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「次に進むための、次に誰かに想いだったり仕組みをつなげていくための、大事な作業だと思っています」 石垣島、それでも声を上げる〈前編 〉

 2022年9月15日、那覇地方裁判所(福渡裕貴裁判長)にて「石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票において投票することができる地位にあることの確認請求事件」(以下「当事者訴訟」と表記)第6回口頭弁論が行われました。

原告の1人、金城龍太郎さんの報告会でのお話を映像(約6分)でお伝えします。またその背景として、現在の裁判にいたる経緯を以下に記しました。石垣島の住民投票を求める市民運動は、そもそもどのような意図から生まれたものだったのでしょうか。

日本最南端の石垣市は、亜熱帯気候に属し、四方を珊瑚礁に囲まれ、於茂登連山に抱かれた自然豊かなまちです

「石垣市自治基本条例」より

■石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画

 石垣島のほぼ中心に位置する於茂登岳。多様な島々からなる沖縄県内の最高峰で、麓には、パイナップルやさとうきびなどが育つ豊かな農村が広がっています。そこには小学校もあり、自然と触れ合いながら子どもたちは育ってきました。

 しかし今の地域、それぞれの集落の礎を築いた先人たちの苦労は、想像するに余りあるものでした。戦前、戦後に石垣島に渡って来た人々。沖縄島、宮古島、与那国島、そして台湾など様々なルーツを持つこの方々は、石だらけの荒地を耕し、水をひき、家をつくり、子どもたちの教育のために奔走しました。沖縄島から海を渡った人々のなかには、多くの住民が犠牲を強いられた地上戦を生き抜き、戦後は米軍に家や畑を軍用地として奪われ、貧しさから新たな土地を目指した人たちがいました。

 2015年、防衛省は、南西諸島に自衛隊配備を進める計画の一貫として、石垣市にミサイル部隊を含む陸上自衛隊配備への協力を要請しました。このとき駐屯地の候補として指定されたのが、平得大俣。於茂登岳の南側の麓地域です。周辺の開南、嵩田、川原、於茂登の4集落の公民館は反対の声を上げましたが、2018年7月、3月に3期目に当選していた中山義隆市長(現職)が、この地域への配備受け入れを表明しました。

基地建設工事が進められる平得大俣(2022年9月撮影)

▪️石垣市住民投票を求める会

 市長選・市議選において、市長や与党系議員のほとんどが積極的な受け入れは表明しておらず、ワンイシューで配備問題が問われたことはありません。また、なぜ「平得大俣」が選ばれたかが明らかにされてきませんでした。島の中ではまだ、この場所に基地をつくる計画があることを知らない人も少なからずいたし、知っていても話題として触れづらい空気がありました。

 このような状況下、2018年10月に「石垣市住民投票を求める会」は生まれます。このとき代表に選ばれたのが、嵩田地域で育ち、農業を生業とする金城龍太郎さんでした。 会は「石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票」の実施に向けて署名運動を展開しました。賛成も反対も大事な島の人たちの声、自分たちの地域のことは自分たちで話し合って決めようと市民に参加を呼びかけたのです。
 住民投票の目的は、結論を出すこと以上にそのプロセスにありました。一人ひとりが意見を表明でき、異なる意見も認め合い、島の社会のなかに自然と議論や対話が生まれるきっかけになってほしいと。

 金城さんらの署名運動は、歌やコント風の街頭演説やSNSでの発信など、ユーモアを大事にした明るいものでした。それは次第に市民の目にとまり、幅広い層に共感の輪が広がります。署名した最も若い市民は、高校生でした。

 定められた11月の1ヶ月間に、14,263筆の署名が集まりました。市の有権者の3人に1人が住民投票実施を求める意思を示したことになります。これには集めた本人たちも驚いたといいます。市自治基本条例第28条で定められた「4分の1以上」を大きく上回る民意でした。潜在化した声なき市民の思いの表れと受け取ることができるのではないでしょうか。12月。彼らはそれを中山市長に託しました。

 石垣市の住民投票は当初、2019年2月の「辺野古」県民投票との同日投票実施を目指していましたが、同月、石垣市議会は、住民投票条例案を否決(賛成10・反対10の同数による議長採決)。しかし、市自治基本条例28条に定められた市長の実施義務(詳細は後編)は、議会の否決により効力を失うものではありません。にも関わらず、住民投票がその後行われることはありませんでした。

 2月の実施には、高校3年生の有権者たちに1票を投じてもらいたいという、金城さんたちの強い想いもありました。石垣島では、就職や進学のため、高校を卒業した市民の多くがいったん島を出ることになるからです。故郷の未来に、自分たちの意思を示す。そのような経験が旅立つ前の尊い経験になる事を、彼らは願っていました。

 翌3月。防衛局は、平得大俣で駐屯地の造成工事に着手します。住民はもちろんのこと、専門家からも必要だと指摘されてきた環境アセスメントは行われませんでした。
 虫の声、鳥の声、時折風が畑を抜けていくざあっという音に混じり、岩を砕く鈍く低い音が地域に響きはじめました。

