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僕の過去を大公開編①(爆誕~小学校時代)

どうも!Takeyuです!
前回の記事では、僕のビジョン・noteでやりたいことを軽く頭出しさせていただきました。

まだ投稿から1日足らずなのですが、
なんと、、、、、

150名の方から「すき」をいただいています、、、!!!

これだけ多くの方に応援してもらえて、
やっぱり自分のやろうとしていることは間違っていないんだ
と改めて実感しました。

そして、この夢が僕一人のものではなくなった瞬間でもあることを、
強く受け止めてもいます。

なのでより一層、これからも精進していきたいと思ってます!
これからもよろしくお願いします!!!

といいつつ先に謝っておくのですが、はっきり言って、
前回の記事では、僕の伝えたいことは、まだ5%も話せていません。。。

僕のビジョンだったり、なぜそれを叶えたいだったり。

それは1つの投稿でまとまるスケールではないし、
僕の20年強の人生史とも密接に関係していて、そのあたりも説明する必要があります。

なので、今回の記事からは、「僕の過去を大公開編」をスタートさせます。

今回は、「たけゆう爆誕~小学校卒業」までです!

ではでは、スタート!!!!!!!!!

🔶たけゆうの歴史

①爆誕~幼稚園

1997年4月、
福岡県大牟田市の病院で、たけゆうが誕生します。

3300kgくらいで、標準かな?気持ち大きめかな?くらいの
赤ちゃんだったらしいです。

僕の家庭は転勤族だったので、
最初は埼玉で生活し始めることになります。
(福岡で生まれたのは里帰りして出産だったから、でした)

物心がついたのは2、3歳くらいの時で、
この頃のたけゆうがどんな子だったか、一言でまとめると、

「地域で一番ビビりな子」

でした。

基本、初対面の人を見るとワンワン泣いていたし、
マンションで隣に住んでいたおばさんは仏のような人だったらしいですが、
その話を聞くまで僕の脳内にあった記憶は「やまんば」でした。

(冷静に失礼過ぎるよね。。おばちゃん、この投稿見てくれてるかな。。
優しくしてくれたのに、謎に鬼の形相で泣いててごめんね。)

そのくらい、相手が怖かろうが優しかろうが、自分の家族以外は全て、恐怖の対象。
そんな気の弱い子でした。

3歳になると、
僕はまた親の転勤の関係で、広島県に引っ越します。
4歳まで広島にいたのですが(期間短すぎん、、?)

4歳といえば、幼稚園に通い始める年です。

「幼稚園に通い始めたらちょっとはたくましくなるんじゃない??」

普通はそう思いますよね。

、、、全然だめでした。

朝、送ってくれた母親と離れて幼稚園の教室に向かう時、
正門の前でワンワン泣いているような子、
皆さんの周りにも1人くらいはいませんでしたか?

その「1人」が、まさしく僕でした。
僕が通っていた幼稚園では、そんな子どもは僕だけでしたね。。笑

当時の僕には、先生すら恐怖の対象でした。
幼稚園の先生って今思えば超優しいイメージですけど、
当時はひたすら、
怒られないように怯えながら過ごしていました。

なので幼稚園で怒られたのは1度だけでした。
(子どもながらにすごいリスク回避力、、笑)

ちなみにその1回は
「間違って外靴で廊下に上がってしまい、注意された」
でした。笑

超軽めの注意案件なのですが、
当時の僕はワンワン泣いてましたね。。笑

さてさて、そんなこんなで時は立ち、
5歳になる頃には、またまた転勤で、
今度は福岡県に住むことになります。

ここでも相変わらずのビビりマンは健在です。

福岡では、
父の勤め先の世帯が集まる社宅に初めて住むことになります。

その社宅には小さな公園があって、
子どもたちがあつまるのですが、
その公園を仕切っていたのは、超気の強い「The ガキ大将」みたいな人でした。リアルジャイアンです。

