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究極の接客業から教わる人生の幸せのきっかけ

はじめまして。
コマと申します。今日は今のお仕事までのコマの自身の深い深いナイーブな部分を含めて書きます。
今の技術や話術、特技が結ばれるまでの私の生き方。
現在の在り方までを曝け出しつつ

そんな生き方だったんだな。
こんな生き方もあるんだな。
意外にこんな人だったんだな。
意外とそんな人もいるのか。

いろんなお声を聴いてみたい。
そんな気持ちで、
私の現在の仕事に出会うまでの人生の
ちょっと変わったお話を書いてみます。

みなさんも生まれてこの方、
辛かった日なんて正直めちゃくちゃあると思います。
私にとってこの話はどこにでもある良く在る話です。
良く在る話ですがこの時、学習したことを改めて振り返りたくて書いてみますね。

産まれて息苦しかった子供時代

私は産まれてすぐお母さんとお父さんを弟に持ってかれて
すごく寂しい。けど素直になれない子供でした。

良く在る話です。

...というのも弟は年子で産まれて、私が1歳になる前に不服にもお姉ちゃんになってしまったのです。
もう当時は弟が大嫌いでした!
すぐ泣いたらお母さんお父さんにかまってもらえる。
面白くなくて意地悪する。
弟が泣く。怒られる。

そんな理不尽だなって思ってた赤ちゃん時代です。

そのおかげか私は他者から愛情だったり、好意を欲してたみたいです。
とても人懐っこい子供でした。
すぐ他の子供達と仲良くなって、
その親や教師にも“良く”思われるような、
“いい子”を演じてました。
親に褒められたいがためにその頃は一生懸命に勉強も頑張ってました。

良く在る話です。
でも、子供の頃に感じてた違和感がありました。

「活発なこどもで偉いわね」

子供ながらに「おとなしい」「静か」な友達が不思議でした。全然理解できませんでした。

「何で黙ってるの。」

すぐにだんだんイライラしたり、
癇癪が起きるようになってました。
でも、なぜか
早生まれの未熟児で産まれた自閉症の弟の話さない言葉が理解できるようになってたと自覚できたのはこの頃だったと思います。
理解できるからこそ、
イライラしてました。子供ながらに。今でも覚えています笑

弟の自閉症は、やはり“普通”に産まれた子供よりも知力発達が遅い障害でした。

やはり母親は普通に産まれた子供よりも気にかけるものでした。

爆発したのが、
小学校6年生の頃。
朝が弱い子供でしたが、
この頃やはり異常なほどにイライラして起きれない。学校に行けませんでした。
成績は問題なく、友達も居なかった訳ではなかったです。逆に学年委員長だったり学級委員として行かなきゃ行けない立場というか...
楽しい小学生生活のはずなのに。

この頃ハマってたのはネットでした。
ゲームや動画、お年玉を貯めて初めてノートPCを買ったのが4年生。
生活が崩れるほど熱中してしまった6年生でした。

親はもちろん激怒です。
関係性が悪くなり、暴言、暴力の日々でした。

ここまで何にも普通の良い子で生活してた訳で、
単に反抗期だろう。
この時、私に障害があるなんて誰も気づく訳がありませんでした。

中学校1年生。
地域外の中学校に行き、誰も知らない友達も居ない環境で一から友達作り。
全く苦労もせず、最初に少し一緒に通学しただけで、保健室登校やがて不登校な私を気遣ってくれる親友も3人もできました。

ですが、
この頃から親と関係性のストレスや寂しさ、心が辛くて悲しい気持ち。世間から感じる恐怖の感情
プレッシャーに押し潰されて、
初めて死にたいと。
子供ながらに感じ、軽い自傷行為を覚えてしまいました。
保健室の先生も心配して精神科へ通院を進めました。
ここで私の障害や病気が分かってきます。


ADHDと双極性感情障害

一時期前に話題になってた気がします。
うつ病、躁鬱病、大人の発達障害、ADHD、アスペルガー、精神病の生きづらさ、などなど...。

もう13歳からこの病気や障害振り回されて生きることになりました。

病名は「ADHD」「双極性感情障害」

どんな病気で障害かは、説明しつつ書いていくので省略させていただきます。

いわゆる、躁鬱病なのですが、
私は病気だと自覚できたのは自傷行為によるうつ病からでした。
幼少期の活発な頃から軽躁状態だったのではと言われればそうかもしれませんが。

