ってきたのは100年以上昔のこと。
訳詞は歳月に磨かれ、たいへん格調の高いものになっています。
「文語訳はわかりにくい」という声はもちろん理解できるし、現代口語の讃美歌の必要性もわかるのですが、
現代口語では到達できない表現の密度・美しさは、捨て去るにはあまりにも惜しい。
1番だけでも見直してみませんか。

(「どんな歌?」という方に↓↓)


「静か」と言わずに「静けさ」を伝える

O little town of Bethlehem,
how still we see thee lie!
Above thy deep and dreamless sleep
the silent stars go by.

ああベツレヘムよ などかひとり 
星のみ匂いて深く眠る

和訳すると以下のようになるでしょうか。
「小さき町、ベツレヘムよ。なんと静かにお前は横たわっていることか。
 お前が深く、夢も見ずに眠るその上を、声なき星たちが通り過ぎてゆく」
 
歌うとなると、同じメロディに乗せられる言葉の数が圧倒的に違うので、逐語訳は不可能。
じゃあ何を伝えたいか、という問題になります。

「ベツレヘム」という小さな町の、静かな、静かな夜。
英語の歌詞に現れる”still”, “silent”は明らかに1番のキーワードですが、
文語訳ではなんと一言たりとも、「静か」と言わない。
代わりに、なんと言っているのか??
 
―「ひとり」。
 
「ああベツレヘムよ などかひとり 星のみ匂いて深く眠る」

これを現代日本語に直すと、こうなりますね。
「ベツレヘムよ、なぜお前はひとりで、星が輝く空の下、深く眠っているのか」
 
「ひとり」が、ベツレヘムという町の孤独、そして静けさを表している。
「ひとり」で「眠る」のだから、当然「静か」なわけです。
この翻訳のすごいところは、「静か」という語を使わず「静けさ」を完璧に印象づけられているところ……
私、そういうの大好きです!!
 
さらに、「星のみ」の「のみ」(原詞にonlyはない!)も孤独の印象を強め、静けさを表現しています。
 
これほど短い歌詞が、なんと美しく世界を描き出すことか!
 
(※「星のみ匂いて」の「匂う」は古文で出てくる視覚的な「匂う」
……子どものころ、「星の身において」かもしれないと思ってた……切るところから間違ってるね……こういうところが文語訳讃美歌が敬遠される原因なのか……いやいや、ちゃんと説明してもらえれば、十分理解可能じゃないですか……)

2000年の時を超えて

Yet in thy dark streets shineth
the everlasting Light;
The hopes and fears of all the years
are met in thee tonight.
 
知らずやこよい 暗き空に
とこよの光の 照りわたるを

和訳をしてみますとけっこう内容が豊富。さすが英語。
「しかし、お前の暗い街路に永遠の光が輝く。
 長年の希望と恐れは今夜、お前にあって報われるのだ」
 
で、日本語の歌詞は大胆にも、ラストをばっさり切っている!!
「暗闇に永遠の光が輝く」の部分しか訳してないんですよ!!
この讃美歌で最重要フレーズはthe everlasting Light、キリストのことですね。
光なる救い主がこの世にくだってきたよ、というメッセージ1点に焦点をあてています。
 
気になるのは「知らずや」という呼びかけ。
「知らないのか」。
オリジナルの英語には一切ない一言。
 
「知らずやこよい 暗き空に とこよの光の 照りわたるを」
「知らないのか。今夜、永遠の救い主がお生まれになるのだ」
 
そりゃ知らないでしょう。寝てるんだから。

この訳詞の特徴は、救い主が生まれんとする町で、何も知らずに眠る人々に対する、疑問文の形の呼びかけ。
「なぜお前は眠っているのか。お前のただ中に救い主が降誕されるのを知らないのか」
それは責めるトーンでは決してなく、むしろ温かさに満ちているように感じられます。
……あなたがたも知らなかったように、私たちもまた知らなかった。救い主が生まれたことを。
2000年の時を超えて、つながる私たち。
2000年の時を超えて、ベツレヘムの地で夜空を見上げる私たち。
 
何も知らずに、静かに眠る夜の町。
そこに照りわたる「とこよの光」――「救い主の誕生」。
すべて訳すことができないからこそ、技巧の限りを尽くし、聞き手・歌い手の想像力に訴え、極限まで研ぎ澄ませた歌詞。
 
数ある文語訳の讃美歌の中には、ぎこちなかったり無理があったりする歌詞も散見され、「ああ翻訳は難しい、特に英語⇔日本語は遠すぎて難しい」と思わされます。
でも、「ああベツレヘムよ」には、私から見て(素人目だけれども)、
ほとんどどこにも瑕疵がない。
まるで最初から日本語で作られたかのような自然さ。
一幅の絵のような美。
文語讃美歌の最高峰と言っても過言ではないのではないでしょうか。
 

「夜露」はどこから?

2~4節もたいへん美しく、ある部分ではオリジナルを超えてるんじゃないか、と思われるほど。
あと1つ、これだけ言わせて!
 
3番の文語訳「しずかに夜露のくだるごとく」は至高の名訳。
オリジナルには「夜露」なんて全く書いていないんですよ。
ではどこから「夜露」が下りてきたのか。

考えられるのは、
①この讃美歌の情景が「夜」だということ
②「恵の露」というキリスト教定番フレーズ

この2つを組み合わせて英語の“wondrous Gift”「すばらしい贈り物」を表現したのではないか、ということ。技巧の極み。

ああベツレヘムよ - Wikisource ←これを見ると、
「静かに恵の露はくだる」(1910年、1931年)
     ↓
「静かに夜露の降るごとく」(1954年)
と、あとから「夜」が加わってより絵画的になったことがわかる……)

くだる」は4節の「今しもわれらにくだりたまえ」とも呼応していると考えると、
……ただただ感動ものの翻訳です。
 

以上!
ここまで読んでくださった方がいらしたら、感謝です!
 

日々祈りもて 主に請いまつれ

……というところまで、ずっと以前に書いてあったのですが。
2023年11月現在、ガザではイスラエル軍による攻撃が続いています。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」

(マルコ10:14)

なぜ戦乱が起こって、それが今も続いているのか、私はその答えを持ちません。
しかし、主イエスが手を置いて子どもたちを祝福された地で、こんなことをしていてはいけない。
 
私にできることは少額の寄付や署名活動くらいなのですが、与えられた自由意志をもって、日々祈り、取るに足らないと思えても、行動したいと思うのです。
 

ああベツレヘムの きよきみ子よ
今しもわれらに くだりたまえ。
こころをきよめ 宮となして
今よりときわに すまいたまえ。



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