なので、福岡でも僕は、常に怯えながら、

いじめられないように、なるべく目立ったことはせず、相手に合わせる

そんなスキルを半ば強制的にですが身に付けました。

そんな感じで、幼稚園時代はひたすら恐怖に支配されて生きた3年間だったと思います。

ビビりマン以外、特徴無かったの?
という声も聞こえてきそうなので、
僕が周囲から「変わってるね」と言われるエピソードを、
最後に1つ。

これは今も変わらず持っている性質なのですが、
僕は4歳の頃から、
「死ぬときのイメージ」というか、
死生観みたいなものを鮮明に持っていました。

たとえば幼稚園の年少時代、
教室の隅でぼーっと外を眺めながら、

「どうせこの人生も一瞬で、
 またあっという間に次の人生がやってくるんだろうな」

って考えていた記憶が鮮明にあります。

こればかりはなぜなのかわからないですが、
僕の生まれ持った本能なのかもしれません。

この本能的な何かは今の僕の生き方にも密接に関係していて、

「どうして若いのに、そんなに俯瞰的に先のことまで考えているの?」

みたいな類の問いをよく知人からされるのですが、
若いからというより、幼少期からだったなあと、
今このnoteを書きながら納得しています。

※今思えばこの頃から、
すでにちょっと周りとは違ってたんだなと思いますが、
この頃にそれに気付くわけもなく。。

このあたりの話は続編にて色々響くので、ご期待ください。笑

②小学校時代

小学1年生になるタイミングで、また引っ越しをします。

転勤先は大分県の別府市。温泉街として有名ですね。
小1~小3まで、ここに住むことになります。

今度は社宅ではなく、マンション住みです。
いじめっ子のガキ大将もいなくなりました。超安堵です。

別府市は温泉がたくさんあるからか、
とてもゆったり時が流れていて、温厚な人が多い環境でした。
(理由は絶対違いそう)。

なのでこの頃から、
極端すぎるビビりは、少しずつ解消傾向に向かっていきます。

なんですが、ここでも性格の根っこの部分は変わりませんでした。

転勤族だったこともあり、

周りから浮かないように。いじめられないように。
極力自分を表現せず、出来るだけ目立たないように。

そう考える癖が抜けなかったからです。

例えば、
僕は子どもの頃から足は速かったので、
小学1年生からリレーの代表選手に選ばれたりしていたんですが、

僕以外はめちゃめちゃ喜んでいるのに、
僕だけ走りたくない、人に見られるのが怖い、と泣いてました。

里帰りで祖父母の家に行った際も、
祖母から「順番にピアノを演奏しよう!」(with 同世代のいとこたち)
というイベントが開催されたのですが、
いとこたちは全員演奏する中、僕だけは演奏するのを拒み続けて、
絶対に弾きませんでした。


このままずっと、こんな感じなのかな。。
小学生ながらに薄々とそんなことを考えていた時期もありましたが、

小学3年生になるタイミングから、
僕の性格はどんどん変容していきます。

小学3年生になるタイミングで、
今度は千葉県に引っ越します。

ここではまた社宅生活に戻ります。

環境的には、福岡時代と同じく
「社宅内の小さな公園で子どもたちが集まって遊ぶ」
という構図に戻りました。


ただ、福岡の社宅時代とは決定的に違うことが、
1つだけありました。

社宅に住む子ども(20人弱)のうち、
小3にして僕が最年長だったんです。

しかもその社宅は新設された直後だったので、
全員が初めましての状態からスタートです。

皆が楽しく遊べる環境を作るため、
僕がリーダーシップを取らなければなりませんでした。

ここで僕は爆速成長を遂げます。

「昔の自分みたいな、怯えてしまう子が出ないようにしたい。」
「みんなが楽しく過ごせるために、自分が一肌脱ぎたい」

過去の経験からそんな想いが強かったので、
ひたすら毎日試行錯誤して場を回しました。

小学4年生になる頃には子どもたちのマネジメント方法も分かってきて、
名実ともに「社宅のリーダー」として、
みんなから厚い信頼を置いてもらえるようになっていました。

社宅に住む親御さんたちからも、
「いつも面倒を見てくれてありがとう。
 たけゆうはもう、第2のパパだと思ってるよ」

という嬉しい言葉もかけてもらえるようになりました。

こうなると、嬉しいし、マネジメントが楽しくてしょうがありません。

同時に「誰かに頼られる・役に立つ・認められる」ということが、
僕の人生の「初めての快楽」となります。

その感情を持ってからは、早かったです。

  • 人から褒められることをする。

  • 周りのニーズ・期待に応える

こればかりをする人間になりました。
そうなると、必然的に僕は様々なことに努力し、
結果を出すことに執着する人間になっていきます。

次の中学編、
この思考がすさまじくエスカレートする羽目になります。。。

「地域一ビビりだった僕が、中学のカースト最上位に君臨する」
そんな不思議な旋風が巻き起こっていきます。

なので次回もぜひ、お楽しみに!!!!

今回も、見てくれてありがとう!!!!!!!!!!


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