▪️「住民投票」義務付け訴訟と当事者訴訟

 2019年9月、住民投票を求める会を中心とした市民30人は、市長への住民投票実施の義務付けを求め、訴訟を提起します。しかし那覇地裁は、約1年の審理ののち、2020年8月に却下判決を言い渡しました。コロナ禍のなか、金城さんたち原告団は、那覇地裁への出廷を自粛して石垣島で連絡を待ち、心を寄せる地元の市民、市議、記者らに直接報告をしました。

動画『僕らは話したい、そして聴きたい。〜石垣島住民投票・一審判決ドキュメンタリー〜』

 この後、福岡高裁・最高裁は、地裁判決を支持するかたちで控訴・上告を棄却。しかしそもそも「却下」判決は、「市長の実施義務」という本丸には踏み込まない、判断しないということです。

動画『“私たち” に起こっていること 〜石垣島住民投票・控訴審判決ドキュメンタリー〜』

 会は、よりシンプルに司法にその判断を求めるため、2021年4月、新たに当事者訴訟を提起。口頭弁論期日を重ね、この度の第6回を迎えるに至りました。

🎤 第6回口頭弁論後・金城龍太郎さんスピーチ全文

 原告の金城です。どうもありがとうございます。
今日本当にラッキーだったなと思ったのは、台風が去ってくれて僕たちがこうやって那覇に来て出廷できたということ。また今日家を出る前にちゃんとヒゲを剃ってきたということは、まさかマスクを外すことになると思っていなかったので、ほんと朝まで(鼻の下を指して)草ぼうぼうだったんですけど、ほんとにラッキーだったなと思っています。

 話は変わりまして、先日、ずっと一緒に住民投票のことで活動してきた川平成雄さんが、お亡くなりになりました。署名を集める段階から請求代表者として、また裁判(前回の義務付け訴訟)になっても原告の一人として、ずっと会を支えてくれた、とても頼りになる先輩だったので、いなくなったことで川平さんの存在の大きさをひしひしと感じさせられます。
 また来月、10月で僕たちが会を結成してから4年になります。4年間のあいだに子どもができたり、こういった大事な人が亡くなったり、開発が進んだり、自然を守ろうとする動きが活発になったり。何かがなくなりまた何かが生まれてというような、すごく目まぐるしく変わってきた4年間だったと思います。
でもこうして川平さんが今までやって来たことは、すごく僕たちのなかにのこっていて・・。今年は復帰50年なんですけど、この50年のあいだに沖縄もものすごく目まぐるしく変わってきたなかで、でも先輩がたが一生懸命やって来たことというのがどんどん受け継がれて来て、僕たちが今、こうして生活できているんだなということも、ひしひしと感じました。
 僕たちがいま権利を主張している住民投票のことについても、すごくもがいたり停滞しているようには見られがちなんですけど、やっぱりそれも次に進むための、次に誰かに想いだったり、仕組みをつなげていくための大事な作業だと思っていますので、きっと僕たちが先輩や先祖の姿をみて、大切なものを受け継いでこれているように、僕たちの動きもまた、誰かにつながっていけるように、これからも頑張っていきたいと思います。
がんばります。よろしくお願いします。

義務付け訴訟控訴審判決後(2021年3月撮影)


▪️故・川平成雄(かびら なりお)さんについて

1949年 与那国島に生まれる。
1986年 法政大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
元琉球大学法文学部教授。専攻 沖縄社会経済史 
2022年、没。 
【主な著書】
『沖縄・一九三〇年代前後の研究』(藤原書店、2004年) 
『沖縄 空白の一年 一九四五-一九四六』(吉川弘文館、2011年)
 『沖縄 占領下を生き抜く 軍用地・通貨・毒ガス』(吉川弘文館、2012年)

「戦後沖縄生活史事典」(吉川弘文館)より

 川平さんは、2018年、40年ぶりに石垣島に戻り、同年結成された石垣市住民投票を求める会の活動を支え、島の自治と民主主義のため尽力してこられました。石垣島で過ごした晩年の川平さんの姿を伝えた、八重山毎日新聞のコラムをご紹介します。

「眉が太く、いかつい感じ。専門も経済史などと難しそう。17日に亡くなった元琉球大学教授の川平成雄さんに対する最初の印象だった。2018年に約40年ぶりに石垣島に戻り、緑豊かな島が破壊されていると自然環境や住民自治を守る活動に積極的に取り組んできた・・」
2022年7月23日付「不連続線」(比嘉盛友記者)より

2022年7月17日、川平成雄さんは、胃がんのため72歳でその生涯を閉じました。亡くなられたひと月後には、編著『戦後沖縄生活史事典』(吉川弘文館)が出版されています。

後編に続く)

文・写真・映像/ 蔵原実花子


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