主治医の話では
元々がADHDで、社会に出てADHDの行動や言動が裏目に出て社会とぶつかり始め、躁鬱が悪化したもの。
の様な説明を受けました。

躁鬱は脳の物質の循環の流れで起こる病気です。


さまざまな原因は有ると思います。
ストレス、家庭環境、
暴力による脳への衝撃、投薬、
何が原因かは分かりませんが。

身体はもう普通には生活ができませんでした。
16-18歳、高校には行かず。
入院もしました。
闘病生活と言いますか、社会復帰を目指す日々が始まりました。

退院後に、病院の「デイケア」という場所へ通うことになりました。

仕事へ。社会へ。繋がるまで。


この病院のデイケアでは、
障害や病気により、休職してる人。
家庭から少しでも距離を置いて、病気を治したい人。
私と同じまだ社会に出てない人。
さまざまな年代の方がいました。

私のこの時の病状は、まだ感情の波が大きく、
投薬により日常は起きて活動していられるが、
かなり記憶力がなく仕事を覚えられる様な仕事ができる状況では無かったため、
デイケアでの生活を推奨されました。

デイケアでも年齢問わずすぐ仲良くなれる方達でいっぱいでした。
コミュニケーション能力だけが取り柄でした。

心を許してもらえるのが得意になりました。

そこで休職してる人達からの
「仕事での嫌だったこと」「病気と壁」「世間の理解」「会社の仕組み」

家庭から距離を置きたい人の
「様々家族の形」「距離感」「いろんな親や伴侶」「育児の大変さ」

デイケアスタッフさんからの
「社会の仕組み」「礼儀やマナー」「落ち着いた行動の仕方」「病状が悪化しそうな時の対処法」

様々なことを学べました。
カウンセリングにも通って、人の話を聴く力や方法も更にここで真似事ができたり、学べたと感じます。

何よりも
人への、心への関心が高まりました。

この時期が今の仕事への私のマインドに繋がり始めましたと(今思うと)感じます。

2年くらい経ちました。
最初は記憶力が悪く、メモ帳や携帯を首からぶら下げて歩いてる様な少女でした。

ですが、恋人もできたり、
病状も寛解し、記憶力も抜群に戻り
企業への就職も無事できるように社会へ復帰出来てきました。

初めての企業への就職

アルバイトは今まで挑戦したことがあったのですが、物覚えの悪さからクビになったり
仕事、業務への不安がとても強かったのを覚えています。
デイケアや病院での訓練やアドバイスやサポートを受け、
企業に雇って頂きました。
最初は単純作業のお仕事でした。
尚且つ、活発な私にとってはもうその頃にはとても簡単過ぎて通常の人よりも3倍以上のもの凄いスピードで仕事がこなせました。
初めての自分と社会への自信になりました。

2、3年ほどが過ぎ、
様々な作業や仕事を覚えました。
この頃にはデイケアも卒業していました。
病院へ行く回数も月1回に収まりました。

綺麗事を言えば、
更なる高みを目指したくなりました。

実際の本音は、飽きていました。

同じ通勤路、
同じ場所、
同じ環境、
同じ人達。同じ給料。

もう滅入りそうでした。

その頃に、SNSやブログで派手な生活、美しさに囲まれた、今の環境の自分とは裏腹な方達に憧れて夢見てる自分がいました。
気がつけば、そこは社会のアンダーグラウンドの様子。

ですが、飲み屋のアルバイト面接に応募して採用されていました。

馬鹿真面目で陰キャな私には眩し過ぎる不思議な世界でした。
そのお店はとてもスタイルの綺麗で顔も美人なその歳とは思えないママが居るお店でした。

全くこの頃はお仕事を接客業をべろんべろんに甘ったるく軽視していました。
お給料が貰えてればラッキーくらいの本当に惨めなキャストでした。

ですが、自分のお店を守らなきゃいけない、
他のキャストの生活を保証しなければいけない責任のあるママは、もちろん私に厳しくなりました。

仕事ができると勘違いして調子に乗ってる私に
1から教えてくださりました。

まず姿勢。
女性である意識。
見られている視線。
謙虚さという美しさ。
お客様が求めているもの。
お給料はお客様の時間とお金をいただいて、
それに見合ったサービスをしてからのお給料だと言うこと。
他のキャストへの配慮。仲間意識。
気配り目配り心配り。

