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『明日、私は誰かのカノジョ』と、毒親と絶交後も人生甘くない現実

をのひなおさんの『明日、私は誰かのカノジョ』が17巻で完結し、もう終わってしまうのかという寂しさと、不完全燃焼を感じている。

ようやく山場を越え、これからますます目が離せない展開が沢山あってもおかしくないのに。

……そう思ってしまうのは私が個人的に、毒親と絶交した後も苦悩は続くのが現実的だと感じているからだ。

「なんで私を捨てたの」「今度は私がお母さんのことを捨てる」と、母親と対峙した主人公。

毒親との間に境界線を自ら引くことは重要なことで、人生を好転させてゆくために必要不可欠な過程だと思う。

ただ漫画のエピローグで描かれているように人生が上手くいくことばかり……ではない。

再びドン底に叩きつけられる過程が幾度もあったりする。

人それぞれなのだろうが。

少なくとも私は、毒親と5年前に絶交できた後も、苦悩は続いている。

日常生活の中に毒親を彷彿とさせる言動を他人から見聞しただけで、トリガーになり、あらゆるトラウマ症状を発症する。

それを回避するために、ニュースも見ないし、他人との接触も最小限に止めようとしてる。

日常的な虐待によるトラウマ反応は、毒親との絶交だけで解決できるような、甘っちょろいものでもない。

私は一生それと向き合うという腹を括らないと、いちいち絶望して、自分や周囲の人を攻撃したり、自己嫌悪からこの世を去りたくなってしまったりする。

希望は持ちつつ、期待はせず、精神科医に通い、セラピーを受け、複雑な感情を言葉にして発信したいりして、日々を繋いでる。

毒親と物理的・精神的に距離を置いた後も、虐待の記憶が心身を如何に蝕み続けるか、複雑なリアルを私は実体験を元に描き続けよう、と改めて思わされた。

余談

「私、自分の体を傷つける人、苦手なんです。リスカとか。」と言っている人の低い言葉が気になった。普段うるさいくらいに陽気な人だ。

「ああ、この人のこの感覚は真っ当なんだろうな」と思った。家族と仲良いとも言ってたし、虐待なんて受けたことがないんだろう。

私はリストカットこそしたことないけど、自分の心身を傷つける多種多様な言動を無意識にしてしまうタチ。だけどそのことを打ち明けることは滅多にない。

私とこの人は生い立ちから違う。

でも、この人の感覚も、私の感覚もどちらも当然。

それぞれの生い立ちによって苦手なことや、当たり前なことが違うだけ。
ただそれだけだ。

本作にもリストカットで腕に無数の傷を負っているキャラクター「ゆあ」が登場しているが、やはり機能不全家族出身。

不思議だ。

私も機能不全家族出身だけど、だからこそ、子どもの幸せが尊重される家庭が増えることを心から望んでいる……はずなのに、実際にそのような人を目の当たりにすると、嫉妬心からなのか、嫌悪感さえ感じてしまう。

恵まれた家庭環境に育った人は、恵まれなかった人たちが透明人間のように存在していて、その能天気な言動で、密かに傷つけていたりするということを想像もできないんだろう、という卑屈さから来ている。

そういう意味では、私も誰か他の人に比べて、恵まれている要素を持っている場合もあるし、それゆえ悪気もなく無神経な言葉を知らないうちに発しているかもしれない。

そんな取り止めのない考えが、人の何気ない会話から脳裏をよぎってしまうのも、私の日常茶飯事。


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