正直びっくりしました。
私は仕事ができてると思い込んでいたからです。

「言われたことだけをやる」

そんな社会で生きてきた私に、

「自分で考え自分で動く」

それが必要な仕事や社会があるなんて。

本当に仕事ができるとは何か?
考えました。

ただただお給料を頂くことからの執着よりも、
私は
この接客業の世界でプロになってみたい。

そう思ったのでした。

お客様から喜んでもらえた喜びや嬉しさ

私は職場を変えて、
究極の接客業を自分で考え、自分でしか動けない。
そんな夜のお仕事に身を置きました。
もちろんお店の初めということでの流れのサポートはございますが、

私が身を置いたお店は、
「女の子に任せる。」
まぁ干渉しない当たり前のお店でした。

そこでは話術やコミュニケーションも活かせて
程よく自分に見合ったお仕事ができていました。

やりがいは、
お客様が満足した分お給料に反映されるところと、
いろんな世界で生きれる人と会話が出来ることでした。
とても勉強の日々で楽しかったです。


そんな中、
プライベートで、お昼のお仕事での誘いが有りました。

普通の営業の社員です。

もちろん接客業のお仕事が私もやりたいこととは言えど、
長く続けるお仕事とは考えられていませんでしたので、
一旦夜の接客業を辞め、

営業という未知の職場に飛び込みました。
その会社の社長は女社長で、
とても面倒見が良く
とにかく気にかけてくださってました。

社長も元キャバ嬢だったということもあり、
話も合うし会社運営について、ビジネスのことについても色々と教えて頂きました。

営業のお仕事では
「交渉術」
「売り上げの仕組み」
「得する人と損する人」
などまた学べることが沢山あり楽しかったです。

ですが、1年半年した頃でしょうか。
元々小さな会社だったのですが、
成績も私がトップで伸ばして社長のルイヴィトンが増えてく一方で、
不満を感じる私がいました。

やはり頑張った分還元されなきゃしんどいな...。

売り上げを上げて喜ぶのは社長1人だけ...。

私はやりがいを完全に見失い、また夜のお仕事へ戻りました。

またやるからにはトップを目指したい

今まで1位に憧れはありましたが、
そこまでの実力はありませんでした。
なぜならそこまで本気でする必要は無かったからではないかと思います。
どこかで損得感情や、リスク&リターンを考える人間です。

でも私は自分の限界が知りたくて、
いろんな技や工夫を磨きました。
出勤もできる限りして、たくさんのお客様を掴む実力を手に入れられました。
1位にもなれた頃。

更なる接客業の極みを〜!
と考え...

女風SPAWhiteオーナーのあす香さんと出会いました。

女風との出会い

粘膜接触なしで女性を、性的に喜ばせる....。
心を満たす...。
絶対難しいじゃないですか...。

この頃から私のマインドはだんだん出来上がりつつ居ました。

私が沢山の「きっかけ」を戴いて人生や価値観で素敵なことに「気づく」
「気づいた」幸せ。

私にとってそれが幸せ。

これが私の生きる野心です。
今までの人生振り返って
誰かの何でも良い、何かを感じる

きっかけ

になれたら
私の存在は私を生きれる。

それをお仕事でできたら...
この究極の接客業を。

人と嫌でも接しなきゃいけない。
見つめ合わなきゃいけない。
離れてく人もいる。
でも出会いもある。
辛いこともある。
難しいこともある。

けれどを通してそれが学べ合えたら
感じ合えたら

それ以上の幸せないじゃないですか?

キャストを抱える責任。
お客様へ確実なサービスを提供する責任。
考えると大変なことばかりですが、

私は今Twikleオーナーとして、

仕事を通して

人として

生き方として

まだまだ始まったばかりですが、
一歩踏み出します。



生きてる間に誰かと素敵なきっかけをできる限り分かち合うために


#この仕事を選んだわけ

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